福沢の弟子にして新聞人・実業家・外交官・政治家、波多野承五郎
このテキストについて
平山氏の依頼により、11月2日3日の両日茨城県水戸市茨城大学で開催された日本思想史学会2019年度大会での口頭発表「福沢の弟子にして新聞人・実業家・外交官・政治家、波多野承五郎」(11月3日)の資料と音声をアップロードします。
この発表について、平山氏より次のようなメールが届いています。
なお発表後、いくつかの質問がありました。
まず頼住光子東京大学教授からの質問は、『福沢から波多野への書簡は存在しないとの事だが、それ以外の証拠から福沢が日本外交に影響を与えていたとは考えられないか』というものでした。
それに対しては、『あくまで想像だが、それは十分に考えられる。書簡がないのは日本外交のコンフィデンシャルな部分に関係していたからで、福沢の外交への関与の度合いは従来考えられていたより深いのではないか。ただ、証拠は残っていないので、あくまで想像にとどまる。はじめは私は外務省本省とは無関係に波多野へ指示を送っていたのではないかと考えていたが、裏では井上馨外務卿との連携があったのだろう。1884年の福沢のキリスト教容認が鹿鳴館外交と呼応関係にあったように』とお答えしました。
続いて下川玲子愛知学院大学教授からの質問は、『資料を見るとずいぶん簡単に外交官に転身しているが、当時の官僚の人事はどのようなものだったのか』というものでした。
それに対しては、『波多野外交官時代は、いわゆる外交官試験の実施前であり、官僚の人事は政治的な任命だった。明治14年政変は慶應系官僚の放逐が目的のひとつだったが、こと外務については人脈が残っていたのではないか』とお答えしました。
本文
① 郷里静岡県掛川市でもまったく知られていない波多野承五郎
本発表は福沢の弟子で新聞人・実業家・外交官にして政治家でもあった波多野承五郎(1858~1929)の生涯をたどることで、明治・大正時代の政治・経済の裏面史探求を目的とした平成31年度(令和元年度)静岡県立大学教員特別研究推進計画「掛川が生んだ新聞人・実業家・外交官・政治家、波多野承五郎の研究」のうち、外交官時代の波多野の動向を明らかにするものである。
波多野の名前は今日ではまったく忘れられている。福沢から波多野にあてた書簡が1通も残されていないこともあって、福沢研究者の視野にも入っておらず、謎の人物とされているのである。
② 波多野承五郎の生涯
1858年(安政5年) | 掛川城下の町奉行屋敷にて波多野半蔵の長男として誕生 |
1869年(明治2年) | 掛川藩の英語学校に入学 |
1871年(明治4年) | 慶應義塾入塾 |
1876年(明治9年) | 慶應義塾卒業 |
1878年(明治11年) | 三菱会社入社 |
1879年(明治12年)12月 | 三菱会社退社 |
1882年(明治15年)3月 | 『時事新報』の創刊と共に在社して社説を担当 |
1884年(明治17年)7月 | 外務省公信局に出仕 |
1885年(明治18年)5月 | 領事に任ぜられる |
1885年(明治18年)6月 | 清国天津に赴任 |
1888年(明治21年)5月 | 帰朝を命ぜられる |
1888年(明治21年)8月 | 帰朝後政務課勤務、同月外務書記官 |
1890年(明治23年)3月 | 総務局政務課課長心得 |
1890年(明治23年)4月 | 辞表提出、受理 |
1890年(明治23年) | 第1回衆議院議員総選挙に立候補し落選、『朝野新聞』入社 |
1892年(明治25年) | 『朝野新聞』の社長兼主筆 |
1893年(明治26年) | 『朝野新聞』退社、三井銀行に移る |
1918年(大正7年) | 三井銀行退社 |
1920年(大正9年) | 第14回衆議院議員総選挙で当選(立憲政友会・栃木4区) |
1924年(大正13年) | 衆議院議員辞職 |
1929年(昭和4年) | 死去 |
本発表で主として扱うのは1884年7月から1890年4月までの外交官時代である。この時期の『時事新報』の清国関連記事には、天津領事であった波多野からもたらされた情報が多く含まれているように見受けられる。
③ 現行版『福澤諭吉全集』の「時事新報論集」を単なる社説集として扱う
本発表で扱う主たる素材は『時事新報』に掲載された社説であるが、現行版『福沢全集』収録分についてはそれらが福沢の思想とみなされてきたという経緯がある。
現行版『福沢全集』の「時事新報論集」を福沢の思想として取り扱うことの問題は、2001年(平成15年)以来発表者が常に指摘してきたことである。すなわち、従来までの福沢研究は現行版『全集』(1959~1964)に基づいて立論されてきたが、そのもとになっている昭和版『続全集』の「時事論集」は弟子の石河幹明が選んだもので、福沢没後の政治的現実と矛盾する社説は基本的に採録されていない。
現行版『全集』の絶大な権威のため、この問題の真相は明らかにされてこなかった。
④ 「『時事新報』社説・漫言一覧」と「デジタルで読む福澤諭吉」による研究の跳躍
現行版『全集』の「時事新報論集」への社説採録への全面的疑問を初めて表明したのは平山洋『福沢諭吉の真実』(2004)であった。その内容をかいつまんで言うと、事実上の編纂者である石河幹明は無署名である社説を福沢の関与如何によって行ったのではなく、満州事変直後、すなわち1930年代初頭の時代状況に適合的な社説を優先させて採録していたのである(そのため石河幹明著『福澤諭吉伝』〔1932〕と『続全集』〔1933、34〕以後、アジア侵略論者としての福沢という像が強調されるようになった)。
要するに現行版『全集』「時事新報論集」の社説採録はデタラメであり、それだけを読んだところで福沢の真意は分からないということである。
福沢の真意はどこにあるのか。それは『時事新報』バックナンバーの中にある、ということになるが、それらを読むのは容易ではなかった。縮刷版を所蔵している図書館は少なく、また目当てをつけるための総目録も存在しなかったからである。
この状況は2010年になって劇的に改善された。慶應義塾編『福澤諭吉事典』に「『時事新報』社説・漫言一覧」が掲載され、福沢存命期(1882~1901)社説の全タイトルと全集への採否が明らかになったのである。また、同時期にネット上で公開された「デジタルで読む福澤諭吉」(慶應義塾主宰)により、福沢名で刊行された全著作(ほぼ現行版『全集』第7巻まで)の語彙検索ができるようになった(このサイトは社説の真偽判定に役立つ)。
さらに2013年以降、平山を研究代表者とする科研費「福沢健全期『時事新報』社説起草者判定」の進捗により、全集未収録社説のテキスト化とネット上での公開が図られたため、従来まではまったく望み得なかった、全集に入っていない社説の語彙検索が可能となった。
こうして福沢起筆の時事新報社説を抽出するための準備は整えられつつあるのであるが、本発表は福沢研究からはいったん離れて社説を単なる素材として扱い、『時事新報』の清国関連社説と波多野との関係を探ることにする。
⑤ 波多野外交官期(1884・7~1890・4)『時事新報』中の清国関連社説
ここで『時事新報』中の清国関連社説とは、同紙「時事新報」欄(社説欄と通称)に掲載された論説のうち、清国(支那)に言及しているもの総てをさす。
『時事大勢論』(1882)から『実業論』(1893)までの単行本は「時事新報」欄に掲載されたので社説に属するが、『福翁百話』(1896)以降は特別欄掲載のため含まれない。
現行版『全集』収録分については第21巻所収の「福澤諭吉年譜」による。『時事新報』掲載社説のうち、「脱亜論」など著名な社説を除いて「清」「支那」(または中国の地名)が表題に使用されているものを採録した。全文検索は個人では不可能なので、全集収録済で「清」や「支那」が使用されている社説は他にも多数あると推測できる。全集未収録社説については平山洋のサイト「福沢健全期『時事新報』社説起草者判定」の語彙検索(清・支那)による。こちらは機械的に選別するので全部である。
本発表では波多野が外務省に勤務していた1884年7月から1890年4月までの5年9ヶ月の間に掲載された社説総てを対象とする。この期間の社説総数はおおよそ1940日分である。
波多野外交官期(1884・7~1890・4)『時事新報』中の清国関連社説一覧(333編)
掲載年月日 | 社説題名 | 全集収録状況 | 使用地名中国関連 |
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18840703 | 支那帝國海軍の將來如何 | 全集未収録 | 支那 |
18840704 | 支那帝國海軍の將來如何前號の續 | 全集未収録 | 支那 |
18840705 | 支那帝國海軍の將來如何前號の續 | 全集未収録 | 支那 |
18840707 | 支那政府の失敗支那人民の幸福 | ⑨548 | 支那 |
18840708 | 公侯伯子男 | 全集未収録 | |
18840709 | 支那の鉄道 | 全集未収録 | 支那 |
18840710 | 西洋人と支那人と射利の勝敗如何 | ⑨551 | 支那 |
18840711 | 西洋人と支那人と射利の勝敗如何昨日の続 | ⑨554 | 支那 |
18840714 | 清佛兩國の葛藤再び起る | 全集未収録 | 清 |
18840715 | 清佛兩國の和戰如何 | 全集未収録 | 清 |
18840725 | 佛國の要求 | 全集未収録 | |
18840807 | 日本に鉄道は無用なり(昨日の續) | 全集未収録 | |
18840808 | 清佛の談判破裂したり | 全集未収録 | 清 |
18840809 | 朝鮮に在る日本の利害は決して軽少ならず | ⑩8 | |
18840811 | 佛国戦を台湾に開く | ⑩12 | |
18840813 | 支那外交官の苦心 | 全集未収録 | 支那 |
18840814 | 國力の平均恃むに足らず | 全集未収録 | |
18840818 | 〓〓正に極まる | 全集未収録 | |
18840820 | 支那國の運命 | 全集未収録 | 支那 |
18840822 | 英國は親むべし疎んずべからず | 全集未収録 | |
18840825 | 我國の局外中立 | 全集未収録 | |
18840826 | 佛蘭西と支那と戰爭の譯柄 | 全集未収録 | 支那 |
18840827 | 佛清事件臆測論 | 全集未収録 | 清 |
18840904 | 輔車唇歯の古諺恃むに足りず | ⑩30 | |
18840908 | 清朝の秦檜胡澹庵 | ⑩33 | 清 |
18840909 | 進むか退くか | 全集未収録 | |
18840911 | 清廷の忠臣は君命に違う可らず | 全集未収録 | 清 |
18840918 | 攻むる者防く者(昨日の續き) | 全集未収録 | |
18840924 | 支那を滅ぼして欧州平なり | ⑩42 | 支那 |
18840925 | 支那を滅ぼして欧州平なり昨日の続 | ⑩45 | 支那 |
18840926 | 佛清孰れか是耶非耶 | 全集未収録 | 清 |
18840927 | 支那風擯斥す可し | ⑩49 | 支那 |
18841013 | 人の己れを知らざるを憂ふ | 全集未収録 | |
18841015 | 東洋の波蘭 | ⑩72 | |
18841016 | 東洋の波蘭昨日の続 | ⑩75 | |
18841018 | 東隣の大統領 | 全集未収録 | |
18841101 | 耶蘇教国 | 全集未収録 | |
18841108 | 政治は其性質を見て是非を斷す可らず | 全集未収録 | |
18841111 | 日本は東洋國たるべからず | 全集未収録 | |
18841113 | 日本は東洋國たるべからず一昨日の續 | 全集未収録 | |
18841114 | 日本は東洋國たるべからず昨日の續 | 全集未収録 | |
18841119 | 英國政府の地位 | 全集未収録 | |
18841208 | 海軍擴張 | 全集未収録 | |
18841210 | 朝鮮の貿易 | 全集未収録 | |
18841211 | 百事都て西洋風たるを要す | 全集未収録 | |
18841215 | 朝鮮事変 | ⑩137 | |
18841216 | 何は差し置き保護せざるべからず | 全集未収録 | |
18841217 | 朝鮮国に日本党なし | ⑩141 | |
18841222 | 朝鮮革命政府の計畫 | 全集未収録 | |
18841223 | 朝鮮事変の処分法 | ⑩147 | |
18841224 | 支那兵士の事は遁辞を設るに由なし | ⑩151 | 支那 |
18841225 | 人に敬畏せられざれば國重からず | 全集未収録 | |
18841227 | 戦争となれば必勝の算あり | ⑩158 | |
18841229 | 榮辱の决する所此一擧に在り | 全集未収録 | |
18850105 | 談判は有形の實物を以て結了すること緊要なり | 全集未収録 | |
18850106 | 和戰共に支那を侮る可らず | 全集未収録 | 支那 |
18850107 | 日本を誣ひ日本を瞞着す | 全集未収録 | |
18850108 | 御親征の準備如何 | ⑩184 | |
18850109 | 國交際に外陪臣あるの筈なし | 全集未収録 | |
18850110 | 二度の朝鮮事變 | 全集未収録 | |
18850112 | 日本男兒は人に倚りて事を爲さず | 全集未収録 | |
18850113 | 朝鮮丈は片付きたり | ⑩187 | |
18850115 | 遣清特派全権大使 | ⑩192 | 清 |
18850116 | 支那の暴兵は片時も朝鮮の地に留む可らず | 全集未収録 | 支那 |
18850123 | 京城駐在日支の兵は如何す可きや | 全集未収録 | 支那 |
18850127 | 天下の大勢 | 全集未収録 | |
18850128 | 主戰非戰の別 | 全集未収録 | |
18850130 | 外交政治社會の日月 | 全集未収録 | |
18850202 | 國權擴張は政府の基礎たり | 全集未収録 | |
18850203 | フウト公使來る | 全集未収録 | |
18850204 | 支那との談判 | 全集未収録 | 支那 |
18850209 | 日清事件と佛清事件 | 全集未収録 | 清 |
18850210 | 在京城支那兵の撤回 | 全集未収録 | 支那 |
18850211 | 正當防禦怠るべからす | 全集未収録 | |
18850212 | 日本を知らざるの罪なり | 全集未収録 | |
18850213 | 朝鮮に行く日本公使の人撰 | 全集未収録 | |
18850214 | 未だ安心す可からす | 全集未収録 | |
18850216 | 朝鮮使節來る | 全集未収録 | |
18850217 | 支那談判に付き文明諸國人は必ず我意見を賛成す可し | 全集未収録 | 支那 |
18850220 | 英國は永久支那を庇蔭するものに非ず | 全集未収録 | 支那 |
18850221 | 留めんか遣らんか | 全集未収録 | |
18850223 | 朝鮮独立党の処刑 | ⑩221 | |
18850224 | 遣清大使 | 全集未収録 | 清 |
18850225 | 北京の談判 | 全集未収録 | 北京 |
18850226 | 朝鮮独立党の処刑23日の続 | ⑩224 | |
18850228 | 要求の程度は害辱の量に準ず | 全集未収録 | |
18850303 | 外交事情報道の必要・ | 全集未収録 | |
18850304 | 京城の支那兵は如何して引く可きや | 全集未収録 | 支那 |
18850307 | 條約改正と北京の談判 | 全集未収録 | 北京 |
18850310 | 日清談判、英國の喜憂 | 全集未収録 | 清 |
18850313 | 不換紙幣 | 全集未収録 | |
18850316 | 脱亜論 | ⑩238 | |
18850318 | 支那帝國に禍するものは儒教主義なり | 全集未収録 | 支那 |
18850319 | 朝鮮國 | 全集未収録 | |
18850321 | 佛國未來の成算果して如何 | 全集未収録 | |
18850322 | 佛國未來の威算果して如何(前號の續) | 全集未収録 | |
18850324 | 朝鮮の近状 | 全集未収録 | |
18850331 | 朝鮮變亂の禍源 | 全集未収録 | |
18850402 | 朝鮮國の獨立 | 全集未収録 | |
18850403 | 佛國内閣の更迭其影響如何 | 全集未収録 | |
18850404 | 歐洲政治上の形勢 FWE 投寄 | 全集未収録 | |
18850406 | 佛國内閣の更迭 | 全集未収録 | |
18850408 | 佛国の共和政治 | 全集未収録 | |
18850409 | ご發輦近きに在り | 全集未収録 | |
18850410 | 支那将官の罪 | 全集未収録 | 支那 |
18850411 | 朝鮮国の始末も亦心配なる哉 | ⑩253 | |
18850414 | 英国と魯国 | 全集未収録 | |
18850415 | 仏清の和議、支那の幸不幸 | 全集未収録 | 清支那 |
18850418 | 天津の談判落着したり | ⑩263 | 天津 |
18850420 | 仏旗の三色漸く褪せる | 全集未収録 | |
18850421 | 拂清の媾和は以て仏蘭西を軽重するに足らず | 全集未収録 | 清 |
18850422 | 天津条約 | ⑩265 | 天津 |
18850427 | 此不景気を如何せん | 全集未収録 | |
18850428 | 敬畏せられざるべからず | 全集未収録 | |
18850505 | 日本人の外國行は其利害如何 | 全集未収録 | |
18850506 | 第三回の佛清紛議 | 全集未収録 | 清 |
18850509 | 騎兵を養成すべし | 全集未収録 | |
18850513 | 今日の國是は如何 | 全集未収録 | |
18850526 | 轉地作富の習俗も亦大切なり | 全集未収録 | |
18850529 | 獨逸國の着實極まるは如何ん | 全集未収録 | |
18850603 | 外國貿易上の所知を廣くす可し | 全集未収録 | |
18850615 | 支那貿易に關係する日本の商民と商船 | 全集未収録 | 支那 |
18850616 | 佛清新天津条約 | ⑩295 | 天津 |
18850626 | 英國の東方政略昨日の續き | 全集未収録 | |
18850627 | 巨文島に関する朝鮮政府の処置 | ⑩312 | |
18850629 | 宗教不問の大義を忘る可らず | 全集未収録 | |
18850630 | 九州までの鉄道 | 全集未収録 | |
18850702 | 商人の知識を進むるに道あり | 全集未収録 | |
18850720 | 或人の直話 | 全集未収録 | |
18850722 | 己れを知らざる者は危し | 全集未収録 | |
18850808 | 利の付く金は遊ばせ置くべからず昨日の続 | 全集未収録 | |
18850813 | 朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す | ⑩379 | |
18850825 | 日本國の工藝 | 全集未収録 | |
18850829 | 處世の覺悟 | 全集未収録 | |
18850924 | 大院君の帰国 | ⑩436 | |
18851001 | 井上角五郎氏再び朝鮮に赴かんとす | 全集未収録 | |
18851008 | 白人遂に此地球を領す可し | 全集未収録 | |
18851022 | 開國雑居一日も遅疑すべからず | 全集未収録 | |
18851023 | 營業馬車の取締如何 | 全集未収録 | |
18851030 | 朝鮮の大院君帰国したり(1) | ⑩455 | |
18851031 | 朝鮮の大院君帰国したり(2) | ⑩458 | |
18851107 | 日本の新聞紙(一〇日まで計三回、八日休刊) | 全集未収録 | |
18851113 | 日本今日の外國交通は未だ十分ならず | 全集未収録 | |
18851212 | 支那人の擧動 | 全集未収録 | 支那 |
18851218 | 朝鮮の多事 | ⑩497 | |
18851219 | 朝鮮の事 | ⑩499 | |
18851221 | 生糸商會所を設くべし | 全集未収録 | |
18860106 | 朝鮮国小なるも日本との関係は小ならず | 全集未収録 | |
18860107 | 敵は国外に在り | 全集未収録 | |
18860114 | 請ふ其次を聞かん | 全集未収録 | |
18860121 | 支那人の英斷 | 全集未収録 | 支那 |
18860129 | 北海道廳 | 全集未収録 | |
18860204 | 支那招商局と日本郵船会社 | 全集未収録 | 支那 |
18860212 | 仁心仁聞ありて澤及ばず | 全集未収録 | |
18860225 | 山縣伯沖繩縣に出張す | 全集未収録 | |
18860226 | 正理は腕力に敵す可らず | 全集未収録 | |
18860305 | 日本國の海軍畧如何 | 全集未収録 | |
18860306 | 朝鮮事情 | 全集未収録 | |
18860308 | 朝鮮事情一昨日の續 | 全集未収録 | |
18860309 | 外國に行く者は其往くに任す可し | 全集未収録 | |
18860310 | 人往かざれば船も亦往く可らず | 全集未収録 | |
18860311 | 米國と支那との紛議 | 全集未収録 | 支那 |
18860324 | 日本國の鐵道事業九 | 全集未収録 | |
18860330 | 日本國の鉄道事業十三 | 全集未収録 | |
18860402 | 日本國の鐵道事業 十五 | 全集未収録 | |
18860419 | 南京米の受渡 | 全集未収録 | |
18860423 | 人を以て装飾品と爲すの風習 | 全集未収録 | |
18860426 | 肉食を盛んにすること易し前號の續き | 全集未収録 | |
18860429 | 支那政府の外交政略 | 全集未収録 | 支那 |
18860608 | 國の商賣は國交際上に利用すべき者に非ず | 全集未収録 | |
18860609 | 日本人の海外移住 | 全集未収録 | |
18860610 | 日本人の米國に歸化の事 | 全集未収録 | |
18860619 | 日本條約改正の影響 | 全集未収録 | |
18860708 | 士人歸商論高橋義雄 | 全集未収録 | |
18860717 | 米は損なり昨日の續 | 全集未収録 | |
18860731 | 去就進退を決すべし | 全集未収録 | |
18860804 | 日本酒税 | 全集未収録 | |
18860807 | 新聞難 | 全集未収録 | |
18860819 | 長崎の支那軍艦 | 全集未収録 | |
18860821 | 薩摩沖縄間の海底電線 | 全集未収録 | |
18860823 | 目下新聞紙の記事論説は如何して可ならん | 全集未収録 | |
18860827 | 支那外交官に一言 | 全集未収録 | 支那 |
18860831 | 改良を要するものは演劇のみならず | 全集未収録 | |
18860901 | 支那人の活溌なるは文明の利器に由るものなり | 全集未収録 | 支那 |
18860902 | 今後支那帝國の文明は如何なる可きや | 全集未収録 | 支那 |
18860904 | 政策二つ進むと退くとのみ | 全集未収録 | |
18860908 | 朝鮮の國難は日本の國難なり | 全集未収録 | |
18860909 | 直に釜山京城間の電線を架設せしむ可し | 全集未収録 | |
18860910 | 朝鮮の内憂は日清兩國の福に非ず | 全集未収録 | 清 |
18860911 | 養才論 | 全集未収録 | |
18860917 | 太平洋電線は小笠原島を經るを要す | 全集未収録 | |
18860924 | 露國の攻略 | 全集未収録 | |
18861006 | 朝鮮人の小計略は日本人の患なり | 全集未収録 | |
18861007 | 英語の流行 | 全集未収録 | |
18861008 | 支那水兵暴行の談判 | 全集未収録 | 支那 |
18861013 | 支那の貿易 | 全集未収録 | 支那 |
18861014 | 支那の貿易(前號の續) | 全集未収録 | 支那 |
18861015 | 外交の輕重は實利に在て存す | 全集未収録 | |
18861016 | 養蠶は國權の根本たる可し | 全集未収録 | |
18861019 | 支那の交際亦難い哉 | 全集未収録 | 支那 |
18861029 | 米國貿易家の進路(前號の續) | 全集未収録 | |
18861103 | 相塲の陋風は一掃す可し商賣社會の安寧は重んぜざる可らず | 全集未収録 | |
18861106 | 英船ノルマントン號の沈沒 | 全集未収録 | |
18861117 | ノルマントン號事件の輕重如何 | 全集未収録 | |
18861120 | 國の面目を重んずる人の注目すべきはノルマントン號の外にも其事あり | 全集未収録 | |
18861122 | 長崎の事變忘る可らず | 全集未収録 | |
18861125 | ノルマントン難破事件に關し日本國民の擧動は非難すべき所なし | 全集未収録 | |
18861127 | 偉なる哉英國人の擧動 | 全集未収録 | |
18861204 | 支那との交際 | 全集未収録 | 支那 |
18861206 | 社會時勢の變化すべきを思へ | 全集未収録 | |
18861209 | 日本と濠洲との貿易 | 全集未収録 | |
18861210 | ノルマントン號事件裁判落着 | 全集未収録 | |
18861222 | 日本人と支那人 | 全集未収録 | 支那 |
18861223 | 獨逸の東洋政略如何 | 全集未収録 | |
18861227 | 養蠶製糸の業 | 全集未収録 | |
18870106 | 朝鮮は日本の藩屏なり | ⑪175 | |
18870110 | 英國商人に一振を望む | 全集未収録 | |
18870129 | 巨文島抛棄の事如何 | 全集未収録 | |
18870203 | 長崎事件、支那の外交官に告ぐ | 全集未収録 | 支那 |
18870224 | 朝鮮國王退位の風説井上角五郎 | 全集未収録 | |
18870226 | 日本商人の品位福澤一太郎 | 全集未収録 | |
18870228 | 我士民に海外移住を勸告す | 全集未収録 | |
18870305 | 半生の學術何の用をか爲す | 全集未収録 | |
18870311 | 移住の氣風 | 全集未収録 | |
18870402 | 商家の心得前號の續 | 全集未収録 | |
18870413 | 移住は我國に利益ありて弊害なし | 全集未収録 | |
18870512 | 養蠶論 | 全集未収録 | |
18870525 | 閔泳翊氏復た朝鮮に歸り來らんとす | 全集未収録 | |
18870604 | 先づ綿小麥の耕作を廢すべし | 全集未収録 | |
18870608 | 生絲需用將來の望み | 全集未収録 | |
18870609 | 生絲需用將來の望み (前號の續き) | 全集未収録 | |
18870610 | 生絲市塲將來の望み(前號の續き) | 全集未収録 | |
18870615 | 外國商賣の事は外交政略の外にす可し | 全集未収録 | |
18870713 | 商人旅行の氣習 | 全集未収録 | |
18870720 | 支那論 | 全集未収録 | 支那 |
18870721 | 支那論(前號の續き) | 全集未収録 | 支那 |
18870722 | 支那論(前號の續き) | 全集未収録 | 支那 |
18870723 | 支那論(前號の續き) | 全集未収録 | 支那 |
18870802 | 何をか文明と云う | 全集未収録 | |
18870808 | 土地相應の事業に從事す可し | 全集未収録 | |
18870825 | 教育を政治の外に置くべし | 全集未収録 | |
18870826 | 教育を政治の外に置くべし(前號の續き) | 全集未収録 | |
18870827 | 支那の新立銀行は日支の貿易に關係あり | 全集未収録 | |
18870901 | 歐亞鐵道計畫の三大線路 | 全集未収録 | |
18870902 | 歐亞鐵道計畫の三大線路(前號の續) | 全集未収録 | |
18870903 | 日本社會論 | 全集未収録 | |
18870908 | 歐洲列國の大勢(前號の續き) | 全集未収録 | |
18870910 | 歐洲列國の大勢(前號の續き) | 全集未収録 | |
18870912 | 歐洲列國の大勢 (前號の續き) | 全集未収録 | |
18870916 | 歐洲列國の大勢 (前號の續き) | 全集未収録 | |
18870924 | 支那朝鮮の外國交際 | 全集未収録 | 支那 |
18870929 | 露國大に商賣上の與國たる可し | 全集未収録 | |
18870930 | 日本支那の貿易 | 全集未収録 | 支那 |
18871013 | 節儉の主義民間に及ぶ可らず | 全集未収録 | |
18871114 | 英國東洋の航路 | 全集未収録 | |
18871115 | 英國東洋の航路(昨日の續き)渡邊生 | 全集未収録 | |
18871119 | 露國東洋政略の〓状 | 全集未収録 | |
18871120 | 露國東洋政略の近状(前號の續き) | 全集未収録 | |
18871122 | ヴンクーヴー汽船航路と日本との關係 | 全集未収録 | |
18871123 | ヴンクーヴー汽船航路と日本との關係(前號の續)志賀 重昂 | 全集未収録 | |
18871124 | 米國よりの輸入を促す可し | 全集未収録 | |
18871126 | 倫敦タイムスの英國東洋航路論 | 全集未収録 | |
18871214 | 僧侶は蠶業の奬勵者たるべし | 全集未収録 | |
18871216 | 機會空ふす可らず | 全集未収録 | |
18871228 | 太平洋海底電線工事 | 全集未収録 | |
18880110 | 支那近状 | 全集未収録 | 支那 |
18880129 | 米價論前號の續き | 全集未収録 | |
18880131 | 米價論前號の續き | 全集未収録 | |
18880201 | 支那に關する西洋人の意見 | 全集未収録 | 支那 |
18880203 | 支那に關する西洋人の意見 | 全集未収録 | 支那 |
18880208 | 法律復古の色あり | 全集未収録 | |
18880228 | 製造品の輸出 | 全集未収録 | |
18880309 | 生命保全會社創立 | 全集未収録 | |
18880310 | 東京明渡の結果如何 | 全集未収録 | |
18880313 | 無用の人を如何にすべきや | 全集未収録 | |
18880402 | 名を好むの熱慾を節す可し | 全集未収録 | |
18880519 | 支那の鐵道と日本の鐵道 | 全集未収録 | 支那 |
18880529 | 肥料論 | 全集未収録 | |
18880616 | 今の米國は尚未だ近からず | 全集未収録 | |
18880705 | 日本婦人の眞似洋服ドクトルセメンズ原文の譯 | 全集未収録 | |
18880711 | 德育の説 | 全集未収録 | |
18880717 | 米國商賣 | 全集未収録 | |
18880725 | 上海事變 | 全集未収録 | |
18880727 | 米國大統領の候補定まる | 全集未収録 | |
18880809 | 露國の西比利亞政策 | 全集未収録 | |
18880825 | 支那人拒絶 在ボーストン某生 | 全集未収録 | 支那 |
18880828 | 人 品 論 在ボーストン某生 | 全集未収録 | |
18880908 | 侮る可からず | 全集未収録 | |
18880912 | 製〓權の疑問 | 全集未収録 | |
18880914 | 歸朝記事(前號の續) 福澤一太郎氏英文の翻譯 | 全集未収録 | |
18880921 | 英佛獨三國の太平洋占略(前號の續き) | 全集未収録 | |
18881016 | 政事を以て私に殉する勿れ | 全集未収録 | |
18881019 | 文學の隆盛は經世の爲に祝すべきや否や | 全集未収録 | |
18881029 | 歐人遂に日本に向て行遊列車を發するの日あるべし | 全集未収録 | |
18881105 | 軍器を米國に需むべし | 全集未収録 | |
18881110 | ハリソン氏の政策(昨日の續き) | 全集未収録 | |
18881123 | 在外公館の數 | 全集未収録 | |
18881127 | サイベリヤ鐵道は一種の運河鐵道なり | 全集未収録 | |
18881206 | 我日本は海國なり | 全集未収録 | |
18881214 | 東洋問題 | 全集未収録 | |
18881215 | 東洋問題 | 全集未収録 | |
18881217 | 東洋問題(一昨日の續) | 全集未収録 | |
18881218 | 東洋問題 | 全集未収録 | |
18881219 | 東洋問題 | 全集未収録 | |
18881220 | 東洋問題 | 全集未収録 | |
18890107 | 朝鮮の獨立 | 全集未収録 | |
18890116 | 酒茶煙草珈琲の功能 | 全集未収録 | |
18890118 | 巴奈馬運河會社 | 全集未収録 | |
18890204 | 忠孝論 | 全集未収録 | |
18890205 | 立君政統論 | 全集未収録 | |
18890322 | 支那人の來住は條約改正の故障と爲らず | 全集未収録 | 支那 |
18890509 | 佛蘭西人一 | 全集未収録 | |
18890522 | 巴奈馬地峽開鑿工事の中止を憾む | 全集未収録 | |
18890530 | 西洋の萬國博覽會 | 全集未収録 | |
18890819 | 西尊東卑(一昨日の續) 高 橋 義 雄 | 全集未収録 | |
18890820 | 西尊東卑(昨日の續) 高 橋 義 雄 | 全集未収録 | |
18890821 | 西尊東卑(昨日の續) | 全集未収録 | |
18890921 | 鐵道の利用を吝む勿れ | 全集未収録 | |
18891001 | 郵便條例改正の實施 | 全集未収録 | |
18891031 | 社會の風景を殺了する勿れ | 全集未収録 | |
18891216 | 國帽の説 | 全集未収録 | |
18891218 | 工業家油斷す可らず | 全集未収録 | |
18900127 | 利談 | 全集未収録 | |
18900212 | 朝鮮の防穀事件 | 全集未収録 | |
18900221 | 貧富不平均を咎むる勿れ | 全集未収録 | |
18900222 | 富者ますます富むは今日に在り | 全集未収録 | |
18900314 | 富國強兵 | 全集未収録 | |
18900327 | 兵備の足らざるを憾む勿れ | 全集未収録 | |
18900414 | 國會議員の交際法 | 全集未収録 | |
18900419 | 財政整理、貸下金の處分 | 全集未収録 | |
18900429 | 商權回復の實手段 | 全集未収録 | |
18900513 | 商業上の國是、英吉利の事例 | 全集未収録 | |
18900604 | 朝鮮近海不穩の風説 | 全集未収録 |
これらの『時事新報』清国関連社説のうちどこまでが波多野からの情報に基づいているのかは、情報源の秘匿の原則によって文面からは分からない。そうではあるが、国立国会図書館とアジア歴史資料センターが収蔵している外務省関連文書中での波多野への言及と突き合わせることで、波多野の動向と『時事新報』の論調との関係を明らかにすることが可能である。
⑥ 国会図書館所蔵資料にみる波多野と時事新報社説との関係
外交官時代の波多野については、1890年の第1回衆議院議員選挙に立候補した際にまとめられた「波多野承五郎君小伝」に次のようにある。
波多野承五郎君が去る十七年に官界に入り政務の経験を得んと欲するに、特に外務省を択みて身を置くの地とせるも亦た意の此に存するものありと云ふ。而して君、外務の本省にある事殆んど一年にして在清国天津の領事たりしも、凡そ我国の外交中至難の局は亜細亜の政略にありて存するより他の欧米諸邦に至るを謝絶して特に天津に赴かんとことを求めたるによれりと云ふ。蓋し天津は文華殿大学士直隷総督北洋通商大臣伯李鴻章の駐在地にして、殆んど亜細亜外交の中心とも称すべき所なれば、君が此地に領事として駐箚するハ其実使臣の事を助成せしめんと欲するの意ありたるが如し。聞く君が天津の在任中、朝鮮善後策に付き、大院君放還の議に付き、長崎の水夫争闘事件に付き、李鴻章伯と尊俎の間に折衝し、外交事務を助成せるの功頗る大なりと。然れども君が在任中の功績は独り外交尊俎の間にのみ存するにあらず。赴任以後、日本郵船会社に説きて長崎天津間の新航路を開きたるより、天津貿易は我が通商世界の輿論となり、三井物産物産会社大倉組を首とし大坂長崎の諸商皆な競ふて物産を北清に輸入し、大に商品販路の拡張を謀りたるが如き、皆な君の奨励に出でざるはなし。君在任中北清の貿易を調査して一部の貿易論を著ハしたれとも、草稿未定に属するにより今尚ほ君の筐底に存すと聞く。然れども君が四年間の経験を積み深思熟慮して起草せるもの、豈に草稿未定の故を以て永く筐底に存せしむべけんや。余輩有志者等君に請ふて之れを世に公にせんとす。君果して之を許すや否や。(「波多野承五郎君小伝」19~20頁〔国立国会図書館デジタル資料〕)
この「小論」には天津在任中の波多野の事績として、①朝鮮善後策・②大院君放還・➂長崎の水夫争闘事件・④長崎天津間の新航路開設・⑤貿易論の執筆、の5つが挙げられている。このうちの⑤は、1894年7月刊行の『北支那朝鮮探検案内』(時事新報記者杉山虎雄との共著・林書房)のことと考えられる。①から④までは次に検討する。
波多野天津在任中「天津」使用社説
掲載年月日 | 社説題名 | 全集収録状況 | 小伝類別 |
---|---|---|---|
18850615 | 支那貿易に關係する日本の商民と商船 | 全集未収録 | ④ |
18850924 | 大院君の帰国 | ⑩436 | ② |
18851030 | 朝鮮の大院君帰国したり(1) | ⑩455 | ② |
18851031 | 朝鮮の大院君帰国したり(2) | ⑩458 | ② |
18851218 | 朝鮮の多事 | ⑩497 | ① |
18851219 | 朝鮮の事 | ⑩499 | ① |
18860204 | 支那招商局と日本郵船会社 | 全集未収録 | ④ |
18860908 | 朝鮮の國難は日本の國難なり | 全集未収録 | ① |
18860909 | 直に釜山京城間の電線を架設せしむ可し | 全集未収録 | |
18860910 | 朝鮮の内憂は日清兩國の福に非ず | 全集未収録 | ① |
18861008 | 支那水兵暴行の談判 | 全集未収録 | ➂ |
18861013 | 支那の貿易 | 全集未収録 | |
18861019 | 支那の交際亦難い哉 | 全集未収録 | |
18861222 | 日本人と支那人 | 全集未収録 | |
18870106 | 朝鮮は日本の藩屏なり | ⑪175 | ① |
18870110 | 英國商人に一振を望む | 全集未収録 | |
18870525 | 閔泳翊氏復た朝鮮に歸り來らんとす | 全集未収録 | ① |
18870615 | 外國商賣の事は外交政略の外にす可し | 全集未収録 | |
18870713 | 商人旅行の氣習 | 全集未収録 | |
18870720 | 支那論 | 全集未収録 | |
18870723 | 支那論(前號の續き) | 全集未収録 | |
18870929 | 露國大に商賣上の與國たる可し | 全集未収録 | |
18880110 | 支那近状 | 全集未収録 | |
18880519 | 支那の鐵道と日本の鐵道 | 全集未収録 |
波多野が上表に掲げた社説すべてに関与していたかどうかは分からない。とはいえ、「小伝」中の記述と整合性の高い社説については関与濃厚とみてよいように思われる。次にそのうちいくつかを紹介する。
①朝鮮善後策、について
朝鮮の内憂は日清兩國の福に非ず(1886年9月10日付・全集未収録)
古來亡國の跡を見るに其近因は内憂外患の二者にあり而して内憂常に之れが主と爲り迫て外患の客を誘致するものゝ如し内に憂無きものは外患も左まで恐るゝに足らず或は爲めに人心を奮勵するの功能もあり敵國外患なきものは國常に亡ぶとは此意味ならん若し夫れ内に憂あるに當りて敵患近く我に迫り國中不平の徒或は内應の意を表し或は其力を假りて我が輿みし易きを示す時は亡國の端爰開けて復た之を閉づ可らざるなり支那の五代および趙宋の世には權臣時に位を爭ひ互に相陷持せんとして或は北虜の力を假り或は賄賂を以て之れに媚ぶる等屡々我弱を示したるが故に忽ち其亡ぼす所と爲りたり波蘭にては貴族人民と相爭ひ内訌百端時に隣境を騷がす程なりしかば忽ち露獨墺の三國に見込まれて其三分する所と爲れり近くは彼の安南の如き廷臣互いに權を爭ひ屡々國王を廢立し或は之を弑する等内の鬪爭に忙はしかりしかば佛國輒ち其際に乘じて之を其保護國と爲すに至れり内憂能く外患を招きて遂に其亡國を促し古來の例證其一班を見る可きなり我輩熟々近時朝鮮國の有樣を見るに權臣の紛爭頻年堪えず明治十五年大院君の亂と云ひ同十七年金玉均朴泳孝の變と云ひ又近日京城の混雜と云ひ其事の輕重義に合ふと否とに論なく畢竟幾場の内訌にして一變一亂醜を天下に傳へ興國には共に爲すに足らざるを示し敵國には其輿みし易きを知らしむ、其然る所以のものは樣々の事情もあらんと雖ども詰り國民の無氣力無見識、國是を一定して上下之れに遵ふこと能はざるが故なり日本開國の後は尊王の一主義を以て人心を貫き大抵の不平紛擾は尊王主義にめんじてこれを抑へ上下一心能く維新の功を成したるなれども朝鮮にては事大と云ひ獨立と云ふの其主義は一二人の主義にして國中の人心に對しては最上〓を占むると能はざるが故に人々個々其志を伸べんとして不平紛擾已むことなく實に鹿を遂ふものは山を見ずの喩に洩れず頭を擧げて隣國の形成を觀望するに暇あらずして歩々亡國の跡を履むは氣の毒千萬の事どもなり
左るにても不審なるは支那政府の擧動なり同政府は今日にても例の通り朝鮮爲中國所屬之邦の辭柄を握り居るや如何は姑らくは問はず朝鮮は境を露國に接して實に東洋の要衝なり一旦露國之を奪ふて冬時不凍の良港を得ば東洋全面の福に非ざる可きに目下在朝鮮支那外交官の擧動を見れば或は朝鮮の權臣私爭の事を知るものゝ如く其政治上の詭計は小説の上乘に入り朝鮮を以て恰も想像畫の稽古場と爲すにやあらん今回も大院君をして李袁二氏朝鮮上下を玩弄する日已に久しとの嘆を發せしまえたるが如き是れ果して支那の福か、八月二十二日時事新報京城通信員の報に據れば在朝鮮露國公使館にては先般支那公使袁世凱氏の虚言より城内從擾せし以來新に護衞兵を置き度由を申し居れり代理公氏ウェーバー氏は現に其兵卒の送方を本國政府へ申出でたり云々とあり公使館護衞兵とあれば其數も亦寡少ならんとは思はるれども今後其兵卒が朝鮮國に入り來り何か内訌の都合抔ある時に朝鮮の或る黨派より此兵の力を假る等の出來事も有りたらんには朝鮮の危急存亡は云ふに及ばず恐らくは日清兩國の利害にも大關係を及ぼすなる可し而して今日露國をして兵を京城に駐屯せしむるの端を開きたるは在朝鮮の支那外交官なりと云はるゝも遁るゝに辭なかる可し彼の李鴻章は頗る大局に明なりと稱し天津に在て隱然朝鮮攻略を支配しながら個ばかりの利害を知らざる者歟、或は之を知て別に大に企る所のものある歟、我輩はいよいよ之を思ふていよいよ不審に堪へざるなり兔に角に朝鮮の存亡は東洋諸國に對して其影響の利害實に甚だ大なるものなり我輩は朝鮮を如何するやの疑問に就て速かに東洋外交官の熟慮を謂はざるを得ざるなり
➂長崎の水夫争闘事件、について
支那水兵暴行の談判(1886年10月8日付・全集未収録)
先般長崎に起りたる支那水兵の暴行事件は名の如く水兵の暴行たるを内外人の認め知る所なれば此事件を處分する法、豈他あらんや支那水兵は固より治外法権の外國人民なれば長崎裁判所の檢事は其暴行の始末を調査して相當の求刑書を同地の支那領事に廻付し領事をして事實を按じて夫れぞれ暴行者を懲罰せしむ可〓筈にして誠に正當明白の事なら斯くて支那領事は此正當明白の要求に應ずること勿論ならんと雖ども若し萬一にも異常不順當の廻答に〓も爲〓〓あらんには事、地方談判の範圍外に出て両大政府の外交官、國交際上の問題として更に大に談判する所な〓る可からず然るに當初我檢事は支那領事に對して求刑書を送りたる様子なりしが此際長崎縣知事は支那領事と談判することと爲り其談判凡そ三回に及ぶ比に忽ち又之を中止し先方よりは新に代言人を送ることと爲り此方よりも亦其向〓の人を派遣して改めて之を事實調査委員として水兵暴行事件の關係人を調査する由なれども當時暴行したる支那水兵は悉く長崎に滞留する〓にてはなく早く己に歸國して今は其所在さえ知らざる向きもある程の次第なれば此度の事實調査には日本人のみを呼出し支那方の代言人〓〓〓ら日本人の口供を取ることに從事し居るものの如く斯く日本人のみを詮議する時は暴行水兵及び其暴行に助力したる居留支那人等は豫め日本人の主として言張る所を知りて他日之れに答える〓柄を捏造する〓を得るのみならず支那方の代言人が法律に深〓らざる日本人民を詮議して其口供を押ゆる時は其人々の口供中にて彼の方に利する箇條を摘發し得ることも難きに非ず所謂舞文〓織にして尾に尾を附し枝に枝を生えて當初簡單明白なる談判も次第に紛〓交錯して遂に我に不利なることなきを保つ可からず畢竟此事件の初に當り尋常正當の法を以て我檢事より支那領事に求刑したれども未だ〓否の沙汰もなき中に知事と領事との談判中止したるが模様變りの初めにして夫れより間もなく彼れより新に代言人を送りて事に當らしむることゝ爲り、實際の着手に至りて先ず日本人の〓を調査することと爲り、歩々皆先方の望む所は滑に運びて都合宜しきが如くなれども斯く先方にて模様の變わるに随い我政府は之に應じて其向きの官吏を派出し左右に辨論談判する其〓〓も容易ならず實に〓〓なる次第に〓〓も〓區々たる外國水兵の暴行〓の本は〓在より出でて少し禍根がましく働きたるまでの事にして兩〓の政治上に〓〓〓き〓〓のために貴重なる政府の官吏豫名を〓〓し又これを召還して何箇月の〓〓を費し今日の處にては恰も日支帝國の交際事務を處するが如きの觀を成したるは果して支那政府の本意に出たるものの我輩は殆んど之を信ずるを得ず若しも彼の本意なりとあれば即ち事を好む政府にして我も亦不本意ながら之に應ずることなきを得ずと雖ども或は然らず例の漠然たる大國の政脈は四肢の端に達するを得ずして遠隔の地位に居て事に當る者は唯〓の事の重大錯雑を悦び序ながら一塲の名刺を利して態を鄭重を装い小〓の戯を知りつゝ以て大人の仕事に活用するには非ずやと我輩が聊か此に疑を起すも自から由〓なきに非ず其次第は今回の一件に就き支那の吏人が態々長崎に來り或は事情探索に家屋借用に種々様々の事に錢を費し或は私に人を雇い或は證據人を作る等随分騒々しき次第にして然〓も公然出張吏人の棒給さえ甚だ豊なりとのことなれば極内實の處にて當局者の利害に訴れば事は小ならんより寧ろ大なるを面白しとし落着は速なれんより寧ろ手間取るを利なりとせざるを得ず漠大政府の枝末には随分ある可き内事情にして浮世の活劇に毎度演ずる所なればなり左れば今この粉〓を拂いて迅速に局を結ばんとするには從來代言人等の談判は一切これを抹殺して事の初に立戻り當初我檢事より彼の領事に送りたる求刑書の趣意を執りて動くことなく簡單に構えて彼の應否を待つこそ策の得たるものなる可し聞く所に據れば天津の李鴻章氏は國交際の大局を知る者にして日支の交際をば〓くまでも平和に維持せんとする主義なるよしなれば徒に中間の風雨に遮られて退〓會釋するは際限もなきことにして遂には平和一遍の李氏をして其方寸の所期、望外に出たるの威を爲さしむ奇談もある可し畢竟我が求る所は多きに非ず唯日本の國權を損ねるなきに在るものなれば既に中道にして彼れより模様を換えたる其談判を今回は我れより之を換えて初歩に立戻り速に結局に至る策は我日本の利益のみならず支那交際の方論に當る李鴻章氏の本意なる可し臨機應變は政略の常なれども其一様に臨み一變に應ずる毎に一塲の粉論を増加する如きは我輩の取らざる所なり
④長崎天津間の新航路開設、について
支那招商局と日本郵船會社(1886年2月4日付・全集未収録)
支那の輪船招商局と唱ふるものは北洋大臣李鴻章の管理の下に在りて專ら支那沿海并に揚子江流の航業に從事し所持の汽船二十餘艘財産凡そ五百萬圓支那地方に於て久しく威名を轟かし居たりしが一昨年佛清葛藤東京事件の最も喧しき際に當たり開戰國たる佛國東洋艦隊のために此有力なる商船隊を捕奪せらるるの患を豫防せんがため突然一切の資産を擧げて米國の一商會に賣渡し等で戰止み和成るの後に至りて再びこれを買戻し從前に替らず港運の業に從事し居るもの即ち是なり招商局の大なる其名目上に於ては固より以て日本郵船會社の廣大に及ばず又其廻漕上の經歴に於ても固より未だ舊三菱會社の久しきに及ばざるべしといへども然れとも輪船招商局は久しく東洋に有名なる汽船會社にしてこれを指揮するに有力なる李鴻章大臣の在る有り盖し亦一個の甚だ與みし易からざる商會なるべし
去年十二月の末より本年一月の初に掛けて神戸横濱邊より風説の傳はり來るものありて曰く招商局は日本諸港と支那諸港との間に近日新たに航海線路を開くの計畫あり而して專ら此事に周旋奔走する者は日本諸港に數多支店を所有する支那商徳新號なりと然るに當時日本の航業に從事する當局者等は此風説を傳聞して一笑に附して曰く今の日本航業の閑暇なる又其■(しょうへん+「又」)益の少なき固より以て新たに支那船の闖入を許すの餘地あることなし招商局の敢て俄かに日本海に手を出さざるや明白なり又彼の徳新號なるものは從來日支貿易上の經歴に富み飽くまで日本の事情に熟するがゆゑに仮令へ招商局をして今回風説の傳ふるが如き妄念を抱かしむるも老練なる徳新號にして决して斯る無謀の事に與みするの謂はれなし風説の無根妄誕なる言はずして明白なりと然るに何ぞ測らん一月中旬に至りて招商局汽船海定號の長崎神戸を經て突然横濱に入港するあり更らに十餘日を經て又々同局致遠號の入港するありて日本全國の耳目は皆此新來汽船に集まるの折柄上海よりの飛報に由りて今回招商局に於ては其資産を擧げて一切これを香港上海銀行の手中に委ね同銀行の周旋を以て百五十萬圓の私債を募集したりとの事實を聞くを得たり此の百五十萬圓は果して何の爲めにするものなるや未だ其詳細を探知するに遑あらずといへども此時の事情を簡單に形容すれば城門不意に一騎の敵兵の近づくを見て首を上げて遠く郊外を見渡すに雲際無數の旗幟天を蔽ふものあるを認めたると等しく其旗幟の何たるを聞くに及ばずして先づ竊かに一驚を喫せざるを得ざるの情實あり而して又顧みて海定致遠等の擧動を見るに船客の運賃なり荷物の運賃なりこれを目下日本郵船會社が收納する運賃額に比すれば平均一割五分乃至五割を廉にし其相違も亦實に夥しく各港に支店を置き各都府に荷物船客取扱所を置き周旋實に到らざる所なし此際又風説の傳ふる所に據れば今度招商局が航路擴張運賃引下げの其衝に當りたる日本郵船會社にては大に同局の所置を奇恠なりとし彼れ既に斯の如く無情なれば我れ又永く有情なるを用ひずとて坐して敵に窘めらるるの策を變じて進んで敵を追ふの謀略に改め先づ長崎より釜山仁川芝罘を經て天津に往來するの新航路を開き尚ほも敵船の我版圖内より退去せざるに於ては更らに數艘の汽船を縦ちて支那沿海の諸港に往來せしめ直ちに敵の本陣を衝いて其降りを促すの計を定め近日既に同會社よりは公然照會を招商局に送りてその决答を促したりといへり果して此風説をして事實ならしめば招商局の奮發といひこれに對する郵船會社の决心といひ孰れ劣らぬ兩勇士悪七兵衛と三保谷四郎がしころ引きの昔しも思ひ出されて勇ましくも亦天晴れなり然れども我輩は此兩勇士の奮鬪を見物して心竊かに疑懼する所のものなきにあらず僥倖にして支那の招商局が日本郵船會社の决心に辟易し早く自から其手を退く事もあれば此上なき仕合なれども彼れも亦一個の知れ者萬一容易に退縮せず頑然其航路を守りて敢て俄かに其降旗を飜さざる事もあらんには郵船會社は赫として大に怒り益其線路を擴張し益其汽船を増發し益其運賃を引下げ唯一戰に敵陣を陷るるの後にあらざれば遂に其心に慊らざる事ならん此時に際し郵船會社の出入を計算せんに必ず損多くして得少なく其株金一千一百萬圓に對して年八分の利益を配當するの出來難きは勿論競爭の弊害の及ぶ所遂には年一分の利益配當さへ六ケ敷甚だしきは出入全く相償はず平日の經費にさへ不足を告げて年々歳々常に幾十百萬圓ツヅの損失を蒙るの不幸を見るやも知るべからず此時に當り兼て同會社に對して保護を約束したる日本政府は同會社の爲めに經費諸積立金等を支拂ひたる上に尚ほ年々一千一百萬圓の株金に對して八分の利益を與へざるを得ず株金の内二百六十萬圓は政府自身の持株たるがゆゑに此分丈けは無利足貸付金に棄てたるものと諦めて其利足を要せずとするも人民の持株八百四十萬圓丈けには是非とも八分の利益を與へざるを得ず斯る事情にて彼れの是れのと補足金を下付せんには其總額遂に年々幾百萬圓に上りて止まるべきや我輩が今日に豫定すること能はざる所なり日本郵船會社の决心は誠に嘉みすべし然れども其决心にして果して費用の大なるものと相伴はん限りは何卒我政府も亦其監督を怠らざらんことを希望するなり
さらに国会図書館のデジタル資料として、『秘書類纂外交編下巻』(1936年9月・非売品)があるが、その65頁から79頁に波多野による「李鴻章訪問私記」(1885年8月15日付)が収録されている。この時の話題は上記②大院君放還に関するものである。社説「大院君の帰国」(18850924・⑩436)と関連があるように思われる。
⑦ アジア歴史資料センター資料にみる波多野と時事新報社説との関係
アジア歴史資料センター資料としては、まず1885年12月の「機密信第八二号」は波多野領事から井上外務卿にあてた通信である。それは自由党による大阪事件の発生を本省に伝えるもので、波多野はその事件を清国の徐駐日公使が本国にあてて打電した電報を傍受したことにより知ったと述べている。波多野は李鴻章と面談して事件の概要について認識のすり合わせを行っている。波多野と李鴻章とは昵懇の仲と言ってよかったように思われる。この「機密信第八二号」に対応する社説はないかと調べてみたが、見当たらなかった。
ついで1886年7月の「公信第三十八号」は、鉄道延伸をはかっている清国では枕木用木材の需要が高まっていて、それが日本にとって新たなビジネスチャンスとなる可能性があることが報告されている。
この枕木材の輸出については次の社説に触れられている。
支那の貿易(1886年10月13日付・全集未収録)
近來北支那天津邊の貿易望みありとの事にて大坂の諸商人等は此程東亞貿易商會なるものを創立し天津に出店して日清間の輸出入を開かんと目下經營中の由、又聞く所に據れば支那政府にては石炭運輸の爲め開平天津間に鐡道を敷設するに就き獨逸のクルップ商會は英國の某商會と其請負を競爭して勝を占め其鐡道の枕木は我三井物産會社にて引受くることになりたりと云う(因に記す支那には鐡道の枕木に適する木材なく今後追々鐡道を延長するに就いては枕木の供給を日本に仰ぎざる可からず斯くなる以上は日本の木材は支那輸出品中の重要なるものと爲るべけれど日本商人の手際にては支那當路者に取り入て直接にっ之を賣渡す能わず唯在支那の外國人に向いて手數料を拂い其手を經て之を賣捌くより外に善工夫なかる可しとの説あり)誠に祝す可きとなれども從來南支那の貿易にては毎度日本人の失敗したるの例少なからず因て今既徃の經歴を擧げて聊か未來の参考に供せんとす
從來支那の貿易に於いて日本人が大功を成〓能わざりし其原因は種々様々ならんなれども此貿易に從事する商人中に適當の人物なきこと其重立ちたるものならん元來日本人の考にては支那貿易は海外人との取引なれば縦い支那語に通ぜざるまでにも英語の一端を知り少〓活〓〓は萬國に形勢を心得たるものに依頼せざる可からずとて上海香港邊に出店し又通商するものは専ら書生流の人物を採用したる事なるが此流の人物は上海香港邊に至りたる處にて心早くも支那人を輕蔑し忽ち在支那英國商人等の所爲を學び大店を構え体裁を飾り飲食を美にし交際を張りて所謂紳商を氣取る其傍に支那商人は質素節儉汚穢を厭わず粗衣薄食を意とせず物を賣る時は氣根よく掛引し之を買う時は氣根よく直切り現に我伊萬里九谷等にて陶器を仕入るゝに支那人が製造元に談判して買入るゝ直段は徃々日本輸出商の仕入るゝ直段よりも廉なりと云う盖し支那人の如きは商賣上一種の秘骨を具するものとも申す可きか而して商賣上此支那に〓〓するものは獨り彼の獨逸人なり、獨逸人の質素勤儉にして商賣上に氣根よきは英國人杯の及ぶ所に非ず英國人は年來の商賣にして近來は自滿心と云う譯にてもあるまじけれども少しく腐敗を生じたる氣味ありて衣食住華奢なるが故に兎角費用倒れにして其商賣品割合に廉ならず獨逸人は店舗の体裁等は相當に飾れども其内部の生活を見れば食物は粗薄にして使丁の數は甚だ少なく随て其商品廉直なれど英國商人は次第に其商域を〓食せらるゝ趣あり但し商舘の手廣くして取引の大なるに至りては英のジャーディンマジソン商會即ち〓和洋行の如きものありて上海香港の商賣の大〓を掌握すれども小仕掛の商賣に至っては次第に独逸人の〓倒する所を爲り現に香港にても英商の數漸く減じて獨逸商人は益々増加する勢いありと云う斯く在支那英獨兩商人の所爲を比較したる處にて從來支那貿易に從事したる日本商は兩商人孰れの方に類似するやと云えば寧しろ英商人に似たる所ありと云わざるを得ず盖し日本人の考にて外國貿易と云えば桑港紐育等の貿易も上海香港邊の貿易も其〓梅加減同一なりと心得、單に少〓活〓を目當てとして其向きの人物を採用するが故ならん久しく香港に在留して近頃歸朝したる人の説に支那貿易に從事するものは簿記法を知らざるも可なり送〓の執筆に當惑するも可なり片言交りにても英語を談じて其見聞〓に東方亞細亞貿易の概略に通ずれば外に所〓はある可からず要するに聲に非ず〓に非ずして其心掛けは彼の近江商人の如き氣根と勤儉とを兼ねるこそ〓わしけれ云々と云へり盖し破的の言なるが如し左れば今後日本人にして支那の貿易に從事するものは實〓なき書生流の人物を採らず質素節儉に堪え粗衣薄食に〓へ外面の装飾などに頓着せずして世事辛くジリジリと商賣の事を營むものを〓ばざる可からず支那人は一種特別商賣上手の人民なれば此人民に對して商賣するに英米人などに取組むものと同一の筆法を用いるが如きは〓ての外の沙汰にして其失敗の先例は既に多し今後特に慎む可き事なり(未完)
同じくアジア歴史資料センター資料として、1887年8月の「機密第拾号」がある。それは米国と清国が合弁で華美銀行なる拓殖銀行を創設して北清(中国東北部)の開発に乗り出そうとしているという情報で、同地に経済的な野心があった日本としては座視できない事案であった。
この華美銀行の企てについては翌年1月の次の社説に触れられている。この社説冒頭の「我輩の社友中久しく支那に在留して其國の事情に明かなる某氏」が波多野を指しているのは明らかである。
支那近状(1888年1月10日付・全集未収録)
我輩の社友中久しく支那に在留して其國の事情に明かなる某氏が此程北京より天津を經て白河氷結前最後の便船に搭し歸朝したるに付き取り敢へず之に就て目下北京政府の内情など種種問質したる其中より二三の談話を摘載し以て諸君と與に支那近状を推察するの料に充てんと欲す
支那鐵道の事は近來日本の新聞紙など大分仰山に書立てたるより早や既に續續開業に至る可き者の如くに其風説日本に於ては熾んなる由なれども百事に緩慢なる支那政府の常として其事業は聊かも捗取らず抑も開平の鐵道は先年來既に開けたる者なれども此れは全く礦山用の輕便鐵道にして貨物旅客の用には適せず今回政府に於て敷設せんとする者は天津太沽及び開平間僅僅數十英里の本鐵道にして更に天津より一線を北京に通ずるの計畫もありと雖も其線路未だ土盛の工事に着手したるにも非ず軌條枕木類は白河の氷結前既に外國より到着して就中日本木材の見本なども來りたれども爰に困難なるは支那人民の頑迷不霊なる一事にして今に地風火水の説を信じ祖先の墓地適適鐵道線路に侵さるることもあらば之を以て不孝の罪大なりとし兎角に苦状を申唱へて容易に土地を賣却せざりしより政府も當惑を極め押問答の末昨今漸く土地買上げ丈け濟ませたるの有樣なれば天津太沽の鐵道も日本人の想像ほどには實際に進歩するを得ず此順序より考ふれば天津鐵道は本年中に落成覺束なく北京太沽の鐵道(即ち日本にて云へば東京横濱間の線路)全通するまでには尚ほ一二年を要することなかる可きやと我輩も餘所ながら掛念に堪へず况んや天津の鐵道を南京若くは上海に延ばして廣東雲南の境まで全帝國に連絡を通ぜんとするの大計畫をや支那の鐵道は向後は知らず先づ今日の處に於ては事業の緩慢實に太甚しと稱す可きのみ
次に支那近來の外交政略を如何にと云ふに唯平穩無事と云ふの外なし彼の東京事件に引續て起りたる雲南東京の境界事件もロベルト ハート 氏の盡力にて佛國政府との折合も就き兩國の委員會同して曩に其交界を議定し爾後今日まで幸に紛議も起らず又英國が緬甸を占領したるに因り支那政府と英國と越南に境界の爭を〓し一時は其議論噪がしかりしも支那英國の間柄は元來至て親密なれば早速爭論も纏まり今は少しも其痕跡を留めざる者の如し然り而して近來意外に面倒なりし葡萄牙との關係も一時は曽紀澤氏が何にか首鼠逡巡の説を持し雙方議論の纏まりに苦み居たる由にも聞きしに此程漸く局を結び改正通商條約の調印も首尾よく相濟みたりと云へり殘る所は澳門境界音事件にして是より先き支那政府は表向き澳門を葡國政府に〓〓するの議を諾し今日までは默許の姿なりし者が英の香港に於けると均しく澳門亦公然たる葡國の領に屬したれども讓與境界の事に關して其談判决着せず加ふるに地方人民は其土地を外國に掠めらるる者なりとして人心大に激昂し一時一揆沙汰にも及ばんとしたりしかば居留の外國人等は大に憂慮し葡國政府は軍艦を其地に碇泊せしめ以て民情の恟悸を鎭めたる等騷動なりしも幸に變に至らず追て兩國より委員を出し其境界を議定するに一决したるは此程の事なり要するに西南一體は昨今無事の姿にして今後西洋諸國に對し容易に大葛藤を起す可き原因外に存せざれども露國北邊の關係に至りては如何に成行く可きや識者の豫め憂ふる所なり但し目下の景况より言ふ時は近來別に境界に事の起らざるのみならず曩に呉太徴氏が會同委員と爲て露國に談判し吉林省北邊の地にして近頃まで露人の無斷に入込み居たる其版圖を露國より取戻し一段外交上に面目を高めたるの次第もあれば方今の有樣にては先づ外國に敵なき者と稱して可ならんサイベリヤの鐵道落成して露國が東洋に羽翼を展ばすに至らば支那の爲めには無上の憂患なる可けれども是れも七八年後に起る可き出來事なれば先づ夫れまでは安眠して只管太平を頌歌しつつある者ならんと思はるるなり
右は支那外交の景状なれども序に内政の模樣を見るに天津の李鴻章氏は波蘭亡國の貴族ミツケウヰツツ伯の手段に乘せられ華美銀行の失敗以來政府の受け宜しからず且つ兎角曽紀澤氏との議論合はずして快快不快の樣子なりと云へり昨今北京の政府内に其勢力の盛んなるは曽氏にして総理衙門の機務は申すに及はず内政百般の事にまで平生參與して言ふ所行はれざるなけれども氏は多年英京に駐在して餘りに其國の空氣を呼吸し過ぎたる者か丸で英人の如くに變化し世界中英人ほど深切にして み甲斐ある國民なしと爾かも厚く信じて疑はざる者に似たり隨て外交上英國との關係こそ一層親密を加へたれども他の一方より顧みれば列國の公使の威光は殆んど光明を蔽はれ暗に不平なきこと能はざる可し外間の説に曽氏は壯年有爲の政治家にして目前の利害を斷定するに極めて鋭敏なりと雖も遠大の規模を懷き百年の長計を决するの見に於ては李氏に及はざる遙に遠しと云へり其人物の優劣は兎も角も方今支那■(まだれ+「苗」)堂の政略は數年前一方に恭親王李鴻章と一方に醇親王左宗棠と互に對峙して改進保守の方向を殊にしたる如き軋轢なく左氏既に死し、醇親王亦其説を豹變したれば政府の主義も一に改進に傾きたるに相違なけれども今は又李氏曽氏の其間に多少意見の反異もあり縱令へ數年前李左兩黨の大軋轢に至らずとも其關係の决して圓滑ならざるは明白の事實なり今後支那■(まだれ+「苗」)堂の方向如何んは李曽間の交渉に就て粗ぼ其趣を知る可きなり
外交官時代の波多野の動向と同時期の時事新報社説に密接な関係があったことは、以上により確認できた。以下でその意義をまとめたい。
⑧ まとめ
以下で本発表で明らかになった新事実と従来までの研究成果を合わせて項目化する。
(1)福沢から波多野にあてた書簡は1通も残されていない。これは両者の関係が疎遠だったからではなく、波多野が福沢からの書簡を意図的に処分したためと考えられる。
(2)波多野外交官期(1884・7~1890・4)の清国関連社説は333編ある。これは同時期の全社説の約17%にあたる。朝鮮関連社説についての約10%、キリスト教関連社説についての約1%に比べて著しく高い。ただしそのうちから波多野関与社説をより分けるのは困難である。
(3)そこで波多野が天津領事であった1885年6月から1888年5月までの社説で、文中に「天津」が使用されている社説を抽出すると24編あった。これらには波多野が関与していた可能性は高い。
(4)天津領事として波多野は李鴻章と昵懇の間柄であり、日清間に問題が生じたときには速やかに事後処理を行っている。また、彼の直接の上司は井上馨外務卿であり、両者の関係も良好であった。そもそも井上は福沢にとって長州閥としては珍しい政府中の盟友といってよかった。
(5)波多野が天津領事であったのとほぼ同時期に井上角五郎は甲申政変後の朝鮮政府の顧問になっていて、やはり井上馨率いる日本外務省と連携していた。角五郎もまた京城通信員として『時事新報』にしばしば登場している。
(6)福沢による朝鮮独立党支援については、井上角五郎の証言により、甲申政変前からであったように喧伝されている。しかし、同時期の角五郎と波多野の記録を読む限り、福沢は事大党内開化派で政変後も朝鮮政府に残っていた閔泳翊に期待を寄せていたように感じられる。
(7)1885年12月に露見した旧自由党による大阪事件を『時事新報』は社説で言及していない。これは大井憲太郎ら旧自由党員が、日本に亡命していた金玉均ら朝鮮独立党と協調してソウルで武装蜂起を起こそうと図ったが果たせず、大阪で捕縛された事件である。波多野は重大事件として早くから事情を探っていたのにもかかわらず『時事新報』がその件を報じなかったのは、旧自由党の抑え込みに波多野が関与していたためと考えられる。波多野は李鴻章からの諮問に対し、大阪事件の黒幕として挙げられていた後藤象二郎の情報を提供している。
(8)1886年以降の波多野領事は、主として清国における日本のビジネスチャンスの拡大に務めている。長崎天津航路の開設や枕木輸出の拡大などである。北清地域(中国東北部)から朝鮮北部にかけて視察旅行に出たのは1887年の夏頃のようで、その時の記録は『北支那朝鮮探検案内』(1894・7)としてまとめられている。