「天下怯者より恐る可きは無し」
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時事新報に掲載された「天下怯者より恐る可きは無し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
天下怯者より恐る可きは無し
一心既に怯懦にして加るに卑劣を以てす故に物干の浴衣も幽靈と見へ路傍の石地藏も妖怪なりとすることあるは古今其類例に乏しからず近くは過日愛知縣士族相原尚?(上が耿下が衣)なる者か岐阜神道中數院の自由黨懇親會に於て該黨総理板垣退助君を刺殺せんとして傷を負はしめたるが如き其國法の罪人たるは勿論其舉動の卑劣にして心中に怯懦なるは實に言語道斷なり彼れ相原尚?(上が耿下が衣)は異主義なるが故に之を刺すと云ひ國賊なるが故に之を誅すと云へり板垣君は公に自由民權の説を主張するの人たること世の周く知る所なり果して刺客相原と異主義なる可し其相原輩と異主義なるは是即ち板垣君の板垣君たる所以なり然るに相原なる者巳れと異主義の人を見て國に害ありと為すか何そ其國害たるの事實を証明し公然政治論塲に立て君と君子の爭を爲ささる之を是れ爲さず嗚呼け間敷も國賊喚はり人の不意に乗し人の寛容を利し忠愛の情止むを得さるに出ると唱へて持って巳れの非を掩はんと欲す其卑劣怯懦なる實に悪むに餘あるなり彼の浴衣を見て幽靈と爲し石地蔵を見て妖怪と爲す其怯懦單に笑ふ可きに止るものと雖とも刺客の怯懦に至ては則ち然らず巳れの怯懦の爲に巳れ自から煩悶するに止まらず遂に以て人に禍すればなり刺客の怯懦固より悪む可く其人に禍する斯の如しと雖とも天下刺客よりも卑劣怯懦にして其人に禍する尚幾百層の甚しきものあり何そや人に向て國事犯喚はりを爲す者即ち是なり
国事犯とは何そや〓のも萬〓の君に向て弓を引き〓り腕力を以て時の政府を〓〓せし〓〓る者〓〓〓〓〓〓る可し彼の〓書生か余は官吏とならは宮内省に出仕す可しと
云ひ等外の属吏か余は參議と爲らすれは〓ますと云ふか如き〓は非分の大望を抱くの嫌ありと雖とも〓より之を目して国事犯なりと云ふ可らず況や其宮内〓〓〓たるを願はす參議たるを希望せさる者に於てをや何等の口實を設るも国事犯の名を下す可からさるや論を俟たず然るに世間の人情の卑劣怯懦なる公明正大に政治論塲の爭を爲すことを憚り人に誣るに国事犯の名を以てし一時自家の安息を謀らんと欲する者なきに非ず其心中の卑怯にして其禍の大なる數の刺客が斷然自巳一人の身命を〓て他一人を害するか如きに非さるなり之を魚を捕るに譬ふ刺客は猶釣を垂るか如し何程の妙手と雖とも魚の鈎に上がる者一竿一尾より多きこと能はす其禍の及ふ所知る可しと雖とも国事犯を誣る者に至ては然らす數〓汚池に入りたり魚の大小と其要否とを問ふに遑あらす一投に數百千尾を尽して遂に一池の鱗族を滅絶するに至ることある可し其禍豈釣者と同日に論す可けんや漢代の朋黨論の如きも一種の卑劣手段より成るものにして〓者之を評して漢を亡するものは朋黨なりと云ふは誣言にあらす我國に於ても前年大阪藤田組の疑獄の如き或は昨年大隈参議辭〓の際の世評の如き我輩云ふに忍ひさるもの無きこと能はす我輩は國の安寧を希望する者なり國安寧ならされは其改進を期す可らされはなり國の安寧は最上位の緊要事なり一身の安息は第二位の欲望なり彼の刺客か一身の便を謀て他一人に禍せんとするも尚且つ國安を害するの恐あり況や若し數十百人に誣るに曖昧なる国事犯の名を以てし朋友故舊相連引して禍の窮極する所を知らず天下の名士を盡して其面に唾するも一身の安息は謀らさる可らずと云ふが如き者あらば我輩國の安寧は何に由て保持し得可きやを知らさるなり
畢竟するに卑劣するに卑劣怯懦なるものは猜疑不學より成る心既に安く己に亦恃む所あらは百の石地蔵に逢ひ千の自由論者を見ることあるも以て妖怪と爲さす以て国賊と爲さす悠然自家本分の努に服して他を顧ることなかる可し我輩は〓令人情の常なるを以て其卑劣怯懦を怒し深く其所置を咎ることなかる可しと雖とも其禍自家一身に止らすして之を他人に及ほし遂には貴重無邊なる國の安寧をも〓〓するに至ことあらは我輩復た黙すること能はさるなり卑劣怯懦は恐る可く猜疑不學は滅す可き哉