「米艦朝鮮に入る」
このページについて
時事新報に掲載された「米艦朝鮮に入る」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
米艦朝鮮に入る
五月八日發〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓れ〓〓の〓〓〓〓〓〓迫國皇は鋭意國を開かんとすれども大臣の一列は悉皆白髪の老人にして毫も近時の事情を解せす唯舊乾坤に安んして鎖國の一策あるのみ大院君は次子〓先の變乱以來世間に遠慮せらるゝにや固より國事に關せす戸外に出ることさへ稀なる程の有樣なれども其勢力は自から政治社會に行はれて暗々裡に守舊の統領たるが如し國皇の苦心想見る可し爰に政治上の一事變は五月二日前の領議政洪淳穆、同李最應、左議政宋近洙、前の左議政金炳國、輔國閔台鎬、同閔謙鎬、の六大老臣王宮の經筵に侍へり講義の後、談話時事に亘り國皇は從客として開鎖の利害を下問せられたるに老臣の一列は時機こそ好けれと思ひ喋々開國の弊害を述へ國を開くは即ち國を亡すの媒介たる理由を説て滿腹の不平を一時に洩らし本國任留の日本人の如きは之を驅除し之を屠戮す可しとまてに迫り奉りければ國皇に於ては最初より此輩の心事斯の如くならんとのことをば待設けられたることなれば靜に宇内の形勢を語り今我國を閉鎖するは即ち世界萬國を敵にするものなり之を敵にして其後には斯る國難ある可し、斯る事情に迫る可し、此事は如何其事は如何、斯る難厄の其日に於て誰れか其衝に當る者ぞ汝等果してよく其責に任して之を負擔するの覺悟ありや否やとて逐一詰問せられければ六大臣は唯相互に顔を見合するのみにして渾身流汗更に一言を發する者なし國皇逆鱗其座を郤け即日命ずるに禁錮の典を以てして六名共に目下謹慎中なりと云ふ
右六大臣の内李最應は大院君の兄にして國皇の伯父、金炳國は先皇妃の從兄にして貴族中の貴族とも云ふ可きものなり又洪淳穆は去年我國に來航したる洪英植の父にして閔台鎬は閔泳翊の父なり英植泳翊は彼の國開國家の巨擘とも稱す可き人物にして其父は則ち之に反す此父にして此子あり不思議なるが如くなれども都て世の變遷に處して驚駭狼狽する者は老人にして改進は常に壮年の司る所なり獨り朝鮮のみに限らず世界萬國皆然り現に今日我國に於ても稍や此事實を証するに足る可きものあらん怪しむに足らさるなり
夫れは扨置き右の事變に引續き五月七日米の軍艦仁川湊に驀入したり兼て覺悟の前とは云ひながら今更又驚くに堪へたる有樣なれども政府に於ては強ひて自から鎮靜して人民も亦粗暴の擧動なし國皇に於ては特に優待の情を表せられて米の使節上陸の上は京城近接の地を撰て客舎を給す可しとの勅命を傳へ接待委員には趙準永を命したりとぞ(趙準永も去年日本へ來りし人なり)
米使と談判の模樣は未だ評ならざれば(米艦の入港は通信の日附の前日なり)爰に怪しむ可きは米艦入港のとき同時に支那の軍艦も亦來り國〓〓〓〓〓朝鮮と締盟の事を申入るゝ由、この締盟の事は敢て怪しむ可きに非されども支那の使節馬眉叔は唯支韓の條約を取結ふのみに非ずして或は朝鮮政府の爲に大に周旋して云はゝ其顧問と爲り今回西洋諸外國との締盟に付き一切の談判を引受けて其條約書に代判することもある可しと云ふ右は未定のことにして先月八日以後の事情如何なりしやは測る可らすと雖とも通信に云ふ所果して信にして馬眉叔が朝鮮政府の爲に代判することもあらば我輩は之を怪まさるを得ず一國の重大事件に付き他國の人に依頼して顧問とあれば先つ其國を親み其人を信し其技倆の程を詳にして後の事ならん然るに朝鮮人は古來支那に交ると雖とも往來の繁多なるに非ず支韓の間に公然たる條約を結ふは今回を以て初とする程の譯けなれば互に交際の深き者とは云ふ可らず之に引替へ我日本は締盟以來殆と十年に近くして商賣の關係、人物の往來其緊密なること支那の比に非すして且外交の一條に付て西洋の事情に通達したる者は我日本國に其人物乏しからすとのことも朝鮮國の識者に於て之を知らさるに非すと雖とも今回の條約に付ては殊更に日本を含て支那に依頼するは盖し朝鮮人全体の頑〓鄙陋なる尚今日に至るまても支那を上國視して數百年來の奴隷心を脱却すること能はさるものならん歟憐む可きのみ或は日本の政府も朝鮮の事に意を用ること厚からず隨て我人民も之を度外視して其交際上〓〓の宜しきを失ひ未た日本國の重きを彼れに示すこと能はさりし故もあらん尚詳なるは誤報を待つのみ