「官舍燒たり」
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時事新報に掲載された「官舍燒たり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
官舍燒たり
今年も既に歳末に迫り府下の小失火徃々少からすと雖とも就中最も我輩の心目を驚かしたるは近來官舍に失火の多きこと是なり一昨夜は外務省の官舍より發火し又去る二十二日には文部省の直轄たる東京師範學校に失火して昌平舘に延燒し同刻橫濱に於ては縣廳及警察署悉く燒失して記錄簿册も喪ひたりと云ひ更に數日前に溯れば大藏省の記錄課に或は印刷局の構内に比々として火災あるを見るなり幸にして此等の失火は白晝若くは初夜に係るなれば延燒して言ふ可からさるの災害を釀すに至らさりしと雖とも然かも近來官舍に失火の多きは爭ふ可らさるの事實なれば我輩は之を見て大に憂慮する所あり以て當路者の注意を惹かんと欲す其事他に非ず官舍の規摸を一新して之を石室に建築するの議なり
我輩は嘗て時事新報の紙上に官舍の建築は目下の急務なれば早く其策を定め太政官を中心として諸省院を一地に移し悉く皆石室に改築なして明治政府の基礎を堅固になすへしと痛論したるに爾後誰ありて其必要を悟るものなかりしが我輩は近來官舍に失火の頻々なるを見て益々官舍建築の一日も忽になす可らざるを察するなり何となれば官舍には政府の記錄もあり簿册もあり又金錢もありて一國政治の本源なれば隨て官舍の建築は最も堅固を要するの理由たる三歳の童子も知る所なるに目下諸官省の建築を見れば一二を除くの外は皆薄弱なる西洋風の家屋なれば若し一朝に火を失し風も烈く天も乾き加ふるに深夜なるを以てせば薄弱なる諸官舍忽ちにして灰燼となるべし今日迄は官舍に失火ありと雖とも未だ此如きに至らざりしが火災の事たる何處何時に起て如何なる延燒に及ぶも測る可らざる者なれば預め之を防くの策を立てて燒失の災を避けんと務むへきなり人或は官舍に失火多きを以て官舍は一個の私有に非ず隨て自警の念なきより斯る始末に立至るとなす者あれとも公平の目より論すれば政府決して官舍の警守を怠るには非ざるべし却て其反對に出てて不時の災を慮るが爲には周到の備をなすこと尋常居家の比に非ずと雖とも若しも肝腎なる官舍その物が脆くして薪材たるに同しけれは如何に警守を嚴にするも燒失の患を絶たんとは覺束なき次第ならずや油を以て火を消さんとする拙策と同一なるべし好し一步を退き自警の念力薄しとするも既に官舍には失火の患ありとせば愈以て官舍の建築は堅固にも堅固を盡くささる可らず一昨夜燒失したる外務省の官舍の如きは其本部より發せざりしこそ幸なれ若し本部より失火するあらば外務省の構造如何に堅固なりと雖とも燒失の災に罹ざることなからんや况や官省の中には隨分薄弱にして常に壞れて又常に繕ふ者少しとせす若し此等の官舍より失火せは見す見す之を灰燼の中に委る獨り人民の困難を增すのみならず爲に事務の澁滯を生するに至るは必然の事なるべし亦以て堅牢なる官舍建築の今日に益々必用なるを信するなり
單に火災の一点より論するも今の諸官省は薄弱にして火を防ぐに足らさる故一且の失火より遂に全燒に至るも知る可らざれば早く官舍の規摸を變更して悉く石室に改むるの急務なること分明なれとも或は費用の一端より異論を唱ふるもの無きに非ず固より官舍建築の事業たる明治政府の基礎を強固にするの大規摸なれは其費用の隨て巨額なるへきは敢て疑ふべきに非すと雖ともこれか爲に百年の大計を逡巡すへきに非ざるなり且つ其費用の如き或は少額にして無理に改築の功を奏することを爲し得へしと雖とも其費用を吝て非常に節するときは新築の官舍も依然たる舊時の薄弱の官舍と均しく隨て壞れ隨て繕ひ到底始末の附かぬ糊飯細工たるに至るは必然の事なれは苟も官舍を改築する以上其費用如きは充分堅固なる〓〓をなすに足らさる可らす然れとも此等の大乘は一二年の間に功を期すべきに非ず速くも十年以上を要することなれは假令ひ建築の費用は大なりと雖とも年々に費す所は少くして濟むを得べし是策を運らすものこそ眞に實地の經濟に通ずと稱すべきなり今假りに改築の費用を一千万圓と見積るに千万圓の金固より巨額なりと雖とも功を十年に期すれば年々費す所は百万圓にして可なり二十年に期すれば五十万圓にして足る費す〓は少〓〓〓〓〓〓は大に以て明治政府の基礎を強固にするは〓〓〓〓〓〓〓に在る〓きなり况んや宏大の事業を起すには設令ひ一時に巨億の金ありと雖とも數月の間にして其目的を達すべきに非ず單に建築の地形を測り亦繪圖面を引くのみても尙數月を要し夫より凹凸を平かにして地底を固め愈よ其趾を定むる迄には年餘を費すべき程のものなるか故に宏大の建築には一時に巨億の大金を要せざる者と知るべし此理を推して考ふるも單に費用の一端より目下焦眉の急とも云ふべき官舍建築の一擧を抹殺し去らんとするは愚も亦甚しと謂ざるを得ず是故に我政府は早く茲に着目し今日壞れ易きの家屋を一變して堅固強牢の石室に改築し其規摸を大にし成功を十年の後に期して政府の基礎を立てざる可らず是事たる實に我輩の言を待て始て悟る程の事に非ず疾くより其計策あるべきに未だ其然るを見ざるは果して何の理由なる歟我政府は近來府下に大火延燒の災害あるを憂へて防火線路屋上制限の規則を制定し之を實行するには充分盡力して矮陋の家屋を取拂はしめんと欲し或は塗家瓦葺に改築せんしめんと欲す政府が人民の爲に火災を慮るは至れりと謂ふべしと雖とも獨り政府が政府自家の爲に堅牢なる官舍を改築して火災を避くるの策を運らさざるは我輩の最も解せざる所なり人民の防火線路屋上制限固より大切なりと雖とも政府の防火線路屋上制限も亦大切ならずや人民の火災に逢ふは一人の事なれとも政府が薄弱なる官舍の爲に火災を蒙るの害は天下に關するの害なり一人に關するの害は姑く緩うすべきも一國に關する官舍の薄弱は片時も踟躇すべきに非ず我輩は政府が人民の爲よりも寧ろ自家の屋上制限規則を制定せられ一地を卜して石造の大政府官舍を造營あらんことを希望するなり