「牛場卓造君朝鮮に行く」
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2019-09-08
このページについて
時事新報に掲載された「牛場卓造君朝鮮に行く」を文字に起こしたものです。
- 『福澤諭吉全集 第 08 巻』(岩波書店、1960 年)所収の論説、「牛場卓造君朝鮮に行く」(497 頁から)
- 18830111, 18830112, 18830113
- 段落は、本来は六段落(其実際の例は…から二段落、右の所記に従い…から三段落、牛場卓造君は旧と…から四段落、牛場君の朝鮮行よりして…から五段落、又我日本人が…から六段落)ですが、適宜改行しました。
- テキストの表記については、諸論説についてをご覧下さい。
本文
第一段落
今回牛場卓造君は朝鮮国政府の聘に応じて該国の全権大臣、朴泳孝の一行と共に、前月 28 日の郵船に塔じて横浜出発、本月 1 日、汽船明治丸にて神戸を発し仁川に直航したるを以て、今頃は既に漢城に安着し在るなるべし。
抑も朝鮮の国情は世人も既に其大概を知る所にして、彼の開国以来、物論常に穏かならず、我日本国より派遣の公使領事あり、又貿易の為に渡航する商人ありと雖ども、数百年来、閉居孤立の風に慣れたる人民なれば、之に接すること甚だ易からず。
我れより之を阻害するは固より交際の不利なるを知て、進て之に近かんとすれば却て猜疑の念を生じて亦利あらず。遂に開国以来、殆ど 10 年の今日に至るまで、日韓両政府の交情厚きを加うるを得ず、両国人民の貿易繁盛を致すを得ず。
加之本年の春は安辺の殺傷、夏は則ち京城の変乱、両国の交際は却て日に退歩したりと云わざるを得ず。
蓋し朝鮮の人民決して野蛮なるに非ず、高尚の文思なきに非ずと雖ども、数百年の沈睡は仮令い之を喚び起して運動を促がすも、眼光尚未だ分明ならずして方向に迷うものの如し。
今其眼光をして分明ならしめんとするの術を求るに、威を以て嚇すべからず、利を以て啗わしむべからず、唯其人心の非を正して自から発明せしむるの一法あるのみ。
第二段落
其実際の例は他に求むるを須たずして近く我日本国に在り。
前年、諸外国人が我国に渡来して交接を開たる其時に、天下の志士は固より之を悦ばず、物論蝶々、遂に鎖国攘夷の一大主義を唱えて之に応ぜざる者なし。
この時に当て外国の人が其砲艦の実力を説て日本人を威せんとするも之を恐るる者なし、又通商貿易の利益を説て日本人を誘わんとするも之に耳を傾る者なし。
然るに攘夷の論勢正に頂上に達して、頓に一変して開国の主義に転じたるは何ぞや。
日本の人民が頓に外国の兵力を恐れて之に萎縮したるが為に非ず、始めて貿易の利を嘗めて漸く佳境の味を知りたるが為に非ず、内に自から其非を悟りて大に発明したる所のものあればなり。
即ち世界万国の形勢を知り、外国は夷狄に非ず、外人は禽獣に非ず、却て文明開化の良友なれば、之に交り之と併立して共に開明の鋒を争うこそ報国尽忠の大義なれと、残夢忽ち醒めて眼光亦明を放ちたればなり。
人心の変化迅速にして其成跡の美なる、世界古今に実例なきものと云うべし。
然りと雖ども凡そ社会人事の運動は偶然に非ずして必ず其原因なきを得ず。
今我日本人が斯る非常の運動を為したる由縁を尋ぬるに、其由て来る所甚だ深し。
今を去ること 150 年、享保年間、新井白石先生の時に於て既に外国の事情を探るの志ありしものの如し。
数年を経て延享元年、青木崑陽先生が長崎に行て荷蘭文を読むの端を聞きたるは、今明治 15 年より計れば正に 139 年の昔なり。
次で蘭書講読に着手して西洋学流の開祖と称すべきは前野蘭化先生にして、明治 5、6 年の頃に長崎に往来し、同 8 年、杉田玄白先生と共に翻訳の大業を起して、玄白先生の手に成りし訳書、解体新書は、其版本、今尚世に存せり。
是れより 7、80 年の久しき、固より鎖国の日本なれども、荷蘭医流の学者は陸続世に出でて曾て命脈を絶たざるのみならず、往々其社中に偉丈夫を出し、其活発勉強なること殆ど今人の想像外にして、医書を講じ窮理書を研究するの傍に、天文、地理の学より政事、兵法の書をも、講読し翻訳するものあり。
以て嘉永年代に至りては我国蘭学の寿は既に百歳を過ぎ、国中の蘭学者も亦現に百を計うるの数ありて、然かも其蘭学者なるものは大概皆奇骨ある人物にして、天下上流の社会中に勢力を有すること少なからず(徳川政府、鎖国の法にして蘭学を忌むこと甚しく、屡これを禁止せんとして遂に禁ずること能わず。之が為に当時の蘭学者流にして身を殺したる者もありと雖ども、其社流の人は益志を堅くして毫も屈するの色なかりき)。
この時に当て偶ま亜国艦渡来の事あり。
一事の騒擾実に名状すべからざるものなりしと雖ども、蘭学者流の眼を以て見れば毫も怪しむに足らず。
徐々に外人の挙動を伺い、徐々に外国の事物を観察すれば、啻に怪しむに足らざるのみならず、恰も旧相識に邂逅するの心地して、この事も嘗て伝聞したる所のものなり、其物も嘗て書籍中に見たるものなり、今これを実際に照らすときは尚知らざるもの甚だ多し、知らざるものは之を知るの道を求ることこそ緊要なれとて、輙ち外国に学ぶの念を生じ、勇心勃起、身躬から之を学て又随て他人を奨励し、苟も外国の事物とあれば其美を語り其利を説き、全国の蘭学者は恰も外国交際の弁護人にして、為に一身を危くしたる者も亦少なからず
(万延元年、日本の軍艦を以て亜米利加に渡航し、一年を隔てて文久 2 年、使節を欧羅巴各国に派遣したるときにも、同行中の洋学者流は彼の国事の盛なるを見て感心啻ならずと雖ども、苟も学問上に起原したる事物なれば之を怪訝するものなし。
汽車に乗れば其理は我が曾て知る所なり、電信を見るも越気電気の作用は我が常に書中に研究したるものなり、瓦斯灯も亦然り、蒸気機関も亦然り、一切我が国に無きものにして曾て其実物を見ず、又これを我が手につくりたることこそなけれども、其大体の道理は胸中に明瞭にして、之を譬えば曾て姓名を伝聞して其性質をも詳にしたる人物に始めて親しく面会したるものの如し。
怪訝の念慮起るべからず。
之を彼の支那人等が数千年来、陰陽五行の空論中に生々して物理推究の念なく、空気を呼吸し水を飲みながら気水の何物たるを知らず、蒸気船車に乗り瓦斯灯に照らされながら其蒸気、瓦斯の性質を知らず、漠然として他の文明に驚き、仮令い銭を以て文明の物を買うも、夢中に買うて夢中に之を用るのみにして、曾て自から奮て自から文明国たらんとするの勇なき者に比すれば、万々同日の論に非ざるなり)。
亜米利加に引続き英仏其他の国々も続々来て和親貿易の事を締盟し、外人の渡来日に繁多なれば我国の学者も亦決して怠らず、旧時の蘭学を棄てて英学に移り、亦仏語を学び、或は天然人為の危険を冒かして外国に渡航し、彼の事情を写して之を書に著す者あり、或は船来の原書を取て之を翻訳する者あり、文運日に隆にして蘭学の名は変じて洋楽と為り、慶応の末年に至ては国中洋書を講読する者のみにても幾千を以て計え、上流社会に其主義を同うして其事を行う者に至ては数を知るべからず。
又一方の攘夷論は維新の前後に於て実に其頂上に達したる者なれども、政府の新陳交代の際、頓に一転して開国の主義に変じたるは、之を学者の力に帰せざるを得ず。
百余年前、西洋学流の先人が守旧固陋の荊棘を払うて開明に入るの路を開き、亜艦渡来の後、国中の洋学者が日夜勉励して躬から身心を労するのみならず、主義の為に一身を危うするも顧みざるの勇気あるに非ずんば、安ぞよくこの転変の好結果を得んや。
当時若し我国中を挙て洋学の元素を存することなくして攘夷一遍の針路を達せんとしたらば、国の大禍実に言うべからず。
我輩断じて今日の大日本を見ざることならんと信ずるなり。
第三段落
右の所記に従い朝鮮の国情を我日本に例すれば、其時勢は正に我百余年前、延享・明和の時代に等しきものと云て可なり。
或は其開国以来、斥攘論の盛なるは、我嘉永以後、慶応年間の事情に等しいと云うも可ならん。
この時に当りこの人民を誘導して開進の方向に運動せしめんとするの法如何すべきや。
闔国一士人のよく洋書を読む者あるを聞かず、世界の何物たるを知らず、文明開化の何事たるを解せず、偶ま自国の外に国あるを知れば唯日本と支那とのみにして、日支の外に国あるを知らず、之を知らずして其名を聞けば唯これを忌むのみ。
開明の元素入らんと欲するも得べからず。
之を要するに朝鮮国中には文明開化を入るるに、内より起て其路を啓く者なくして、他より来る者あるも威を以て嚇すべからず利を以て誘うべからざるものなれば、目下最第一の要は其国人の心の非を正して自から迷霧を払わしむるの一手段あるのみ。
即ち其手段を求れば、今日の朝鮮に於ても我永享・明和に於ける蘭学の先人が実学の端を開て守旧固陋の荊棘を払うたるが如く、又嘉永以来の洋学者が其緒を続て命脈を断たず鎖攘の殺気凛々の中に立て一身の危険を顧みず世の風潮に激して以て開明の好結果を得せしめたるが如く、率先の人物を得て国人一般の心を開くこと緊要なりと信ず。蓋し威を以て嚇し利を以て導くものは、仮令い其国を開くも元と客観の外物に制しられたるものなれば、外来の威力去り利益亦滅ずるときは人心も亦変化せんのみ。
故に固陋の国を開かんとするの策は先ず其国人の心を開くより確なるものはあらざるなり。
第四段落
牛場卓造君は旧と慶應義塾に於て洋学を勉め、業成り塾を去て久しく朝野の事に当り、其心事は唯西洋近時の文明を採て之を実際に施行せんとするに在るのみ。
我日本国内に於ても為すべき事甚多しと雖ども、東洋の全面を通覧すれば朝鮮の事決して軽々に看過すべからず。
日韓兄弟たり又唇歯たりと云うと雖ども、家兄よく勉強して活発なるも、弟にして頑固無頼なれば弟なきに異ならず。
唇薄くし欠るときは亡びざるも歯は既に寒し。
結局今日の事態にては、朝鮮国は我日本の為に兄弟たり唇歯たるの用を為すに足らざるものなれば、今回彼の政府の招聘こそ幸なれ、以て彼の開進の率先者と為り、其士人の俊英なる者を友として其頑陋なる者を説き、之を激して之を怒らしめず、之を諭して之を辱めず、君の平生処世の技倆と学問の実力とを以て、懇々之に近づき諄々之を教ることあらば、之を開明に入るる亦難きに非ず。
或は其際に事の挙らずして堪え難きこともあらんと雖ども、我蘭学の先人が百余年前に辛苦したる有様を想えば驚くに足らず。
或は方今彼の国情に於て粗暴過激の徒も少なからずして、時としては身の危きこともあらんと雖ども、我嘉永以来の洋学者が鎖攘の腥風中に独立したる危険に比すれば亦恐るるに足らず。
我日本の洋学者流がこの辛苦に堪えこの危険を冒してよく今日に至りしものは、唯一片の誠意誠心、国を思うの忠勇に出でたるのみなれば、君も亦朝鮮国に在て全く私心を去り、猥に彼の政事に喙を容れず、猥に彼の習慣を壌るのを求めずして、唯一貫の目的は君の平生学び得たる洋学の旨を伝て、彼の上流の士人をして自から発明せしむるに在るのみ。
自身既に発明するときは、政治の変革、風俗の改良の如きは誠に易々たるものにして、学者たる君に於ては之を傍観して可なり。
例えば今の日本に於ても政治、習慣漸く西洋の風に移らんとして、其起原を尋れば悉皆洋学者流の発意に出でざるものなしと雖ども、学者は却て之を傍観する者あるに非ずや。
之を名けて学者と政治家との分業と云う。
自国にして尚且斯の如し、況や他国に於てをや。
学者の本分は唯無形の人心を開くに在るのみにして、其方便は唯誠を致して情を尽すに在るのみ。
西洋の人が東洋諸国其他未開の国々に行て之を誘導するの方便には、政治、商売等の交際の外に、宣教師とて宗門の教を伝うる者あり。
或は又宗旨に兼ねて医術を教え、広く土地の病客に接して之を縁として民心を収る者あり。
今我日本より朝鮮国へ仏法伝教の企もなきに非ざれども、其僧侶は大抵皆近時文明の事に迂闊にして、其近接する所の者も多くは下流の人民なれば、仏法を以て開進の方便に用るは或は難しらん。
結局人を文明に導かんとする者は、己れ自から文明を学び、文明の書を読て文明の事を知るに非ざれば不可なり。
牛場君の如きは多年、慶應義塾に在て蛍雪の辛苦を嘗め、社会の人事に当て実に文明の事を知る人なれば、正に其任に適当なりと雖ども、文明の人、動もすれば道理を説て人情を忘るる者少なからず。
朝鮮の士人、文思高尚なるも、数百年来、周公、孔子、迂儒の論に惑溺して、其耳或は文明の道理を聴くに聡ならざること多し。
是に於て我輩が君に希望する所は、仮令い君が宗教外の人にして素より無宗旨なるも、他国の人に接して深切なるは、正に伝教師が愚民を御すると同一様ならんことの一事なり。
第五段落
牛馬君の朝鮮行よりして随て生ずべき成跡の中に就て、日本と支那と朝鮮と三国の関係如何なるべきやと、之を憶測想像すれば益君に望む所のもの多ならざるを得ず。
抑も数月以来、朝鮮の国情を察して、其支那に接するの景況を見るに、隣の大国に服従して属附の名あるは固より今日に始るに非ずと雖ども、唯名のみにして曾て其大国より属国に対して内治外交に干渉したることもなく、単に虚名を以て自家虚大の妄想を慰めたるのみのものなりしが、近日は其虚名を変じて事実と為すの変相を現わし、或は兵を送り金を貸し又顧問の人物を遣る等、其挙動甚だ訝しきものあるが如し。
是に於て我国の識者もこの有様を聞知して安からざる思いを為し、支那人の挙動これを等閑に附すべからず、彼れが恰も朝鮮に臨て傍若無人なるは、其国土の広大なるを恃むものなり、其人口の多くして富有なるを恃むものなり、国富むが故に兵備を設るに容易なるを恃むものなりとて、頻りに之を苦慮して且憤怒するもの少なからず。
然りと雖ども今虚心平気に考えれば、支那人の自から恃むや、実に恃むべきを恃むものにして、其大国にして富実なるは人の許す所にして、兵備も亦これを拡張するに容易なるべし。
誠に当然の事ならずや。
第六段落
又我日本人がこの情況を見て之を苦慮し、随て之に当るべきの策を案じ、我れも亦富国強兵を工風して支那に対峙し又これを圧倒し、独り彼れをして朝鮮交際の権を専にせしめず、仮令い今の支那人を逐うて我れ自から之に代るが如き鄙劣策を運らさざるも、彼れが徒大の妄想を以て朝鮮国の独立を妨るの策をば、これを破却せざるべからずとて奮発するは、是亦固に至当の考にして、報国の忠勇実に斯くこそあるべけれ。
我輩平生の持論も正しく同一様にして、毫も異議あることなしと雖ども、事の実際に於て、支那の富に当るに我富を以てし、其富を以て作る所の兵に当るに我兵を以てせんとするが如きは、或は難きことに非ずや。
況や其国土、人口の如き、相敵すべからざるは数に於て明白なるものなれば、我輩は彼れに対するに必ずしも富強の実数のみに依らずして、別に我恃むべき所のものを恃まんと欲する者なり。
蓋し其恃むべきものとは何ぞや。
我日本上流の士人に固有なる近時文明の思想、即是なり。凡そ国と国と相対して権力を争うは、必ずしも其実物の数に由るものに非ず。
方今世界中の各国が互に権力を争うは、唯文明開進の前後を争う者にして、苟も其国人に文明の思想あるに非ざれば、仮令い之に授るに文明の器を以てするも、遂に其用を為すに足らず。
例えば土耳古の国大ならざるに非ず、其国人勇ならざるに非ず、又其国に文明の器械なきに非ずと雖ども、欧洲諸国に対しては曾て其国権を伸ること能わざるのみならず、常に之に蔑視せられて、外交には恥辱を蒙り、外戦には敗衂を取り、数百年来、今日に至るまで国勢日に退蹙するが如き、即ち其実例なり。
この点より視れば今の支那と土耳古と何の異同あるべきや。
土人が回々教に惑溺して唯殺伐なるも、支人が儒教を妄信して事物の真理を解せざるも、共に是れ文明境外、無識の愚民と云うべきのみ。
斯る愚民に授るに文明の器を以てするも何の用を為すべきや。
試に今日我国に於て文政・天保の老儒に逢て、西洋の学理を語るも経済論を談ずるも、固より其感覚を起すに足らず。
況や之を授るに近時の利器を以てするに於てをや。
儒者が活版の書を読み又郵便に書を投じ乍ら、其功力の大なる所以を知らず、蒸気船車に乗り又電信を利用し乍ら、其物の性質に就て一点の識力なきが如きは、正しく支那の風を写し出したる者と云うべし。
然りと雖ども今の我日本は文政・天保の日本に非ず。
先進漸く老し去て後進漸く新に進むの秋にして、老儒の子は則ち文明開化の学士なり。
之を隣国の支那に於て老儒に続くに老儒を以てするものに比すれば、固に同年の論に非ず。
即ち日本と支那と相異なる所以にして、文明開進の前後、果して国力の関する所ならば、支那の国力は我十分の一にも足らず、蕞爾たる老儒国と云て可なり。
故に我日本人が今日朝鮮の関係より支那人に対するの方略は、富強の道固より怠るべからず、財政整理せざるべからず、兵備拡張せざるべからずと雖ども、是れは自から当局者の在るありて直接に我輩の関係する所に非ず、又之に関係することをも好まず。
我輩は本来学者を以て世に立つものなれば、唯学者の本色を以て支那人に対し又朝鮮人を誘導せんこと、特に牛場君に希望する所なり。
支那人が朝鮮の内治外交に干渉して大に其国人に教諭する所ありと云うも、老儒の陳腐論に過ぎず。
或は兵力を示し又金力を耀かすと云うも、韓非子の伝授たるに止るのみ。
同臭相投ずるは自然の勢にして、朝鮮の老儒輩も支那論に感服する者多からんと雖ども、毫も意に介するに足らず。
支那人の小計略と朝鮮人の頑固論は之を自由に放任して、決して其正面を攻ることなく、唯学者の精神を以て朝鮮人の心を制し、既に其内を制し了て自から発明する所のものあらしむるに於ては、其国の開進これを留めんとするも駐むべからず。
支那の陳腐論、斥攘して鶏林に其跡を絶たしむること、決して難きに非ざるべし。
啻に朝鮮の独立をして堅固ならしむるのみならず、尚進て支那の本国に及ぼし、其頑陋を解き其迷夢を醒し、周公、孔子の子孫を征伐して其心事を一変せしめ、共に文明の賜を与にして東洋全面の面目を改めんこと、我輩の素志にして、又前途の望なきに非ず。
蓋し人の常談に国威を海外に耀かすと云えば、唯兵馬の遠略のみに解する者多しと雖も、国威の耀やく、単に兵力、政略のみに依頼すべからず。
学問上の力を以て人心の内を制すること亦甚だ大切なり。
或は之を学問の文権と云うも可ならん。
我輩の素志は文権を拡張して文威を海外に耀かすに在り。
而して今其端を開く者は牛馬君の一行なり。
君に望む所のもの多ならざるを得ざるなり。