「士族授産(昨日の續)」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「士族授産(昨日の續)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

士族は兵馬の人種にして之を軍職に任し以て強兵の用に資するは最も其當を得たるものなりと雖ども士族は多きに過ぎて軍職は少なきに過くるを以て到底兵事は授産の用に十分なりと云ふべからず又士族は高等なる文事の教育を受けて政治の思想に富み活溌なる精神を有すと雖ども以て生計に適用するの便を得ず古今左右を顧みて空しく不滿の想を揩キに過ぎずとのことは我輩既に之を前日の紙上に詳論したり然るに其方法の難易に拘はらず兎に角に士族は授産せざるべからず之に授産せざるは國の大計を誤るなりと定まりたる以上は今日に於て最も適當なりと思ふべき方法を求めて速かに之に着手すること肝要なるべし或は商社を起さしめて之に充てんとするか商業は士族の最も不得手なる所にして樵夫をして魚を捕らしむるの類に近し士族の授産に適せざるなり或は荒野を開墾して農利を得せしめんとするか士と農とは幾分か相似たる所あり且つ農業は商業の如く特別の熟練を要するものにあらざるを以て或は其當て得るに近かるべしと雖ども春耕夏耘元と武士の能する所にあらず在來の熟田を耕さしむるも尚其力の足らざるを憂ふ况や新に地を開き應分の収穫を得んとするは固より生兵法の企て及はざる所先例に依るに損得相償ふものは甚だ少なきなり依て今我輩の知る所にして最も士族の授産に適當したるものは養蠶製糸の業に優るものなかるべし

抑も養蠶の業たる非常に多量の人工を要する順序を逐ふべきものにして最も文明國人の生計に適當したるものなり田に稻を作り園に茶を植えたりとせんか稻に實を結ぶ之を米と云ふ其米を取りて之を精白し吾人が日々食ふ所の飯と成るまでに要する所の人工は格別多量なるものに非ず又園に植付けたる茶の葉を摘み之を爐に掛け精製して吾人が朝夕飲用する煎茶と成るまでに要する所の人工は是又格別多量のものに非ず然るに彼の桑の葉は決して然らず既に畑に在るとき尋常の作物の如く農夫の手入し培養を要したる後養蠶所に至りて蠶兒の食料と成るの間又大に人工を要す此手數を了り繭と成りたるときは既に幾分の價格を揄チしたり更に製糸所に至り生糸と成るの間更に又莫太の人工を要し隨て又其價格を揄チしたり生糸よりして織物と變し又時好の染色を得るに至れば人工を要すると共に價格を揄チすること容易ならず終に錦襴緞子天鵞絨等の如き最多量の人工を要する織物と成るに至りたるとき回顧して曩きの桑の葉を見るに其物質の精粗價格の高下の甚しき即是我前身たることを訪るなるべし人工は即ち金錢なるを以て富國の用に桑の大切なること米と茶の比類に非ざること言はずして明白なるべし人情に東西の區別なく人皆絹布の服飾を好むは世界万國同一樣なり然るに桑樹の成長に至りては万國決して一樣ならず佛蘭西、伊太利、土耳古、埃及、波斯、印度、支那、日本等の數箇國を以て世界の養蠶地と限りたるものの如く之を除くの外に桑を産するの國は實に計るに足らず幸にして我日本は北の方北海道より南の方九州に至るまで桑樹の成長に適せざる土地なく万國交通貿易自在の今日に於て食料の手當に輸入を仰きて差支なき以上は全日本國を一面の桑園に變するも苦しからざるべく養蠶の業を盛大にして其人口を用るの極度緞子天鵞絨までに織立てて世界の需用に供給することとなれば在來日本の土地を以て二百万の士族は勿論更に數千万の士族を輸入し來るとも豊かに衣食住を給して必ず餘りあるべし

以上述る所養蠶の利uは特に士族の爲めにのみ然るにあらず全國人民何人の爲めにするも皆然らざるはなし然るに我輩が特に此業を以て士族の産業に適當なりと云ふは抑も亦説あり蓋し士族は從來四民の上頭に位し彼の農夫が田園に耕し商人が店頭に牙籌を執るを見て之を賤蔑し皆我より下等の人種なりとして之を齒することを肯ぜさりき然るに一旦の機變によりて其常職を失ひ其常祿を減ぜられ忽ち其生計に困却し前日我が賤夫視したる農商民に就て哀を乞ふの慘状に陥りたりと雖ども心中尚ほ武士の魂なるものの存するありて一点不安の思なきこと能はず宇宙は一大活劇塲丑たり旦たり手翻覆昨日の袴大小は今日の前掛矢立農商民と伍を成すに何の憚る所かあらんと立派に悟道し得るほどの大勇豪膽の人に乏しきを以て遂には理非損得を顧みず武士の意地を押通さんとする者なきに非ず一概に之を論すれば無理なる意地なりと云て止むべき樣なれども渾身意地より成立を來りたる武士に向ひ俄かに其意地を折らんとするは却て大害を激成するの所量たるが故に必ずや漸を以て此意地を疎通するの手段を求むること責任經國家の本願なるべし今養蠶製糸の業を見るに農商の臭氣を帯びたるは勿論なりと雖ども全農全商を距ること甚だ遠く從來社會に敬視せらるるの産業たる性質は失はざるなり現に今日と雖ども皇后の宮には禁園に成らせられ華族の子女が養蠶製糸の技を御覽ある等も其一例にして士族の妻女が此業に從事したりとて毫も赤面すべき理由なし又彼の桑園の灌漑の如きも尋常の作物とは大に其趣を異にし士族の父兄が桑樹を培養したりとて毫も心に恥ることなかるへし則ち尊敬と利uとを共有する一種無類の産業にして士族の生計に最も適當なるものと云ふべし

故に我輩は政府に向て大に士族授産を奬勵せられんことを希望し其方法は養蠶製糸に從事せしむるに優るものなき