「「ドクトル、コック」氏の發明 」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「「ドクトル、コック」氏の發明 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

「ドクトル、コック」氏の發明 

本日の寄書欄内を見よ明治十五年三月二十四日獨國の碩學「ドクトルコック」氏は肺患「チュベルクル」即ち結核の因原を求めて其果して有機寄生物「パシリ」なることを發明したりとの事を演説して世に公にしたり肺患の治し難きは俗間にも知る所にして其療法に就ては諸大家の説も少なからずと雖ども結核の難症に至ては到底救ふ可らさるものとして所謂醫師の匕を投するものなりしが今回この發明の後は必す叉肺病理論の端を攺めて世界中に一新治術の道を開き醫學の智庫を富ますことならん獨國の學問盛なりと云ふ可し抑も學問は廣くして淺からんよりも狹くして深きを貴しとす專門の=即是なり獨國にて徃々學問上の大發明あるは其學課を分ち叉これを分ち恰も其細部分

の一方に心を專にして研究する者多きが故ならん學問の風は斯くあらまほしきことなり

此一事に付き序なから思出したるは前号の社説に地方學校の題を揭け書生たる者は安んじて業に就くの緊要なる理由を論じたりしが尚この趣意を擴るときは啻に書生をして安んじて業に就かしむること緊要なるのみならず業成り既に一家を成すと稱する學士の流も安んじて業に就くこと甚た大切なり方今我國にて普通學を終り既に專門の業を脩めて一學士の名に耻ちざる者なきに非ざれども此學士なる者に足らざるものは資産にして獨り心を潜めて業を脩めんとすれば資産足らず、産を脩めんとすれば業脩む可らず止むを得ざるの窮策ながら學士も官途に奉職して月給に食ひ學醫も開業して病家に奔走す潜心脩業の閑、得べからざるなり或は學士が官に就くも其官たるや學問に關する官にして例へば學校の敎導の如きものなれば在官の身を以て專業を脩るも妨なきに似たれども今の日本の官途の組織にては其事甚た難くして行はる可らず如何となれば學問の脩を支配する長上の官吏=が必すしも悉皆學問の思想を抱く者のみに非ず官途

中自から俗吏事務上の習=を=======の自由心に===誰か====且又其官途なるものは直に政治上の政=====るが故に政府に變動あれば其變動は波及して=====が=ち=かし叉學士の身をも==すの=あれば=ち===外の學士が悠々自在に一身を==し心を潜めて千古の==を解かんとして時として大に發明すること「ドクトル、コック氏の如くならんとするは亦難きことなり人或は曰く之官は人の欲する所にして學者と雖ども其熱心は他に=ならず故に之を官途に用るは學問を=勵するの一便法なりとの説もあれども畢竟文思に乏しき政治家の盲にして未た學問の貴きを知らさる者なり眞成の學者は其心思高尚にして眼中に王侯貴人なし何そ區々たる官途に熱することを爲んや若しも今日にても其資産に獨立の法を得たらば官途を去る者は必す多からん我輩は今の學者が俗吏=伍ち爲すて見て其鄙屈を咎めずして却て其心事の不滿足を憐む者なり在昔舊幕府にも開成所とて洋學校を設け天下有名の洋學士を敎授の職に役して多くの生徒を養ひ隨分盛大なる學校なりしが戊辰の乱に幕府の瓦解と共に開成所も瓦解して生徒も離散し學士も落魄して其行く所さへ知れず固より脩業の塲合に非ずして日本國中恰も學問の中止とも云ふ可き有樣なりき此時に當て苟も洋學を脩めて一日も=唔の聲を絶たざりしものは都鄙を擧げて唯一所の慶應義塾ありしのみ其然る所以は何そや開成所は時の政府の直=にして政治に密着し慶應義塾は獨立して敎治社外に悠々したればなり固より今の政府が舊幕府の如くなる可き憂もなし謂れもなき不祥を期するに非ざるは無論のことなれども太平無事の政府にても官吏の更迭等多少の變動は常に珍らしからぬことなれは政治と學問とは勉めて其距離を遠くすること緊要なりと信ずるなり近日人の言を聞くに九州の或る地方にては去冬以來官權黨とか政=黨とか云ふ名義を自ら稱したるもの歟他より呼做したるもの歟一種の主義を以て會衆を團結したりしに本會より分離したる者もあり叉新に起る者もありて其勢も亦盛なるに付ては本會は益々其地方の人員を誘導せんことを勉めて=く諸學校にも及ほし中學小學の生徒にして政黨云々を=ふて==するの景况なりと云ふ學問の敎育上に於ては沙汰の==にして憂ふ可きの大なるものなり其邊には老成の人もあらんに如何なる心にて之を傍観して聞くこと歟我輩は不審に堪へざるなり