「士族授産」
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時事新報に掲載された「士族授産」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
士族授産
士族の授産せざるべからざるは久しく世論の許す所にして敢て異論を挟むるものなし唯其授産の方法に至りては人々或は其意見を異にし當局者も亦時に不適當なる方法を施行して無益徒労に属したるものなきにあらず知見の不十分なるは憐むべく資財の消耗するは惜むに堪えたり今本月中旬を期して各府縣長官等が東亰に來集し太政官の諮問會とやらに與かるべしと聞くを以て我輩爰に士族授産法の一問題を掲けて當局者の注意を喚起し此地方官會場に於て十分に諮問する所あらんことを希望するなり
古來我日本國は恰も士族の日本國にして士族の外には日本國あるをも知る者なしと云ふへき有樣なりき士族又武士と稱し全國兵馬の權は一切士族の司とる所にして武術を學ぶを以て士族の專業と爲し農商民等は毫もこれに與かり知ることを得ざりき明治維新士族の常職を解きて徴兵の制を設け全國の人民士農工商の別なく男子は皆兵事に服するの法に改まりしより士族も亦他の人民に異なる所なしと雖とも三百年養成の力は十年の新習慣を以て容易に左右し得べきものにあらず尋常下等の兵卒こそ農商民にて差支えなけれ漸く上りて下士官以上に至れば今日尚ほ士族にあらざれば其任に堪る者甚だ少なし今日にして斯の如くなるは勿論今より十年或は二十年の後日に至るまで大なる變化あるべしとも思はれす必ず亦斯の如き有樣を以て長續することなるべし我輩之を兵家に聞く兵の強弱は卒伍の生熟に在らずして士官の良否に在りと果して然らば日本の兵を強くせんとするには士族をして士官たらしむるを第一の緊長と爲すべく聊か士族の外此任に當る者なしと云はざるを得ず故に士族の常職を解き随て又其常祿を平均十分の一二に減せし以來は其生計日に因業にして今日は漸く將に其極度に達せんとして見るに忍びざるの景狀あり之に産を授けて其困窮を救はんとするには之に軍職を授くるを以て最も當を得たるものと爲すべきや論を俟たずと雖とも如何せん士族は多くして軍職は少なく單に此方法のみに依賴して士族授産の實を擧くること能はず全國士族の數凡二百万人内五人に一人は兵時に堪ゆべき丁男なりとして此數四十万人なり然るに顧みて日本の兵備を見るに士卒より將校に至るまで兵籍に列なるべき者の總數を擧くるも僅かに十万人に満たず十万の軍需を以て四十万の武士を養うべからざるは明白のことたるが故に假令農商民等の徴兵を廢して兵に従事するは士族の獨業なりと定めたりとするも到底其授産救窮の用を爲すに足らざるべし徴兵の制固より廢すべからずと雖とも士族は授産せざるべからず兵備は強大ならしめざるべからずと云ふを以て自今大に兵備の費額を増加し授産強兵一擧兩得の諜を用ふとせんか今の政府の財政今の官民の間柄にして俄に此謀を實施し得べしとも思はれず必ずや先づ今の政策を改革し大に英斷の所置なかるべからず而して此所量は何れの日に實見すること得るや我輩未だ十分の見込なし士族の授産は目下焦眉の急務なり焦眉の急務を取て未だ見込もなき將來の所置に依賴せんと我輩は到底兵事の以て士族授産法に十分ならざるを知るなり
士族は兵馬の人種にして武事に關しては日本第一等の敎育を相傳したるのみならず文事の嗜みも亦四民の上位を占むるものにして就中政治上の思想の如きは實に此族の専有する所にして農商民等は之を夢寐にも見たることなかりしものと云て可なり農民の富豪なる部分には頗る文事の敎育ありて近日は漸く其力を社會の全面に現はし有名の志士にして其農民籍に係はるもの陸續輩出するのみならず高等の學科を脩め政治經濟の理を講する者は近日に至り農民の子弟に多くして士族の子弟に少なき迄に至りたり是又農民に文事の敎育ありて然るを得るの事跡ありと雖とも同時に又士族の困窮を證するの一事として見るべし富豪農民の文事は斯の如く稍や見るべきものありと雖とも此等は固より千百中の一二に過ぎず他は皆〓〓たる凡俗の愚民にして論するに足るものなし彼の商民に至りては更に之よりも甚しきものあり其身分の貧富を論せず政治の思想は勿論尋常一樣の文事に至るまて祖先以來一毫の敎育だも蒙りたることなく已れの一身あるを知りて國あるを知らず廉恥も名誉も利得に比しは惣ち其光明を失ひ錢を儲け錢を積み錢を守るを以て畢生の目的と爲すもの滔々たる商民社會の狀態なり斯る農商民等の中間に立ちて文武の藝學を脩め自から託すに憂國の志士を以てし茶話常談にも治國天下を言はざることなき士族なればその權力の強大なる固より偶然にあらず然るに生計の有樣は精神の活潑と併行すること能はす日に益々困難の苦境に深入したり窮すれば濫すとは小人に限りて然るにあらず大人君子と雖とも免るゝこと能はざるものにして士族の困窮終に濫に至るへきは固より人間の常情なるへし文たり武たるに論なく其藝學識見天下第一等の人種にして時勢激變の爲めに一朝衣食の道を失ひ年豐かなれとも兒は饑え呼び妻は寒を訴へ所謂糟粕にだも飽くこと能はざるの有樣を顧み昔をしのび今を樂しまざるの情は懐に禁ずること能はざるや必せり此時勢の激變以來顧みて日本全國人民の有樣を見れば大に其富を増加し農商一般に近時其生計の豐かなる決して昔日の比にあらず撃壌皷腹昭代の民たるに愧ぢざるものと云て可なり然るに獨り士族は則ち然らず其富を増加せざるのみならず却て之を減少するの極度終に天下の厄介物を以て視らるゝに至れり已れより劣等の人物と心得たる人々の有樣は彼の如く其人々より優等の人物と信したる自已の有樣は此の如し之を比較する度毎に必ず更に昔を忍び今を樂しまざるの情を増すことなるへし此情日に益々増進して終に何樣の点に止まり得るやは固より吾人の知る所にあらざるなり今の窮士族は身に武藝の敎育を相傳したるのみならず經國の文事に達して活撥の精神に乏しからず眞に乱世の英雄治世の姦賊たるの性質を備えたる者と云ふへきなり (未完)