「時事大勢論」

last updated: 2019-09-08

このページについて

時事新報に掲載された「時事大勢論」(18820405)の書籍化である『時事大勢論』を文字に起こしたものです。

執筆期間1882-03 頃
初回掲載日1882-04-05
終回掲載日1882-04-14
掲載日数6
出版御届年月日1882-04-19
刊行年月日1882-04-00
備考草稿未残存

本文

時事大勢論緒言

福澤先生立案中上川先生筆記時事大勢論通計六篇頃日弊社出版時事新報の社説に登録したるが勿論論紙上の都合ありて一日に畢ること能わず又連日に文載することを得ず遂に十數日に跨りて暫くその稿を完することを得たる然るにこの論或は大方諸君子の參考に供する所と爲りたるものか爾來今日に至るまで時事新報中この論を載せたる各號に限り陸續として猶その注文あり依り依て今般看官諸君の便利を謀り分載の六篇を一册に輯録し廣く同好の士に領つと云ふ

明治十五年四月 編者 識

時事大勢論

福澤諭吉 立案

中上川彦次郎 筆記

財産生命榮譽を全ふするは人の權理なり道理なくしては一毫も相害するを許さず之を人權と云ふ人權とは人々の身に附たる權理の義なり此人權を保護せんとするに人の性質擧動善惡相混じたる社會に於ては人々個々の力に及び難し是に於てか政府なるものを作て一國人民の人權を保護す之を政事と云ふ政治は人權を全ふせしむる所以の方便なり此政事を行ふに君主政治の國に於ては君主一人の意に任じ立憲政體の國に於ては國民をして政治に參與せしむ之を參政の權理と云ふ即ち人の政權なり故に立憲政治の國民は恰も其身を折半して人權の點より見れば保護を受くる者なり政權の點より見れば保護を施す者なり之を人權政權の區別と云ふ

我日本は古來君主政治の國にして殊に封建門閥の世に在ては人民に政權なきのみならず其人權を害せらるゝも亦甚しくして國中殆と同等の權を有する者なき程の有樣なりしが外國の交際を開いて漸く彼の書を讀み彼の文物を聞見して人民にも幾分か權理あるものなりとの事を發明して始めて民權の思想を畫き同時に民權の文字を用ひたるは今を去ること十七八年文久慶應の頃なり爾後王政維新の變革に逢ひ人心も亦一新して民權の説頻に流行し政府も意を鋭くして此一方に向ひ舊慣を掃除破壞して門閥を廢し遂に廢藩置縣の大擧に及び租税も公平を旨とし法律も正直を主とし其他百般の政令これを舊時に比すれば一として國民の人權に利ならざるものなし然るに政權の一事に至ては政府も之を人民に附與するの意なく人民も敢て之を求るの念なくして雙方忘れたるが如くなりしは盖し數百年來門閥の政に窘められたる人民が其人權を得んとするに忙はしくして心事未だ政權を顧るに遑あらざりし者ならん明治七年舊參議後藤板垣副島由利の諸氏が民撰議院設立の事を建白したりしかども其旨とする所は全く政令の振はざるを憂ひ之を振救するの道は民撰議院を立てゝ有司の權を限るに在りとて議院の方便を以て政府を匡正せんとするの意なるが如し固より其建白書中には人民に納税の義務あれば乃ち國事を與知可否するの權を有す云々の語はあれども結局國民たる者の政權を主眼にして論を立てたる者とは思はれず殊に其建白者は舊官員にして憂る所も亦政府の施政如何に在る者なれば其心中に於ても敢て自ら國民の名代人となりて政府に迫るの意には非ざる可し當時天下一般の人民に參政の權理を論ずる者は甚だ寥々たりし事と知る可し明治八九年の頃に至ては掃除破壞の事も漸く終りて官民共に無事に苦むものゝ如し(市上に書畫骨董茶器等の賣買漸く行はれて漸く價を生じ維新以來の廢物も再び世に顯はれんとしたるは正に此時なり破壞の事終りて人心の方向を轉ずるの一證として見る可し)此時に當ては民間の學識も漸く進歩し漸く政權の事をも識別して何か言ふ所あらんとするの勢なりしに明治十年西南の役ありて恰も民心を震動し復た民權を論ずるの遑あらざりき然るに兵亂收るの後明治十一年府縣會の令を發して翌十二年の春全國各府縣同時に人民の議會を開たり之を民情一變の期限とす抑も府縣會の開設は決して人民より促かしたるものに非ず政府に於ても亦之に促されたる積に非ず

唯施政の都合に民議を利用せんとする迄の廟算なりしと云ふ然るに其成蹟を見れば大に所期に異にして開會の一擧以て人民の耳目を開て始めて政權の眞味を甞るの機會たりしは其然るを圖て然るものに非ず信に偶然の事變と云ふべきものなり從前は府縣の小吏に逢うても仰ぎ見るを得ざりし農民商賣の輩が今は巍々たる會堂に列座して地方税の事を議し費目の多寡を討論して定めて一府一縣の法と爲る時は府知事縣令も容易に之を左右するを得ず從前農家の年貢は領主地主より課せられ其輕重多寡は奧深き上の手に定められて嚴命天外より下るものと思ひしに何ぞ料らん今日は我々の年貢(地方税も老眼を以て見れば則ち年貢なり)を我々が議するとは誠に上下顛倒の有樣にして俗言之を評すれば百性にして殿樣の事を行ふ者の如し民情變ずることなからんとするも得んや府縣會は恰も國民政權の思想を教導するの學校にして然かも全國の各校同時に開業して同一の教則を設け新聞郵書以て互に消息を通じ廣く報告書を公布して三千四百萬の耳目同時に之を聞見することなれば先を爭ふの人情尚一歩を進めて國會の開設を希望するも亦當然の勢なりと云はざるを得ず之を譬へば府縣會は猶通用の小門の如く國會は正面の大門の如し既に其小門を開いたり進で正面の開門を願ふも人情に於て咎むべきに非ず今日にして考ふれば當初大門を開くの用意未だ整はずんば其整ふまでは小門をも閉ぢ置き只管開門の用意を急にして一向に之に着手し其用意己に十分なるの期を見て大小同時に開くことまた得策なりしことゝ思へども人智の明には限ある者か前以て之を照すを得ず政府も爰に心付かず我輩も傍より之を知らざりしは今更後悔するのみにして既往は追ふ可からず兎に角に今日人民參政論の喧しくして民情穩かならざるの近因は府縣會に在りと云はざるを得ず之を第一因とす衣食足りて禮讓興ると云ふ苟も肉體以上の事に思想を用ひんとするには先づ肉體の安樂なかる可らず政談は肉體以上の事にして國民衣食を逐ふに忙はしきの間は決して其聲を聞く可らず或は民間にも徃々富豪なきに非れども四方の景色貧寒にして饑渇の訴囂々たる其最中に在て二三の人が政を談ぜんとするも風雨に花を見て興を催すに足らざる者の如し到底民間の衣食足らざるの間は政治の思想も亦興らざるものと知るべし舊幕府の末年より明治の初めに至る迄は全國の農家は依然たる三百年來の農家にして衣食足るものと云ふ可からず然るに辛未廢藩置縣のとき諸舊藩主も稍時勢を察して新縣へ引渡しの際には多少に租額を減じて人民の負擔を輕くし次て地租改正の一大擧以て農家の面目を改め之に加ふるに兩三年前より紙幣下落米價騰貴從て地面賣買の價も亦非常に上進して農民は年々の收穫の米穀を家に積で事實に富むのみならず其所有地價の増したるを見て假令ひ之を賣て現金に易へざるも之を賣れば幾百幾千圓に易る可きを信じて自ら富有の氣象を生ぜざるを得ず即ち名實共に富を致したるものにして復た昔年の貧寒凛然たるものに非ず此時に際して恰も好し政談演説の客は各地方に徘徊して舊來の陋習を破壞し政治演説の新聞紙は日に人心を誘導して月に其熱度を昇騰せしめ淡冷無味の農民を變じて極熱性急の政治家たらしめたる者も少からず演説の辯士如何なる名説を演ずるも政治の新聞如何なる奇論を記すも饑寒の空氣中に於て誰か之に耳を傾け眼を注ぐ者あらんや今之に反して民心の政談に熱するは其原因遠く廢藩置縣に胚胎して地租改正に根本を固くし紙幣の下落物價の騰貴以て之を助因成したるものと云はざるを得ず之を第二因とす

明治六年文部省より全國教育の學則を頒布し此より各地方小中學校の制も大に振起して就學の生徒日月に増加し今日に至ては小學の數三萬に下らず生徒の數は二百萬の以上に在り當初七八歳にして入學したるものは本年は十七八歳となり十歳なりしものは既に丁年に近し今この生徒を平均して其全體の性質は政治に關して何等の者ならんと尋れは我輩は之に答へて素白の紙有絃の琴と云ふ可し抑も全國三萬の小學校は多くは公立のものにして一個の主人あるに非ず或は主管者あるも唯公務にして主管たるものなれば私塾の主人が私に塾を支配して塾中一切有形無形の責に任ずるものとは同日の論に非ず況や小學教師の如きは在職の年月を限る可きにも非ずして隨時に去就する者なれば學校を以て自家の觀を爲すに由し故に此小學校に出入して業を受る生徒も亦唯學校を適とするのみにして其學校を支配し又其業を授る人を適とするの念慮は自ら薄からざるを得ず人を適とせずして之に學ぶ時は其學び得る所は唯教場有形の學藝のみにして其人の徳義氣風に薫陶せらるゝの利益は之を期す可からず本來學校の教育なる者は教場有形の教の外に一種無形の氣風を存じて生徒の心事に影響を及すこと甚だ大なるものあり古來儒流の履歴を察しても徂徠の門人は徂徠に類し仁齋の門下には仁齋に似る人多し啻に直接の師弟のみならず其末流に至るまでも本源の異同に從て自他の分界を見る可し即ち無形の氣風なるものにして其效力は却て有形の教授に受けたるものよりも大なりと云ふ可し方今は時勢の變遷に從て師弟の關係も全く昔年に異りと雖ども尚其遺風を存じて免る可からざるや明なり然るに今全國三萬の學校には此無形の薫陶を缺き生徒の學ぶ所は唯習字數學讀書のみにして守る所の主義とては殆ど皆無と云ふも可なり父老と共に佛法を信ずるにも非ず先輩に從て儒教を尊崇するにも非ず或は官より徳育の旨を奬勵して之を徳の門に入らしめんとするも其教書美にして教者に乏し假令ひ其人員に乏しからざるも小學の教授に老成人を得んとするは甚だ難し況んや其生徒は十年來既に已に卒業して諸方に彷徨するもの甚だ多きに於ておや本來農にして耕作の法を忘れ本來商にして店頭に周旋するを屑とせず正に知字の憂患に苦むものは全國到る處として之を見ざるはなし故に今この輩に語るに政治論の活溌なるものを以てすれば西にも赴くべし東にも走るべし其容易なるは素白の紙を紅にすべく又墨にすべきに異ならず今日其默するは口なきに非ず未だ其口を開くの機を得ざるのみ未だ之を開くの法を教ふる人に逢はざるのみ一旦其機を得其人に逢う時は何樣の聲を發す可きや之を測る可からず未だ彈ぜざるの有弦琴に異ならず或は又人の言を聞くに今日地方の有志者なるものは小學教員の流に甚だ尠なからずと云ふ固より就職中は其外面穩なることならんと雖ども外面は以て中心を卜するに足らず去年夏秋の頃より少年の奔走するもの特に多きは小學出身の人物なりとの説あり果して然ることならん此流の少年は今後年々歳々増すことあるも減ずることなし今より何等の法を設くるも事既に晩し民情益喧嘩を増すことならんのみ之を第三因とす第三前節既に記す如く近來民權論の喧すしくして然かも其の論鋒を政權の一方に向はしめたる近因副因を求むれば第一府縣會の開設に在り第二廢藩置縣地租改正に在り第三學校生徒の教育卒業に在り此三因の成跡は皆偶然に生じたるものにして當初に在ては天下一人として之を前知したるものなし府縣會の如き前には民議を利用せんとして今は却て民議多端の楷梯となり廢藩置縣地租改正の如き前には政令を一途にし斯民を休養せんとして今は却て物論喋々の資を貸したるに異ならず學校教育の如き前には民の智見を開いて文明の大平を見んとしたるものが今は却て全國無數の小政談客を作らんとするの勢をなしたり此民議の多端物論の喋々政談客の増加も亦其所見に從ては國勢の退歩にずず百年の大計に於て祝すべしと雖ども目下の處置に至ては智者も困却する所なり今にして困却すればとて前の謀は決して之を非と云ふ可からず孰が是か非か其是非の論は姑く擱き凡そ天下の事これを前知せずして生じたるもの之を氣運と云ふ既に來るの氣運は之に激して之を挽回す可からず洪水の源は霖雨の爲めに土堤の壞れたるものなり其滔々に激するも水は逆に行かず唯自然の運動に從て之を導く可きものみなれども治水の法甚だ容易ならず治民の法亦甚だ難し我輩は先づ此氣運の働を以て今日の社會に如何なる影響を及したる歟今後又如何なる事情を生ずべきやを論せんとす抑も去年十月國會開設の大詔は人心を滿足せしめたるものにして從前其開設を熱望したる輩も今日に至ては最早論ず可き事なく又訴ふ可き不平なし唯謹で明治二十三年を待つ可きのみなれば民間の議論は日に平穩にして政府の法令も次第に寛大を致す可き筈なるに實際に於ては却て其然るを見ず人民は何となく不自由を訴へ政府は頻に法令の行はれざるを憂ひ新聞記者又は演説者にして罪に觸るゝ者は近年益其數を増加したるが如し其端緒は官に在る歟民に在る歟我輩之を知らずと雖ども日本國の全面を通覽するの昔日に比して安寧平穩を増したるの有樣に非ず或は明治廿三年には國會を開くとの約束ありしものを違約の其期を延ばしたることもあらば民情の穩ならざるも亦謂れなきに非ざれども前年開設を願望して許可を得ず數十百年も許可なからんと思の外十年を出でずして必ず開設と頓に大詔の下りたるに民情の不平なるは實に不審に堪へず左れば此不平は國會の開否如何に拘はらずして別に原因あるもの歟氣運の然らしむる所と云ふべきのみ此氣運に際して特に我輩の憂ふる所は今の如く官民の背馳日に甚だしくしては數年の後に至りて官民共に雙方の目的として期する所の國會をも開く可らざるの慘状を見るか又は之を開くも又隨て第二の苦情を釀すべきの一事なり今の政府は其施政の理由を詳に語らざる者なり之を語らざれば之を知るに由なし今の人民は政府の主義を知らざる者と云ふべし人民も亦言はんと欲して或は法に觸れんことを恐るゝが故に其言常に婉曲にして然かも十分の怨を含むが如くに見へ新聞にも演説にも所謂口蜜腹劍の毒氣を免かれずして政府も亦人民の眞意を知るに由なし今の政府は人民の主義を知らざる者と云ふも可なり官民互に相知らず互に猜疑なからんと欲するも得べからず斯の如く雙方猜疑の念を抱て相接する其有樣を譬へて言へば替り色の目鏡を掛けて相見るが如し政府の目鏡は緑色なるが故に民間一般皆緑なり人民の目鏡は黄色なるが故に官海一樣皆黄なり己れに異る者を惡むは人情の常なれば之を矯めんとするも無益なれども若しも此目鏡を脱して肉眼に照したらば雙方に長所もあらん亦短所もあらん其長短を發見して其細目を論ずるときは假令ひ爭論にても其論自ら實際に亙りて或は互に相容る可きもあらん或は談笑の間に和すべきもあらんと雖ども今は則ち然らずして唯一樣一般に之を惡み相互に問はずして相互に嫌忌する其趣は恰も一場の宗旨論に異ならずして政府宗と人民宗と相分るゝが如し然るに其政府宗なる者は默して主義を語らざるのみならず毫も人民を容れず自家の主義に異にして針路を共にせざる者は一切之を擯斥して其行く處を極るものゝ如し容量濶大なりと云ふべからず今一歩を讓り爲政の大要に於て苟も主義針路を異にする者は必ず之を逐ふと明言するも或は其事實を明詳する甚だ難くして時としては只之を疑つて之を逐ふ者なきを期す可らず語に云く罪の疑はしきは輕きに從ふと政府たる者は現行犯の罪を問ふにも尚且つ疑はしき者は其刑を輕くす然るを況んや主義の疑はしき者に於ておや一切之を擯斥して其行く所を極るが如きは爲政の大義に非ず畢竟政府が異主義の者を擯るは同主義の者を多くせんとするの意ならんと雖ども人々をして疑懼の念を抱かしめ之を多くせんとするの方便は却て之を減ずるの結果を呈す可きのみ維新以來の風を察するに官吏の免職したる者は其翌日より政府の政敵たるが如し其本人より政府を敵視する歟政府より之を敵視する歟辯論は姑く擱き事柄の外面より見れば政府を評して之に寛仁大度の名を呈し難し斯る有樣にして人民は其適する所を失ひ迚も政府には容れられざるものと覺悟を定めて却て順良深切の念を斷ち滿腹の不平は之を言論に洩して喋々囂々底止する所あるなし遂に以て官民の間に深き溝渠を掘りて之を限り人民一般は日に益政府に遠かるの風を養成して苟も政府とあれば其名を聞いて先づ之に近づくを好まず之に近接する者は男兒に非ずと評せらるゝの勢に至りしは國の爲めに大なる不幸と云ふ可し

或は民間にも官の意を奉して竊に周旋奔走する者なきに非ずと雖ども其擧動公然たらざるが故に却て益民心に激し其當局者は社會に容れられずして本人の爲めに不幸のみならず官民を調和せんとするの方便は偶ま以て之を離間するに足る可きのみ試に今の雜誌新聞紙を見るに苟も詭激の筆法を用ふるに非ざれば之を讀む者少し辯士が説を演ずるにも其激論將に法に觸れんとするの極に達せざれば喝采の聲を聞かず加之競爭も亦人情の常にして相互に詭劇の度を高くし彼の處に百度のものあれば此の處には増して百十度となし其増進に際限ある可からず舊幕府の末年に尊王攘夷の議論盛にして日に其勢焔を増し如何なる方便を用ふるも之を緩和するを得ずして遂に其赴く所に任したることあり今の世論は其趣旨全く攘夷論に異り又政府の有樣も固より幕府に異なりと雖ども物論の勢焔は前年に彷彿たりと云はざるを得ず畢竟數年前より養成したる氣運の然らしむるものにして今にして激して之を遏止せんとするも人力の及ぶ所に非ざるなり又この上にも不幸なるは世間の風潮とは云ひながら現に政府に在る人にして自ら其地位を屑よしとせざる者あるが如し凡そ人として諸の職に就き又仕官する者は固より其地位を甘じて一身の力を盡し又其全體の主義を保護せんと欲すればこそ之に居る者なるに其地位に居て自ら己が地位を賤しみ傲然として曰はく官途は我が欲する所に非ざれども是亦一種の奇商法なり錢の爲めには志も屈すなどゝ公然これを人に語て毫も耻ずる色なきのみならず一場の戲に托して暗に磊落の氣象を示さんと欲する者なきに非ず人民宗の爲めには大勢力を添ふるものと云ふべし斯る事の勢にして次第に進歩し人民の勢力次第に盛なるときは勢に乘ずるも亦人情にして之を節すること甚だ易からず所謂破竹の勢にして政府の施政は日に難澁すべきや必せり難澁とは字義の如く政事を施すに難くして其機の澁ることなり澁るは滑かなるの反對にして政府より一令を發する毎に實際民間の利害に關せざることにても故さらに故障を生じて或は歎願と云ひ或は告訴と稱して即日に行はる可きものも十日を費し十日の事務は一ケ月を經て尚ほ落着せざるが如きもの多からん之を路傍に聞く某縣の縣會議員は凡そ四十名日當一名に付一圓なる者が地方税の費目三百圓を増減することに付議論を生じ其議案のみを討論するに十五日を費したりと云ふ議員の日當は固より民費にして四十名に一圓は日に四十圓十五日に六百圓なり六百圓の民費を費して三百圓の民費を議す況んや十五日の日子も亦是れ錢なり金錢を費し精神を勞し其成跡は唯よく施政を難澁せしめたるのみ此類の難澁は唯府縣會にのみ限らず全國の此處に生じ彼處に發して其煩はしきに堪へざるの場合に至らん然るも政府は獨りよく之に堪へて之を忍ばん歟如何なる事情に接するも風に柳の如くして左右に之を避け堪忍に堪忍して尚よく默止せん歟堪忍固より大切なるを知るも堪へ難きに堪ふるは人情の能くせざる所にして其結局に至れば政府は必ず武斷の策に出づることならん國家永遠の大計を慮り文を以て人を治めんとすればこそ辛苦なれども武策に決するときは其策甚易し珠を懷にして鬪へばこそ其珠に傷けんことを恐れて怯なるが如くなれども事情に迫れば寳珠も亦顧るに遑あらず即ち變亂の發端なり官民既に力を以て相抗するの場合に至るときは天下の事復云ふに忍びず政府の失體人民の不幸のみならず海外に對して我大日本國の耻辱を披露するものと云ふ可し假に今日より其不祥の圖畫を想像すれば第一着に禍を蒙むる者は必ず人民ならん今人民の政治に志して奔走する者は兵力なし又金力なし恃む所のものは唯天下の公議輿論と國の法律と此二者のみなれども政府が自ら耳を掩ふて公議輿論を聞かず其決心武を恃て文を輕ろんじ法律の文の如きは適宜に之を利用して政府自家の便に供するが如きことあらば人民に於て其上の策は如何す可きや甚だ當惑の次第なりと謂ふべし在昔攘夷論の時にも各地方の有志者に實力を有する者は少なかりしと云ふと雖ども此時には全國の三百所に諸侯なる者ありて有志者が奔走中錢財を浪費し負債に迫らるゝ等樣々の不始末はあるも詰る所は藩庫の引受けと爲りて失體の痕を顯はさず又三都に藩邸の數甚だ多くして幕政の末年には取締も不行屆なれば此邸内は自から治外法權の姿を爲して志士の輩が聊か罪を犯し又嫌疑を蒙むることあるも藩邸に閉籠る時は先づ一時安心の身と爲りて復た徐々に計る所ある可し故に幕府にては此流の人を浮浪の徒と稱して外面には之を輕侮すれども内實は竊に恐れ憚るの意味なきを得ざりき然るに今日民間の有志者は大に之に異り其議論を取除いて腕力の一方より見れば恰も單身獨歩の一個人と云はざるを得ず又其金力如何を問へば唯一身一家の私産にして後日に藩庫のあるなし假令ひ或は其團結固くして誓て艱難を恐れず又時として富豪の之に應援する者あるも舊藩の時代に比較すれば同日の論に非ず之に反して今の政府は舊幕府の武備衰頽したる者に異なり又在朝の官吏も幕府老中以下の因循姑息なる者に異り今は官に在て順良の官吏なれども二十年前の昔を想へば人を殺したることもあらん家を燒きたることもあらん況んや兵馬騷擾の際には彈丸雨飛の下に悠々たりし人物も少からず決して怯夫に非ざるなり一旦意を決して昔年の本色を顯したらば其働は必ず活溌にして一時に民權論者を壓倒することも亦難きに非ず假令ひ之を壓倒し了らざるも天下見るに忍びざるの慘状を見るべきや必せり結局官民の軋轢文に在るの間は尚可なりと雖ども其軋轢極りて武に移るの日に至れば直接の禍は必ず人民の頭上に落つることならん人文進歩の不幸と云ふ可し國の元氣の災難と云ふ可し

或は幸にして前節に記したる不祥の圖畫を實際に見ることもなからんと雖ども假令之を見ざるも別に又恐る可き者あり政府は斯く民間に議論の喧しきを見て日に益猜疑の念を生ずべきや必せり實に今の人民中の局處に就て事跡を見れば徃々輕擧粗暴の怪む可きものなきに非れば之を疑ふも亦人情に於て深く咎む可きに非ず啻に政府のみならず人民の中にても古風にして正直なる者は事物の局處を見て眞實に之を怒り又小才智ありて目前の利を求むる者は勢を卜して媚を政府に獻じ今の民權者を概して之を詭激の徒と稱す其趣は舊幕府の末年に佐幕の一類中或は眞實に忠を幕府に盡さんとする者あり

或は輕薄狡猾の輩は時勢の穩ならざるを奇貨として樣々の策を獻じ其獻策の旨は幕府をして其平生疑ふ所の者に一層の疑を増さしめ其平生敵とする所の者に一層の敵意を加へしむるより外ならず以て益幕政府の意を固くして苟も天下の志士とあれば目するに浮浪の名を以てして玉石を混淆し一切これを擯斥したるの有樣に彷彿たりと云ふべし斯の如く之を疑ひ之を怒り甚しく之を擯斥して其極度に至て民權なるものは一種の怪論即ち帝室の尊嚴に害あるものなりと云ふが如き説の流行することもあらば國難は一層の根を深くして其災害の區域益廣大なる可し如何とならば方今朝野の議論紛紜たりと雖ども其紛紜は唯政治上に止りて今の政體は如此くせん今の施政は云々す可からずとて其頂上の所に至ても僅に在朝の官吏を責めて政令を改革せんと云ふ者に過ぎず即ち在朝の政黨と在野の政黨と相互に鋒を爭ひ人民の論鋒辛ふして政府に達したるまでの事にして未だ帝室の輕重に論及したる者あるを聞かず帝室より下臨すれば政治の議論の如きは唯是れ下界の爭論にして其孰れが失敗して孰れが勝利を得るも毫も其尊嚴を輕重するに足らず帝室の尊嚴は開闢以來同一樣にして今後千萬年も同一樣たる可し是れ即ち我帝室の帝室たる所以なり然に一朝の論端よりして其尊嚴云々の言に亙りては言の正邪緩急に拘らず假令ひ眞實帝室を尊崇するの丹心に出でたるものにても恰も天下の論壇を近づく可からざるの靈場に移して開く可からざるの言路を開きたるの姿にして人心を震動すること劇しく一時に情海の波を揚ぐるの恐あればなり近日世間に少しく其論端を開く者あるが如し國の安寧の爲めに最も恐る可く又惜む可きの大なる者なり

凡そ天下の亂階多しと雖ども人心の猜疑より恐る可きはなし彼の犬を見よ吾人が平氣にして其傍を過ぐれば犬も亦平氣にして人と犬と相知らざるが如く誠に無事なれども若しも此方に少しく猜疑の念を抱くか又は他人の言を聞き彼の犬は動もすれば人に咬付くとの事を信じて少しく恐怖の顏色を示して走て之を過ぐれば犬も亦驚ひて自ら警しむるが如し或は吾人の猜疑恐怖甚だしくして寧ろ之を追ふて其路を通らんものをと思ひ杖を振揚げ又は礫を投ずる時は犬は必ず咆哮して人に咬付くを常とす或は氣力に乏しき犬にても逃げながら吠へざるはなし怒て之を追へば逃げて又吠へ益人をして怒からしむるのみ

然れば則ち之を度外に置かんとて本の路に返へらんとすれば主客勢を異にし犬は首を廻らして人の方に向ひ吠へながら追ひ來て際限ある可べからず一犬吠ふれば萬犬應じ恰も犬の物論喋々たるものにして困却に堪へず我輩が少小の時より毎度實驗する所にして讀者も亦よく知る所ならん其本を尋るれば人と犬との間に行違ひを生じて人は犬を疑ひ犬は人を疑ひ遂に雙方の困難を致したるものゝみ本來今の民權論は唯日本國民と國民と政治政體の是非を論ずることなれども爰に一種の黨派を生じて其民權論を怪論なりと認めて然も其黨派が在朝の人と相投ずるのみならず帝室の保護尊崇を主義として容易に帝室の名義を用ひ我黨に反對する者は帝室に反對する者なりなどゝ之を公言するに至らば他の黨派も亦決して之を許さず我こそ帝室を尊崇する者なれ汝の黨は則ち然らず云々とて政治の論は之を忘れて一向に帝室を爭ひ其爭ひや一家の小供が家政の爭論よりして遂に本論の旨を忘れ此父母は長子の父母なり否少子の父母なりとて眞實一家の子にして所生の父母を爭ふに異らず無稽も亦甚だしと云ふべし斯かる事の有樣にては迚も日本國に眞成の政黨を望むも得べからざるなり畢竟其本を尋ぬれば政府と人民との間に行違ひを生じ相互に猜疑して遂に此不幸の極にも達す可きものなり抑も人事に於て名稱は甚だ大切なるものにして之を濫用して大害を來すことなきに非ず徳川政府の末年天下の物論穩かならざるの日に京都の某所に落書して徳川家茂云々と記したる者あり其趣旨は將軍家の爲めを記したるもの歟其不爲を謀りたるもの歟今これを忘れたれども當時或る識者が此事を聞き竊に人に語て曰はく徳川の大事既に去りたり太平二百五十餘年の間に日本國中苟も將軍の實名を口に云ふ者なし筆に記する者なし將軍の身は恰も政治外の人にして將軍たる者なり故に天下の人は政府を呼て關東と云ひ公邊と云ひ誠に漠然たる名を用ふる者にして徳川の姓を呼ぶ者も稀なり況んや將軍の實名に於ておや之を言ふ者なきは政事の責其身に及ばざるの證なり然るに今日其名を落書する者あり此れより天下多事にして其責は將軍の一身に歸するの前兆なりとて大に歎息したることあり徳川にして尚且然り況んや今の帝室に於ておや斷じて其名稱を濫用すべからず其名を用ふるや假令ひ眞實の忠義心に出づるも之を許す可からず帝室に大忠を盡さんと欲する者は官民共に謹んで默するに在り喋々之を論ずるは心事の忠を以て成跡の不忠を來たす者と云ふ可し今日苟も其論端を聞くが如きは畢竟官民の猜疑より生じたる大不幸なり猜疑の禍恐る可きなり

前の條々に記したる如く萬に一も政府が武斷の策に決することあらば一時に人民を壓倒するは甚だ容易なる可しと雖ども其これを壓するや唯形體の力を壓したるのみにして精神の力を壓したるに非ず或はよく人の腕を制して未だ其腦を抑ふること能はざる者と云ふも可なり啻に之を壓抑する能はざるのみならず却て益精神の頴敏を致して其抗抵の力は舊時に倍し益政府に向て其制御は日に難きを増し其難きを増すの割合に從て政府も亦壓力を増す可きこと固より自然の勢なれば官民の調和は到底絶念せざるを得ず舊幕政府の末年諸方の志士が尊攘のことを稱へて出沒奔走する時に當て初めの程は政府にても武斷の策を運らし動もすれば大獄を起して人を禁錮し又死刑に處したることも多かりしかども遂に其一類の志を挫くこと能はずして却て自から因循姑息に陷り以て敗北するに至れり今にして考ふるに幕府の敗北は武斷の斷然たらざりしが爲めに非ず其因循姑息に陷りたるは即ち武は以て人民の精神を壓倒するに足らざるの證として見るべきのみ

官民調和せずして政黨は頻りに起り其際に國會の開設は期限既に定りて之を動かす可からず其不調和のまゝに抂げて之を開くに至り開後の政府は誰れの手に落つる歟固より多數の決する所なれば今より測る可からずと雖ども或は今の在朝の政黨ならん歟在野の政黨は之を攻撃すること今よりも一層の甚だしきを加ふることならん或は在野の政黨路に當らん歟其翌日より攻撃を蒙むることならん如何となれば其政黨は當路の其日より政府宗に改宗したればなり結局官民の調和を待たずして國會を開かんとするも雙方相互に主義の細目を問答せざる者なれば各自異色の目鏡を掛けて他の全面を評し其目に映ずる所の色に從て之を是視し又非視するの外ある可からず之を譬へば舊水戸藩の正黨奸黨の如し二黨對峙相互に主義の眞面目を語らずして唯一般に相惡むが故に其擧動常に殘酷にして動もれば同藩相殺し甚しきは無辜の婦人小兒をも屠戮するに至れり婦人小兒に何の主義ある可きや之を殺すは即ち主義の細目を問はざりしの明證なり立憲政體の下に行はるゝ黨派も武流殺伐の黨派も等しく黨派なれども唯相互に主義の細目を問ふて相互に辯論すると否との別あるのみ之を問ふ者は文にして爭ふ所は唯筆端口頭に止まり之を問はざる者は武にして遂に殺伐に陷らざるを得ず其爭論既に殺伐に陷るの習慣をなすときは假令ひ第二の政府を作るも第三の政府を興すも其政府の力を伸す可き區域は甚だ狹小にして其性質は甚だ苛酷なることならん方今我日本も海外の諸強國に對峙して將に文武の鋒を世界中に爭はんとするの秋なり此大切なる時に當て何事か最も緊要なる可きや恰も全國を一家の如く調和して其全力を一政府に集め先づ政權を強大にして國權皇張の路に進むの一事あるのみ然るに今の氣運にして今後數年の形勢を想像すれば政權の強大を致して國權を皇張するの見込なきのみならず僅に天下の安寧を維持するの一事すら尚且保證するを得ず官と云ひ民と云ふが如き些細の議論は姑く擱き凡そ日本人の名ある者にして之を憂ひざるを得んや之を憂へずして揚々自得する者は寒熱痛痒を覺へざるの愚夫と云ふ可きのみ

畢竟今日の形勢に立至りしは時の氣運なりと云ふと雖ども元と其氣運の生じたるは天然に非ずして人の作りたる氣運なれは之を挽回するにも亦人力を以てす可きは當然の數にして徹頭徹尾人の力には叶ひ難しと云ふべき程のものに非ず唯この氣運の流行に任ず可からず去迚これに激して之を遏止す可らず其運動の勢に從ひ兼て其動力の眞實に存在する處を察して之が治方を施すこと困難なるのみ社會の形勢を察するは人身の病を察するに異ならず症の發表する所は必ずしも病の存在する處に非ずして頭痛の症は頭腦に發表すれども病の位する處は胃の腑なるが如し其交感の病理を診斷すること困難なるのみ政府は即ち國の醫なり必ず診斷の明あらん我輩も亦此國醫の爲めに謀て聊か所見なきに非ずと雖ども實際の事を語るに非ざれば之を説明すること甚だ難し然るに其實際を語るは刊行の紙面に能す可からざるものなれば之を略し唯この氣運を挽回するの一大事に當て日本國中誰れか其責に任ず可き者なるやを尋ねて其責の在る所を明にせんのみ今の在朝の諸彦は二十年前の有志者にして徳川政府の因循姑息なるを憤り其まゝに差置きたらば變亂止む時なくして萬民塗炭に苦む可しとて時の政府を憤り世の人民を憂ひ一身を社會の犧牲に供して遂に革命のことをなしたるは其效誠に偉なりと謂ふべし數十百年相傳の政府に立つ者にても尚且其責に任じて天下の治亂を其身に負擔するは古今の常なり況んや身躬ら他の政府に代て新に事を執る者に於てをや今の諸彦が自から任ずるの厚くして世を憂ふるの深きは我輩の明に知る所なり必ずや文を以て天下を治め第一着の目的は社會の安寧にあることならん我輩が天下衆人と共に信じて疑はざる所なり然るに今政府を離れて民間に向ひ眼界を廣くして國の全面を通覽すれば今日を昔日に比して民情の平穩を増したりと云ふ可からず今日を以て後日を想像するに平穩を増す可しとも思はれず諸彦の苦辛傍より之を察して氣の毒に堪へざるなり或は三五年來民情俄に一變して日に輕躁に趣き性急慄悍駕御す可からざるの風なきに非ず我輩もよく之を知ると雖ども畢竟政治上の氣運なれば毎人に其無状を咎むべきに非ず毎家に説諭を加ふ可きに非ず人々個々に就て明に指點す可き所なくして社會の全面に顯はるゝもの之を名付けて社會の性質と云ふ故に三五年以來の民情輕躁にして性急慄悍ならば日本の社會は三五年以來性質を變じたるものなれども之を如何ともす可からず日本社會の性質は何樣に變性するも日本人は即ち日本人にして日本の人民を治むるは日本政府の責任なり其人民が變性したればとて之を見捨て到底この人民は治む可からざるの人民なりとして放却するの理なし又力を以て壓抑するの法なし人心の變化は測る可からず治め難きの民を治むるこそ主治者の巧なれ之を譬へば主治者は猶御者の如く人民は猶馬の如し馬の種類の多き其性質固より一樣ならず贏駑なるものあり慄悍なる者あり或は之を養ふに宜しきを得ざれば性を變ずる者もありと雖ども御者の巧なる者は如何なる馬に逢うも之を捨てず凡そ生きて馬の名ある者なれば之を御して意の如くならざるはなし然るに世間或は馬に乘て進退自由ならざれば即ち罪を馬に歸し駑なり悍なりとて之を棄つる者あり甚だしきは主人自ら其養法を誤り御法を失して馬の怒ることあれば主人も亦馬と共に怒て之を鞭つ者なきに非ず所謂天下の拙工なるものなり左れば御法にさへ巧なれば御す可からざるの馬なし之を御す可からずとて棄つるものは其罪馬に非ずして御者に在り社會の治法にさへ巧なれば治む可からざるの人民なし之を治む可からずとして棄つるものは未だ治者の巧ならざる者み天下の治亂は政府の責任にして人民の安寧を維持するは當路者の義務なり如何なる説を作て如何なる口實を設くるも決して免かる可からず我輩は今年今月この時事大勢論を作て今後三五年を期し刮目して政府の擧動を視んと欲する者なり

時事大勢論 終