「芦名定道他著『脳科学は宗教を解明できるか?』」
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2014年3月の比較思想研究第40号170-171頁(比較思想学会)に掲載された、芦名定道他編著『脳科学は宗教を解明できるか?』(春秋社、2012年)の書評です。
書評
芦名定道他著『脳科学は宗教を解明できるか?』(平山担当)
近年の脳科学の発展によって、心を脳内過程に還元し、神との合一や悟りの体験までも物理現象として解明してしまうように見える。そこにはもう、科学で捉えきれない神秘の余地はないのだろうか、という問題関心から編まれた本書は、宗教・宗教体験と脳科学との関り方について、<両者の対話をすすめ、建設的な関係を構築しようとする立場>のもとで、「脳科学は宗教哲学に何をもたらしたか」(第1章・芦名定道)、「脳科学や精神医学からみた宗教体験とその意味」(第2章・杉岡良彦)、「『宗教体験の脳科学的解明』批判―虚妄分別を超えて」(第3章・藤田一照)、「宗教体験と脳科学の関係史」(インタールード・松野知章)、「概念枠としての物質と心―思考不可能な場所からのまなざし」(第4章・冲永宜司)、「脳科学と宗教哲学を架橋する試み―エクルズとポパーの『自我と脳』再考」(第5章・星川啓慈)によって構成されている。
そこで各章の骨子は、まず第1章では、宗教学者である執筆者により、たとえ脳の物理過程が神のイメージを生み出すことが実証されるとしても、それは神の実在の否定には直結しないことが示され、第2章では、精神科医でもある執筆者が、宗教体験を脳に還元するのではなく、フランクルの次元的人間論に基づくことにより、神(超越者)を前提としつつも脳科学の研究結果を受け入れる可能性があると主張する。主にキリスト教を念頭においた前2章に対して第3章では、曹洞禅の実践者である執筆者が、縁起に基づく仏教の観点からすれば、脳という実体的概念そのものが虚妄分別による恣意的な限定の産物なのであるから、脳に特権性を認める脳科学のアプローチからは心の働きすべてを説明することは構造的に不可能であるとする。インタールードでは、「宗教」概念の成立、東西ローマ帝国の歴史から、コンピューターサイエンスや最近の「心の哲学」における議論までが整理されている。第4章は哲学者である執筆者により、意識が脳に還元されるという考え方の批判的吟味が行われている。「脳」も「心」も実在から抽象された概念であるが、概念にほかならない物体や物質およびそれらの諸性質を「実在そのもの」とみなすところに、根本問題があるとしている。第5章は、哲学者である執筆者が、「脳科学のデカルト」といわれるエクルズと、ポパーの「心脳相互作用論」を取り上げ、心と脳をつなぐものは言語であるという観点から、脳科学と宗教哲学の橋渡しを構想している。
全体としては評者が漠然と有していた印象と同じ結論となっていて、やっぱりそうか、という読後感なのだが、それは自己の認識の精緻化以上のものではないとも言える。無い物ねだりかもしれないが、あくまで脳科学で一切が解決できる、という立場の論文も読みたかったと思う。