「支那政府の擧動」
このページについて
時事新報に掲載された「支那政府の擧動」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
今回日韓?國の交際困難なるの時に當り支那政府の擧動に關し我輩の了解し得ざるもの甚
だ多し八月初旬に我政府が花房公使をして再び渡韓せしむるに際し支那政府は電報を以て
東京駐在の使臣に訓令を傳へ朝鮮騒乱の由に付水陸の師を調發して援護せしむ日本公使舘
我屬邦に在り〓併に護持す可し出兵の主意は持朝護日に在りと知られこと我政府に通知せ
しめ我より返答に餘計の世話に及はずと云はれて必ずしも日本の使舘を護せずと雖ども屬
邦の内乱は鎮定せざる可らず必ず安心せられよとの意を反覆紹會せしめたりと云ふは甚た
不審なることなり朝鮮の内治外交とも其自主に任し支那政府は關係なしと自から明言した
りと云ふに今回日本朝鮮間の外交には何等の理あり權ありを支那政府は大に干渉する所あ
らんと企てたるか又彼の馬建忠が渡韓の如き多數の軍艦兵員を引率して卒然南陽に來り漢
城に入るに及ては部下の支那兵を以て城の四大門を守り恰も戰勝者が敵の降城に占據した
るの趣あり又國王の生父大院君を執へて北京に護送するに至り馬氏等が公布の論文中には
近年朝鮮の内政治らず遂に今回の變あり此事中國皇帝の上聞に達し大院君是を預知ると云
ふを以て皇帝震怒して王帥を差向けられ先つ大院君を北京に召されて親問せらるゝなり罪
人定まりたる上に更に天誅の威を申〓可しなど云ふ文字あり其意朝鮮は清國の領地なりと
云ふに相近し奇怪至極なりと云ふ可し又八月廿八日に朝鮮政府は支那兵の手を藉りて罪人
を捕縛したりと云へり是は朝鮮政府より馬建忠に依頼して一時の助力を得たるものなるか
又は馬建忠自がら部下の兵を指揮して朝鮮罪人天誅の手續に及びたるものか未た確實の事
情を知ること能はずと雖ども最前京城に入りたるとき自家の兵士を配置して他人の城門を
守衞したるの例に依れは罪人の捕縛も朝鮮政府の依賴を待ちしものに非さる可しと自然我
輩の心中に疑なきを得ず又馬建忠は本月三日即ち日韓新約締結の後第四日目に至りて書翰
を花房公使に贈り新約中朝鮮暴徒の巨魁等を捕縛し?に償金を拂はしむるの絛々を軽減せ
んことを請求したり是將た何等の意づや?國の全權大臣が君命を奉じて議定調印したる絛
約に傍より〓を容れ成約の後に之を變更せよと云ふは禮義上より論するも穏當の所爲と思
はれず幸に花房公使が之に取合はざりしを以て無事に歸するを得たりと雖ども萬國の交際
をも辨知したる馬氏にして斯る不都合を爲せしは何分にも解す可らざることなり又馬建忠
は漢城に入りたる後凡二週日にして本月四日再ひ天津へ歸航したるが爰に不審なるは韓廷
の重臣趙寧夏、金宏集の?人が今回馬氏と同行して天津に赴きたるの一事なり趙金?氏とも
花房公使が再ひ仁川へ到着以來常に徃來周旋し八月卅日絛約締結の時も金氏は副全權大臣
として専ら今囘の談判に預り趙氏は現職兵曹判書(陸軍卿)に在て共に重要の地位に立つ
人々なり然るに今此?氏が馬建忠に同伴して支那に行きたりと云ふは時節柄甚た訝しき擧
動なりと云はざるを得ず馬建忠が漢城を去るの際國王政府と何か相談したる事はなきや或
は其相談に關して趙金?重臣が支那行を要するにてはなきやと我輩の心中疑念一たび生し
て百〓蝟集し未た之を掃ふの方便を得さるなり我輩は是等の疑を江湖に質するの機會を失
はさる可し
○
豐公論 第一
凡そ人物の價位を定めんに其人局部の所業に就て〓に判斷を下す可らず均しく是一人にし
て其身究し財盡て斗〓の事をなすより見れは小人ならんと雖ども又時を得て腕力を用い横
行を働くときは奸雄の觀ある如く局處の行事は其人の全体を卜するに足ざるを知るべし豐
公の如き卑賤より起て天下に覇たり誠に豪傑たるに疑なしと雖ども天下後世の人孰れも局
所の論評を下し能く其心事を洞察したるものあらず三百年の間空しく英雄の魂をして百世
知己なきに泣かしめたるのみ
予〓を以て豐公を見るに豐公畢生の志願は諸豪衆雄を威状して其上に立たんと云ふにあら
ず惟專ら日本全國を合一協同し各相〓離することなからしめんを務め其土地兵馬の如きは
天下何人の手に歸すると雖ども敢て之を意とせさる者の如し豐公甞て信長の命に由り征西
の大將たりしとき信長之に約するに功成らは中國を擧て汝に予へんことを以てす豐公辭し
て曰臣は直趨勢に乗し九州を下し其一歳の入を賜はり〓仗舟艦を備て朝鮮に入り其兵を用
て明國を席捲し以て三國を合一にせんと其志願の決して日本の土壌兵馬を掌握するに在さ
るを徴すべし其内國にあつては務て諸將を撫〓し土地を割〓する恰も塵芥を棄るか如く然
り又群雄の四隅に割據して會同せざる者と雖ども〓〓を開て之を容るゝて計り若し猖獗に
して〓さるものあれは已むことを得す兵を動して之を對〓すれども又其〓を〓育〓對土を
〓與し要するに豐公の志す〓は苟も全國を〓〓する爲めなれば土地兵馬を擧て他人に與ふ
ると雖ども亦其心に甘んするか如し雄畧壯圖古今に獨歩すと謂ふべし
豐公の政畧は異を容れ同を求め天下合同の一義に在りと雖ども〓〓〓公に取て最大の困〓
たりしは天下各處〓〓〓の異同多きこと是なり毛利は毛利の主義あり北絛は北絛の主義あ
り天下各處の群雄孰れも皆一主義あらざるなし而して其主義は互に相反して同一す〓〓な
し然るに豐公の主義は惟全國調和の一義なれば紅海の大度量を〓ひて各處の衆豪雄を容れ
自ら北絛を斃せとも八州を擧て徳川に歸し進を奥羽を下せども百万石の〓土は氏鄕に予へ
上杉の悍雄も歸順すれば之を問はす〓〓の猛鷲も降來すれば封て〓を故に復さしめ苟も全
國調和の爲にならば何物と雖ども喪ふを〓〓す故に氏直の如きも早く八州を擧を交誼を通
し政宗も奥羽を率ひて使節を送らば豐公は大に喜〓〓〓〓るゝに相違なきなり何となれば
彼等の來るは全國調和の爲に大義あればなり豐公の主義は實に此の如きに疑なしと雖ども
當時の群雄誰あって豐公の心事を清察し徃て合同を基むる〓く〓て豐公を忌諱し近て接す
れば己が土地兵糧を失はさる可き疎して遠ざかるを安然の策ありと誤想し而して遂に其疎
遠にするは大に豐公の意に〓り適〓禍怨を招くを悟らざるなり
徳川家康の如き當時〓駿に割據し關東の〓路を扼する〓故に豐公は八州を〓るに苦 百方
家康を招くの〓を〓し〓て以て看の他意なきを示の然るに家康は獨り豐公の意中を悟らざ
るのみならず或は之に抗争せ〓〓〓今より豐公當時の意中を想見せは家康は無智〓り大勢
を解せさる者なりと獨り心労したることならん夫れ斯の如く豐公は苟も全國合同の一義に
合ふことなれば知て爲ざるなかりしが群雄の智慮淺薄なるより其意を悟る能はさりしなり
故に豐公が其志願の充分に〓〓〓ざるは決して巳の罪にあらず當時群雄の不覺〓〓るが〓
なり豐公の不平今日より想見するも其大なりしことならん(未完)