「局外窺見」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「局外窺見」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

第三章 我文明の缺典は智學に在る事

以上陳述する如く、東西の文明を比較して道德の主義固より異同ある可らず。其發して一個人の言行に現はれ

又發して社會の風俗と爲たる所に於ても大に差違を見ず。又人の好尚風致の事に至て心多少の長短あるも大同小

異にして、據て以て雙方何れの文不文を斷ずるに足る可きものを見ず。此點に至るまでは日本も西洋諸國も文明

の度を一樣にするものと云て妨なしと雖とも、獨り智學の一段に至ては大同小異に非ず、否な小同大異にも非ず、

殆ど我固有の文明に於ては智學の形跡なしと云ふも可なり。我國の文事は中古に至るまで佛者の司る所にして、

其佛法は元と印度に興り支那朝鮮を經て舶來したるものにして、苟も實物の理を推究するに非ず。下て三百年來

漸く儒流の隆盛を致して、儒佛の道、兩立するが如くなりと雖ども、唯僅に道理を論ずるの體裁を異にするのみ

にして、雙方共に道德の中に局促し風流の間に逍遙するものに過ぎず。其物理に至ては陰陽五行の附會説に非ざ

れば空風地水火の空論、一も信據するに足るものなし。醫師が人心を小天地として、病理を説くにも陰陽と云ひ、

藥劑を處するにも五行に配當し、佛者が天文を語るに須彌山の妄誕を信ずるが如き、智學に於ては數千百年來一

歩を進めたるものを見ず。此儒佛に育せられたる國人が、固より物を作らざるに非ず、久或は新發明なきに非ざ

れども、其これを作り之を發明するや所謂偶中にして、嘗て其然るを期して然るものに非ざれば、身躬から物を

作りながら其物の成る由緣を知らず、舟子が舟を浮べて其浮ぶ由緣を知らず、染工が絲を染めて其染む由縁を知

らず、醫師が溜飮の患者に牡蠣を投じて之を治し、杜氏も牡蠣を以て酒の酸敗を防ぐと雖ども、雙方共に偶中の

術なれば其理の同一なるを知らず。之を要するに日本固有の文明は全く物理の原則を訣くものと云ふ可し。之に

反して西洋諸國の有樣を通覽するに、智學の據る所は自然の原則にして、実物の形と實物の數と其動静の時間と

を根本に定め、人類の感觸器たる耳目鼻口皮膚の働を以て之に應じ、兩間の萬相一として包羅せざるはなし、一

として究めざるはなし。水は水なりとして之を看過すれば千萬年も水にして、問ふ可きものなきが如くなれども、

物理の原則に基き化學の法に由て此水を解剖分析すれば、水素と酸素との二物に分つ可し。既に之を分つの法を

得れば、他より水素と酸素とを捕へ來て之を合すれば水を作る可し。此水を鐵器に密封して熱を施せば膨脹の力

非常に強大なり。之を蒸氣力と云ふ。或は熱を施さずして大氣の中に放頓するも自然に消散す。卽ち其消散する

ものは蒸發氣にして、高く空中に懸れば之を雲と云ふ。雲凝りて雨と爲り、雨地中に浸入して泉と爲り、集りて

河と爲り、流れて海に入り、復だ海面より蒸發して、循環際限あるなし。而して其水が熱して沸騰するには必ず

華氏の寒暖計二百十二度なるを要し、膨脹して蒸氣と爲れば千七百倍の積を占る等、萬代の約束にして嘗て違ふ

ことあるなし。卽ち物理の原則なり。西洋智學の世界は此原則を以て支配することと知る可し。我國儒佛流の眼

を以て之を見れば、此原則なるものは德義の事にも非ず風流の談にも非ずして甚だ殺風景に思はれ、之に説くに

其道理のみを以てするも耳を傾る者少なくして、朝野の紳士老大先生の如きは容易に感覺を起さずと雖ども、原に

刑决して殺風景ならず、今日現に國内に在て先生の音信を卽刻三百里外に通ずる電信も此原則の結果なり、先生

の夜行を照らす瓦斯なり、先生の老眼を助る望遠鏡なり又顯微鏡なり、否な先生の身と家族とを同時に載せて遠

州洋を渡り京擯京攝の邊を往來する滊船滊車も、悉皆この原則の賜ならずるけなし。西洋の文明智學の部分より

生じたるものにして、我國人の嘗て知らざりしことなれども、今日これを利川するの端を得たるは吾人の幸と云

ふ可きのみ。然りと雖ども爰に喜ぶ可きの幸あれば又隨て恐る可きの憂ある心自然の敷にして、亦これを思はざ

る可らず、西洋各國は早く卽に此文明を利用して其面目を改め、兵制に商責に叉學術に、千八百年代は恰も新西

洋を創始して、其活潑なる實に驚く可きもの多し。此新西洋に接するに哲日本を以てせんとするも固より得べか

らず。恐る可きの憂と云ふ可し。西洋の糟粕を嘗る勿れとは先生の常に警むる所なれども、其糟粕云々は蓋し政

治上の事を指したるものならん。政談は本編の後段に遺して先づ爰には物理の原則を語り、此原則は決して西洋

の糟粕に非ざれば、先生の輩も力を盡して知らざる可らざる所以の理由を悟りて、然る後に都て西洋説の是非得

失を評論せられんこと、我輩の冀望に堪へざる所なり。                  〔七月二十六日〕