「花房辨理公使朝鮮より歸る」
このページについて
時事新報に掲載された「花房辨理公使朝鮮より歸る」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
花房辨理公使朝鮮より歸る
朝鮮在勤辨理公使花房義質君は本日を以て東京に着せらる可し抑も本年七月廿三日漢城の
變に韓兵我公使舘を襲撃し火を放ち矢石を飛ばし門前屋後其の圍の厳重なる一人も漏さず
打取る可しと決意したるものゝ如くなりし公使は平和修好の交際官吏にして舘中兵武の用
以ある可き筈なく銃器と云ふ可きものは?三挺の拳銃の外猟銃一挺だに所持する者無し幸
にして筐底に藏めたる日本刀の在るあり舘員廿餘名纔に此刀を手にして敵兵の門に入るを
防きたれども衆寡固より敵す可きにあらず則ち一方の圍を衝き王宮に至て保護を求めんと
すれども城門固く鎖して入る可らず止むを得ず路を轉じ夜に乗じて仁川府に遁れたり然る
に追兵又至り府兵と合して襲撃するに遭ひ辛ふして一絛の血路を得て濟物浦より小舟を〓
べ強て海に航せんとするの〓天幸なる〓偶然英國測量船の〓ふ所となり幾たびか死を決し
たる身にして未だ死せず公使以下親しく此變報を本國に齎らし來ることを得たるなり此變
前後死傷する者十餘名〓國のために其身を殺したるものなりと雖ども我輩全國の兄弟と共
に其不幸を悲みて爲めに流涕を禁ぜざるなり然るに我政府が此變に處するの方策其宜しき
に適ひ花房公使が韓廷との談判も亦大に其常を得たるを以て一時は一變千鈞を引くの思ひ
ありし日韓?國の交際も幸にして破裂に至らず新に締結したる絛約を以て自今一層の親密
を加るの端緒を開きたること我輩が國のために〓〓する所なり
花房公使は使命を全ふして歸朝せられたり其〓功の偉大なる故を〓〓〓の〓〓〓〓〓〓〓
な〓〓〓會〓〓〓の〓〓〓を〓みて〓〓の〓序を〓らず〓く〓〓を〓を本國に〓する〓の
〓〓〓〓固より去〓〓を〓〓〓〓〓〓〓て〓〓するにあらざれば之に〓すること能は〓〓
〓〓〓〓而して又再び特別の訓令を〓して渡韓するに至り〓廷一人として頑固黨ならざる
はなく支那政府は又〓〓馬建忠等をして三千の兵士を率ひて朝鮮に來らしめ〓は表面より
或は裏面より韓廷を左右して自由を得せしめず公使は此〓に立ち飽まて平和を主とし遂に
日韓?國滿足の平和談判を終り新に絛約を締結するに至りたる此際の困難辛苦は〓の亂兵
防戰の時に比すれば幾倍の甚しきを加へたるや論を俟たず智識經歴に富むにあらずんば之
に處すること能はざるなり公使は此大任を終り馬關に歸着するや大に同地人民の歓待を受
け次で神戸に着するや又大に同所の人民に饗應せられしたりと電報あり而して又本日横濱
に上陸せらるゝを待て同所の市民等大に公使の歸朝を祝するの設あり東京に於ても既に又
同樣の企ありと聞けば我日本人民は花房公使に對して其勳功と榮譽に相當なる敬愛の情を
表するを怠らざるなり而して我日本人民敬愛の情は固より公使一人の身に止まるに非ず七
月二十三日以來公使と生死を一にし或は遂に身を殺して國に〓じたるの諸氏は我輩が之を
敬愛するの情決して又尋常ならざるなり故に現政府に於ても死傷者家族の扶助料として朝
鮮政府より五万圓の金額を要求せられたるものあれば其配賦も亦必ず〓きに非ざる可し國
に忠なるは人の難んずる所なり況や人情の忍びざる家郷を辭して遠く異域に至り身を殺し
て國に報ぜんとするが如きは最も常人の能せざる所にしてい大に之を獎勵するは一國永遠
の大計なるものなり我政府も此度の好機會を失はず必ず大に此報國心を獎勵せらる可きや
論を俟たず啻に死傷者の家族に扶助料を給するのみならず生者も亦其勤勞の多寡に從て勳
等を賞し俸職を厚くし或は別段の慰勞金を與る等實際其宜しきを計を大に賞與の沙汰ある
ことなる可し凡そ賞與は其吝なるを慰むのみならず其沙汰も亦迅速ならざる可らず蓋し賜
を弄したる時其本人の感激っする苟も啻人が之を見て羨望するの念も其功勞を終て恩賜を
受る迄の間に經過する日月の長短に由て大に其厚薄い〓〓を〓にするものなるが故に賞與
は必ず迅速なるを要するなり我輩〓ずるに朝鮮事件の緊要なる一日も漢城駐在公使の欠〓
を許す可らず且つ支那の關係もありて目下一層公使の在任を必要とする時期なれ〓〓て今
〓花房公使〓〓〓歸朝の際の如く悠然〓〓〓〓て〓日月を〓せらるゝことを〓〓〓〓〓〓
に其赴〓〓〓き〓〓〓〓〓〓て〓〓〓〓て〓〓〓〓〓〓〓に〓た〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓間を〓〓ざるも〓〓〓今日〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓位花房
義質君の朝鮮より歸るを迎るの榮を〓〓〓今より四週日を出てずして我輩は又新に特命全
權公使勲一等從〓〓花房義質君の朝鮮に赴くを送るの榮を〓んことを〓〓するなり