「局外窺見」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「局外窺見」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

日本人が西洋の新説を喜て其智學の事を採用するに當り、往々其順序を謨て近時文明の骨髄たる運輸交通の事

を等閑に附したる由緣は、他なし、我國人が學問の考に乏しくして事物の利害を間接に察すること能はざるの罪

なり。讐へば弓矢を以て戰ふと小銃を以て戰ふと其利害誠に隋易きが故に、今日戦争に弓矢を用ぴんと云ふ者な

し。兵制の速に一變したる由緣なり。學校に少年を集めて之に教れば日に上達して、昨日まで文盲の子も今日は

一字を知り又明日は十字を學び得て、其成跡甚だ著し。學校敎育の大に興りたる由縁なり。猫り運楡交通の事に

至ては、其效力を感ずる所常に間接にして、實利を見ること遅々たるが故に、人心をして熱せしむること甚だ難

し。例之某の都邑より某の山村に達するまで數里の道を開くには、山を穿ち橋を架する等、其努費容易ならずと

雖ども、開道の後直接に利するものあるを覺へず。蓋し利なきに非ず、之を畳へざるなり。以前十里の難道を牛

馬の背にて炭薪を持出し、其歸路には鹽と酒とを載せ歸り、其價運賃と共に若干圓なりしものが、新開道落成の

後は車にて往來するが爲に二割を減ずることならん。今この道より運輸する百般の貨物一年十萬圓の價ありとせ

ん。十萬圓に二割を減ずれば二萬圓の純益を見る可しと雖ども、一般の人民に於ては道理を推考する者甚だ少な

くして、其物價の下落したるは豐年に米價の下落したるがしたるが如くに思ひ、物價昴低の原因を唯其物に就て求むるの

みにして、之を道路の改良に歸するを知らず。卽ち事物の利害を間接に察すること能はざるものなり。近く一身

一家の損得に關する物價の昂低に就ても其漠然たること斯の如し。況や道路交通の爲に人の智識を交換し世務を

諮詢するの利益に於てをや。其利益洪大無邊なるも決して之を悟ること能はざるなり。

人智の近淺なること斯の如し。故に交通の器械を撰ぶに於ても、蒸氣船車及び西洋形の船舶又は郵便電信の如

きは、直接に其舊物と比較して現に其利益を見る可きが故に、之を非とする者少なしと雖ども、其器械を以て直

接に得る所の利益のみを利益として計算を立て、一局部の損益のみに眼を着るが故に、往々其不利を感じて着手

せざる者多し。偶ま公共の力を以て之を助けんとて、政府の國庫より保護の法を施すことありと雖ども、其保護

たるや亦唯一局部の保護にして固より全國の交通に力を及ぼすに足らず。所見尚廣からざるものと云ふ可し。運

輸交通の事に就て政府より保護す可きは固より論を俟たず。唯其力を大にして全國一般に保護すること緊要なれ

ば、目下電信局郵便局の如きは大に之を保護して大に其定額を增し、尚其税を減じて效用を廣くするは極て無毒

有益の法ならん。又全國の道路、橋梁、堤防の如き、方今は各地方の民議に任じて中央政府は之を知らざるが如

し。蓋し地方分權の旨ならんと雖ども、分權も事柄に由て甚だ要用なるのみ。今全國殖産の急須にして國力の本

源たる道路以下の事を擧げて之を地方に任ずるは、我輩に於て之を贊成するを得ず。如何となれば日本の全面に

澤國あり山國あり、又或は平地にして天然の道路交通に便利なるものあり、斯の如く各處に異なる地形を平均し

て交通の便利をば勉めて一樣ならしめんとすることなれば、之を各地に分任するも其工事各地に齟齬して實效を

奏すること難ければなり。例へば爰に三縣ありて、其中央は山地にして前後二縣は平坦なるものあらんに、中央

一縣民の力を以て道を作らんとするは甚だ難くして、去迚これを他の二縣に課するも不都合ならんと雖ども、其

中央の道路開通は間接に全國に關する便利なれば、唯に前後の二邸のみならず全國民の負價す可きものならん。

卽ち中央政府の直轄に屬す可きものなり。啻に三縣相對して不都合あるのみならず、一邸内に於ても、其東方は

山路險にして西邊は川澤多く、東西相互に利害を殊にして協力すること能はざるものおり。現に諸結會に於て橋

梁堤防等の費目を議するときに、議員の説一致せずして往々風波を起すものなきに非ず。全國の利害に開する事

を各地方に分任せしめんとするも、實際に行はれ難きこと以て知る可きなり。右の如く云へば地方分権の旨に背

くが如くなれども、決して然るに非ず。治權( アドミニストレーション)を地方に分て政権(ガーウルメット)を中

央に集るは、卽ち我輩の所謂分權の旨にして、其政權に屬するものは法律、兵制、租税法、貨幣法等なれども、

國事の大にして人民の私力に叶はざる事、又其關係の廣くして全國の平均を要するものゝ如きは、政権を以て施

行せざる可らず。但し其實際に臨て道路の腫類を分ち是れは中央の政府に剔し其れは地方の民謳に剔すと云ふが

如き細目の誤もあらん。是等は當局者の案に任するのみ。                 〔七月二十八日〕