「爲替手形約束手形條例を讀て感あり」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「爲替手形約束手形條例を讀て感あり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

爲替手形約束手形條例を讀て感あり

爲替手形約束手形は商賣の取引に於て必ず運搬せざる可らざる通貨の量を減少して以て大に勞働を省略するの便益を與ふるものなれば其商賣上に於て緊要なるは敢て喋々の辨を俟ざる所なり然り而して爲替手形の創めて我國に行はれたるは何の時代に在る歟我輩の知らざる所なれとも從來吾人が其行使に由て得る所の便益は決して少小にあらず就中國立銀行の剏開以來此手形は益盛に行はるることとなり既に明治十年中全國國立銀行に於て取組みたる爲替手形の總金額は九百八拾九万三百二十五圓なれとも十一年中には二千五百三十三万六千七百四圓十二年中には四千九百八十四万八百七圓に增加するに至れりと謂ふ此金額の斯の如く非常に增加せし所以のものは此三箇年間に於て國立銀行の數と官金遞送の量との多きを加へたるに由るもの居多なりと雖とも抑も亦爲替事業の漸次に進捗するに非れば決して此に至らざるは疑を容る可らざるなり

蓋し從來我國に行はるる爲替手形は多くは遠隔の地方へ遞送すべき金圓に對し銀行者に依賴して取組みたるものにして商賣自身に取組みたるものは甚だ稀なり且歐米の爲替手形の如く裏書を以て所有權を移轉するものに非ずして一回の使用を以て之を反古と爲すを常とすれば其効用は之を歐米の爲替手形に比較して過半を減するものと謂はざる可らず又其支拂は大抵皆一覽拂のみにして日附後定期拂或は一覽後定期拂に非るを以て銀行者に依賴して其割引を要すを要せざるものなり抑も爲替手形約束手形の割引は銀行の業務中最も得益あるものにして且彼の地所、家屋、株券、公債證書等の抵當貸しの如く返濟期限に至る迄は集金するを得ざるものに非ず何時にても正金の入用あるときは之を他に賣却するを得可ければ銀行の貸附法中最も便利なるものなり是を以て銀行にして手形の割引を爲さざるものは未だ以て充分に其本務を營む者と爲す可らずと謂ふも敢て誣言に非る可し蓋し我國立銀行は其創立以來は漸次に此割引の事務に從事するもの多きを加へたりと謂ふと雖とも確實なる定期拂爲替手形約束手形の行はるるに至るに非れば決して眞成なる割引の事業は興る可らざるが故に今の割引と唱ふる者は多くは其名に不適當なる割引たるや知るべきなり是を以て今の銀行者が貸附を爲すには必す皆單に地所、家屋、株券、公債證書等の抵當貸に從事せり元來此抵當貸に從事して確實に營業を爲さんとするには臨時正金の入用に充るが爲め貸附資金(資本金及ひ預り金)中の幾分かは常に銀行の金庫中に備へ置かざる可らざるの不便利あるべき筈なり然るに聞くが如きは今の銀行者中斯の如き準備を爲さざるのみならず自家の方に取りたる抵當品を更に抵當として他方に入れ以て金融を爲すもの徃々尠からずと謂ふ果して然らんには臨時正金入用の塲合(例之は預け金取り付けの如きもの)に至るときは必す困却するものもあるならん實に斯の如き遣繰の貸附法は確實なる銀行の營業に非るなり

右の如く確實なる定期拂爲替手形約束手形の盛に行はるるに至るに非れば爲替手形約束手形の固有の効用たる運搬せざる可らざる貨幣の量を減少して以て大に勞働を省略するの便益は起る可らす又割引の事業の振はざるに由り銀行は未だ以て充分に其本務を營むことを得ざるべし是を以て今の時に當て斯の如き爲替手形約束手形の行使を奬勵するは洵に商業上の一大急務たるは亦論を要せざるものの如し我政府は正しくここに眼を着せられしにや去る十一日に於て太政官第五十七號布告を以て爲替手形約束手形條例を布告せられたり我輩之を讀一讀し其我商業に取て最も有益の條例なる可きを〓起し其章節の如きも敢て間然すべきもの莫きが如し然りと雖とも此一編の條例能く爲替手形約束手形の行使を盛にし銀行の事務を振起するを得可きや否に至ては我輩の大に疑を容れざるを得ざる所あり請ふ試に之を論せん

凡そ法律なるものは人心の傾向に從て制定す可きものにして苟も之に反して制定するときは決して其功を奏するものに非ず彼の所謂徒法なる者其法自身の粗惡なるに由て然るものに非ずして唯其法の人心の傾向に矛盾するの致す所に由るもの徃々皆是れなり是れ法律の邦國に由り時勢に由りて其趣を殊にする所以なり是を以て法律は能く人心の傾向を幇助して正鵠に達せしむるを得るも新たに人心の傾向を興起し得るものに非ず乃ち維新以來萬機の一變と共に我商賣の有樣も大に更葦し結社も取引も帳簿も皆其法を歐米に執ることとなりたれば其傾向より論するときは爲替手形約束手形の如きも既に其法を彼に執る可き筈なり故に爲替手形約束手形の條例も幾分か能く此傾向を幇助するならん又通常法律の如く人心の傾向を幇助して正鵠に達せしむるを得可き力を有するならんと謂ふ可しと雖とも倩ら實際を觀察すれば此法律果して良法にして間然するなしと雖とも一編の條例能く此兩手形の行使を盛にし銀行の事務を振起するを得可きや否を疑ふ可きものあるなり何ぞや紙幣の價格の下落して常に變替する事即ち是れなり元來爲替手形約束手形なる者は信憑の標示にして猶ほ文字の思想に於けるが如きものなり故に思想なければ文字の生すべき理莫きが如く信憑なければ此兩手形の決して興る可らざるは知るべきなり而して今の我商賣社會に於て果して斯の如き信憑の行はるるある歟今日の如く紙幣の價格の下落して常に變替する有樣に在て斯の如き信憑の行わるるの理無きは知者を俟たずして明晰なり蓋し紙幣の價格を下落するにも拘らず此兩手形の行はるるの國はありと雖とも斯の如き國は皆古より既に此兩手形行使の習慣のありたるに由て然るものにして我國の如く創めて其行使の習慣を養成せんとするものに非れば之を以て我國の今日に適用す可らざるなり然らは則ち今の紙幣の價格を一定するか或は之を消還するに非れば我商賣社會に信憑の行はるること難かる可し既に信憑の行はるること難ければ爲替手形約束手形の行使を盛にし銀行の事務を振起するを得ざるべきは自然の數と謂ふ可きなり