「大院君の政略」
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時事新報に掲載された「大院君の政略」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
我輩が昨日の紙上に記したる如く〔註。前日の社説は「愚直論を恐る」と題するもの〕、目下朝鮮の事件に付き和戰の決する所に我れに在ら
ずして彼れに在り。我れは唯我が滿足を求るのみにして、彼れよく之に應ずれば平和の局を結ぶ可し。否れば則
ち戰端を開く可し。故に今日に在て彼れの政略、何れに出づ可きやを推測するは、大切なる事と信ず。去月二十
三日以後、彼の政權は全く大院君の手に在るものとすれば、君の履歴は今日大に朝鮮の政略に關すること固より
論を俟たず。我輩が曾て聞く所に據れば、大院君は彼の國に在て地位の高貴なるのみならず、其天資剛強にして
爲すあるの人物たるは、唯其名聲に存するに非ず、現に爲すあるの資にして、事を爲したる人物なり。今を去る
こと十九年、攝政の職に任じてより、政府の萬機を一手に執て意の如くならざるはなし。從へば赦し從はざれば
殺すの一主義にして全國を威伏し、貴族以下の跋扈を制して王室の尊榮を耀かす等、美擧も亦少なからず。就中
外國の人を忌み外國の事物を惡て、其跡を國中に絶たんとするは畢生の心事にして、苟も怠漫したることなし。
是れより先きに佛蘭西の天主敎師は支那の陸地より朝鮮の内地に入て漸く敎化するものあり。大院君の之を惡む
こと甚し。乃ち大に天主敎追捕の巖令を下だして、凡そ國中の人民、外敎を信ずる者は、男女老幼の別なく皆こ
れを捕縛して死刑に處し、其三族を夷して遺類あることなし。朝鮮國にて天主敎の信徒は事實に於て其數甚だ多
からずと雖ども、其罪の疑はしき者を殺し、又其親族をも殲すの法なるが故に、之が爲に命を落したる者は殆ど
數を知る可らず。慶應の末年、明治の初年は、正に其刑戮の時節にして、毎日刑場に於て斷首せらるゝもの百名
に下だることなかりしと云ふ。
此時に際して日本は王政維新の事を行ひ、恰も西洋風の新日本國を出現して、爾来屢朝鮮國と掛合を始め、次
第に葛藤を生じて、明治六年には日本の政府に征韓論の起る程の次第なれば、彼の國に於ても日本人の擧動に注
意して怠らず。熟ら其樣を視察するに、新日本の士民は西洋天主敎國の風に心醉して洋鬼に瞞着せられ、恰も一
葦水を隔てゝ一區の洋鬼國を生じたるものなれば、之を洋夷と視做して攘はざる可らずとて、專ら攘和の政略に
忙はしく、樣々に策を施す其中に就て最も著しきものは、慶應の末年、國中に令を下だして、京城及びび各州郡の
市場等、行人の往來繁き地を撰て必ず石碑を建て、其碑面に洋夷侵犯、非戰則和、主和賣國の十二字を刻せしむ。
其碑の數、千を以て計ふ。明治四年漸く國中に周ねくして大に攘夷の氣風を振起し、又同時に國中の墨工に介し
て、墨を製するに必ず右の十二字を印せしめ、若しも此印字なき墨を賣る者は罪に處するの法を設けたるが如き
は、攘夷の注意周密なりと云ふ可し。明治六年君が政權返上の後も其主義嘗て動がず、或は改進者流の顯官等が
開國の利を語ることもあれば、君は必ず辭色を變じ、苟も朝鮮國中に居て改進開國を利とする者あらば、先づ國
中洋夷侵犯の石碑を倒して然る後に之を語れと、唯一言の下に之を擯斥して再び其人を見ずと云ふ。
又大院君の爲ㇾ人は純然たる專制主義なれども、朝野有力の人物にして、其爪牙股肱たる者甚だ多くして、計略
の陰密にして發して活潑なるは、往々人の耳目を驚かすものあり。蓋し專制獨斷の人にして孤立する者には非ざ
るなり。其機密を重んずるの一證を擧れば、君が執權のとき家に在て座右に使役する給事には常に二、三の啞子
を撰て之を用ひたりと云ふ。給事に啞子は最も不便利なる可きが如くに思はるれども、平生よく之に敎へて筆硯、
茶菓、酒肴等、友人の用談懇會に要用なるものを呼ぶには、目を以てし手を以てすれば自から之を便じたること
ならん。密談に他の探偵を防ぐの新工風にして、亦以て君が用心の深遠にして凡ならざるを知る可し。
以上記す所を以てすれば、大院君の主義と其爲ㇾ人の大槪は窺見る可し。決して平凡の人物に非ず。此資力を
以て廣く國中の有力者に結び、却て其身は政治の外に棄てられたるの姿なり。國勢の危きこと智者を俟たずして
明なり。左れば今同の事變は、其由て來るや久しくして深し。決して偶然に非ざるなり。 〔八月十五日〕