「學問之獨立」
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時事新報に掲載された「学問と政治と分離す可し」(18830120)の書籍化である『學問之獨立』を文字に起こしたものです。
本文
學問之獨立緒言
近年我日本に於て都鄙上下の別なく、學問の流行すること古來未だその比を見ず。實に文運隆盛の秋と稱すべし。然るに時運の然らしむる所、人民字を知ると共に大に政治の思想を喚起して世事漸く繁多なるに際し、政治家の一擧一動のために併せて天下の學問を左右進退せんとするの勢なきに非ず。實に國の爲に歎ずるに堪えずとて、福澤先生一篇の論文を立案し中上川先生之を筆記し、「學問と政治と分離すべし」と題して連日の時事新報社説に登録したるが、大に學者并に政治家の注意を惹き來りて目下正に世論實際の一問題となれり。依て今論者諸賢のため全篇通讀の便利を計り、之を
重刊して一册子と成すと云う。
明治十六年二月
編者識
學問之獨立
福澤諭吉 立案
中上川彦次郎 筆記
學問も政治もその目的を尋れば共に一國の幸福を増進せんとするものより外ならずと雖ども、學問は政治に非ずして學者は政治家に異なり。蓋しその異なる所以は何ぞや。學者の事は社會今日の實際に遠くして、政治家の働は日常人事の衝に當るものなればなり。之を譬えば一國は猶一人の身體の如くにして、學者と政治家と相共に之を守り、政治家は病に當て治療に力を用い、學者は平生の攝生法を授る者の如し。開闢以來今に至るまで智徳共に不完全なる人間社會は、一人の身體何れの部分か必ず痛所ある者に異ならず。治療に任ずる政治家の繁忙なる、固より知るべし。然るに學者が平生より養生の法を説て社會を警むることあれば、或はその病を未發に防ぎ、或は假令い發病に及ぶも、大病に至らずして癒るを得べし。即ち間接の働にして學問の力も亦大なりと云うべし。過日時事新報の社説にも云える如く(一月十一日社説)、我開國の初め攘夷論の盛なる時に當ても、洋學者流が平生より西洋諸國の事情を説て恰も日本人に開國の養生法を授けたるに非ずんば、我日本は鎖國攘夷病に斃れたるやも計るべからず。學問の效力、その洪大なること斯の如しと雖ども、その學者をして直に今日の事に當らしめんとするも、或は實際の用を爲さゞること世界古今の例に少なからず。攝生學專門の醫師にして當病の治療に活溌ならざるものと一樣の道理ならん。左れば學問と政治とは全く之を分離して相互に混同するを得せしめざること、社會全面の便利にしてその雙方の本人の爲にも亦幸福ならん。西洋諸國にても執政の人が文學の差圖して世の害を爲し、有名なる碩學が政壇に上りて人に笑われたるの例もあり。又我封建の諸藩に於て老儒先生を重役に登用して何等の用も爲さず、却て藩土の爲に不都合を起してその先生も遂に身を喪したるもの少なからず。畢竟攝生法と治療法と相混じたるの罪と云うべきものなり。
學問と政治と分離すること國の爲に果して大切なるものなりとせば、我輩は今の日本の政治より今の日本の學問を分離せしめんことを祈る者なり。即ち文部省及び工部省直轄の學校を本省より離別することなり。抑も維新の初には百事皆創業に係り、是れは官に支配すべき事、夫れは私に屬すべき者と明に分界を論ずる者さえなくして、新規の事業は一切政府に歸し、工商の細事に至るまでも政府より手を出すの有樣なれば、學校の政府に屬すべきは無論にして即ち文部工部にも學校を設立したる由縁なれども、今や十六年間の政事次第に整頓するの日に當て、内外の事情を照し合せ歐米文明國の事實を參考すれば、我日本國に於て政府が直に學校を開設して生徒を集め、行政の官省にて直に之を支配してその官省の吏人たる學者が之を教授するとは、外國の例にも甚だ稀にして今日の時勢に少しく不都合なるが如し。固より學問の事なれば、行政官の學校に學ぶも又何れの學問所に學ぶも同樣なるべきに似たれども、政治社會の實際に於て然らざるものあり。蓋し國の政事は前にも云える如く、今日の人事に當て臨機應變の處分あるべきものにして、例えば饑饉には救恤の備を爲し、外患には兵馬を用意し、紙幣下落すれば金銀貨を求め、貿易の盛衰を視ては關税を上下する等、俗言之を評すれば掛引の忙わしきものなるが故に、若しも國の學校を行政の部内に入るゝときは、その學風も亦自からこの掛引の爲に左右せらるゝなきを期すべからず。掛引は日夜の臨機應變にして政略上に最も大切なる部分なれば、政治家の常に怠るべからざる事なれども、學問は一日一夜の學問に非ず、容易に變易すべからざるなり。固より今の文部省の學制とても決して政治に關係するに非ず、その學校の教則の如き、我輩の見る所に於て大なる異論あるなし。徳育を重んじ智育を貴び、その術學、大概皆西洋文明の元素に資て、體育養生の法に至るまでも遺す所なきは美なりと云うべしと雖ども、如何せん、この美なる學制を施行する者が行政官の吏人たるのみならず、直に生徒に接して教授する者も亦吏人にして、且學校教場の細事務と一般の氣風とは學則中に記すべきにも非ざれば、その氣風精神の由て生ずる源は之を目下の行政上に資らざるを得ず。而してその行政なるものは、全體の性質に於て遠年に持續すべきものに非ず、又持續して宜しからざるものなれば、政治の針路の變化するに從て學校の氣風精神も亦變化せざるを得ず、學問の本色に背くものと云うべし。之を要するに政治は活溌にして動くものなり、學問は沈深にして靜なる者なり。靜者をして動者と歩を共にせしめんとす、その際に弊を見る勿らんとするも得べからず。例えば、青年の學生にして漫に政治を談じ又は政談の新聞紙等を讀て世間に喋々するは我輩も好まざる所にして、之を止むるは即ち靜者をして靜ならしめ、學者の爲に學者の本色を得せしめんとするの趣意なれども、若しも之を止むる者が行政官吏の手より出るときは、學者の爲にするに兼て又行政の便利の爲にするの嫌疑なきを得ず。然るに行政の性質は最も活溌にして隨時に變化すべきが故に、一時靜を命ずるも又時として動を勸るなきを期すべからず。或は他の動者に反對して靜を守るの極端は、己れ自から靜の境界を超えて反動の態に移るなきを期すべからず。畢竟學問と政治と相密着するの餘弊ならん。我輩がその分離を祈る由縁なり。
學問と政治と密着せしむるの不利は獨り我輩の發明に非ず。古來我日本國に於てその理由趣旨を明言したる者こそなけれども、實際に於てその趣旨の行われたるは不思議なりと云うべし。往古の事は姑く擱き、徳川の時代に於て中央政府は無論、三百藩にも儒臣なる者を置き子弟の教育を司るの慣行にして、之を尊敬せざるには非ず、藩主尚且儒臣に對しては師と稱する程のことにして榮譽少なからずと雖ども、そのこれを尊ぶや唯學問上に限るのみにして、政治に關しては曾て儒臣の喙を容れしめず、甚しきは之を長袖の身分と稱して神官、僧侶、醫師の輩と同一視して政廳に入れざるのみならず、他士族と齒するを許さゞるの風なりき。徳川の儒臣林大學頭は世々大學頭にして、その身分は老中、若年寄の次にして旗下の上席なれども、徳川の施政上に釐毫の權力を持たず、或は國家の大事に當ては大政府より諮詢のこともあれども、唯顧問に止まるのみ。蓋しその然る所以は、武人の政府、文を輕ろんずるの弊などゝて嘆息する者もありしかども、我輩の所見は全く之に反し、政府の文武に拘わらず、子弟の教育を司る學者をして政事に參與せしむるは國の大害にして、徳川の制度慣行こそ當を得たるものと信ずるなり。當時若しも大學頭をして實際の行政官たらしめんか、林家の黨類甚だ多くして何れも論説には富む者なれば、政府の中に忽ち林家の一政黨を成し、而してその黨類の力よく全國を壓倒するには足らずして却て反對の敵を生じ、林家支配の官立學校にて政談の主義は斯の如し、之を實際に施したる政治の針路は云々と稱すれば、都下の家塾は無論、地方にも藩立、私立の學校も盛なれば、或は林家に從屬し或は之に反對し、學問の談論より直に政治の主義に推し及ぼして、啻に中央政府中の不和のみならず、或は全國の變亂に至るも計るべからざりしに、徳川政府の始終、曾てその弊害を見ざりしは、畢竟するに教育の學者をして常に政治社外に在らしめたるの功徳と云わざるを得ざるなり。
人或は云く、學問と政治とは固より異なり、異なるが故に學問所に政談を禁じて多く政治の書を讀ましめざるなり、その制法規則さえ定まれば、二者の分界明白にして人を誤ることなしとの説あれども、唯説に云うべくして教育の實際に行わるべからざるの言なり。假令い如何なる法則を設けて學問所を檢束するも、苟もその教育を支配する學頭にして行政部内の人なれば、教育を受る學生を禁じて政治の心なからしめんとするは、難易を問わずして先ずその能くすべからざるを知るべし。或は生徒を教訓警戒して政談に喋々する勿れ、世上に何々を談ずる者あり、何々に熱心する者あり、甚だ心得違なれば之に倣う勿れと禁ずれば、その禁止の言葉の中に自から他の黨派に反對して之を嫌忌するの意味を含有するが故に、假令い之を禁じ了るも、その學生の一類は彼の禁止の言中自から政治の意味あるを知る者なれば、唯口にこそ政を談ぜざれども、その成跡は恰も政談を談ぜざるの政黨たるべきのみ。元來政治の主義針路を殊にするは異宗旨の如きものにして、譬えば今法華宗の僧侶が衆人に向て念佛を唱うる勿れと云うのみにて敢て自家の題目を唱えよと勸るには非ざるも、その念佛を禁ずるの際に法華宗に教化せんとするの意味は十分に見るべきが如し。結局學校の生徒をして政治社外に教育せんとするには、その首領なる者が眞實に行政の外に在て中心より無偏無黨なるに非ざれば叶わざることゝ知るべし。眞實に念佛を禁じて佛法の念なからしめんと欲せば、念佛も禁じ題目も禁ずるか、又は念佛も題目も共に嫌忌せずして勝手に唱えしめ、唯一身の自家宗教を信ぜずして之を放却するの外に方略あるべからず。首領の心事と地位と實に偏黨なきに於ては、その學校に何の書を讀み何事を談ずるも、何等の害をも爲さゞるのみならず、學問の本色に於て社會の現事に拘泥することなくして目的を永遠の利害に期するときは、その讀書談論は却て傍觀者の品格を以て大に他の實業家を警しむるの大效を奏するに足るべし。前に云える林家及びその他の儒流、尚お上て徳川の初代に在ては天海僧正の如き、曾て幕政に關せずして却て時として大に政機を助けたるは決して偶然に非ざるなり。之に反して支那の趙宋に於て學者の朋黨、近世日本の水戸藩に於て正黨奸黨の騷亂の如きは、何れも皆教育家にして國の行政に關かり、學校の朋黨を以て政治に及ぼし、政治の黨派論を以て學校の生徒を煽動し、遂にその餘毒を一國の社會に及ぼしたるの惡例なり。教育の首領たる者が學校の生徒を左右するに當ては固よりその首領の意見次第にて、他の學校と主義を殊にして學派の同じからざることもあらん、甚しきは相互に敵視することもあらんと雖ども、政事に關係せざる間は唯學問上の敵對にして、武術の流儀を殊にし書畫の風を殊にするものに等しく、毫も世の妨害たらざるのみならず、却て競爭の方便たるべしと雖ども、苟もその學派をして政治上の性質を帶びしむるときは、沈靜の色は忽ち變じて苛烈活動の働を現わし、その禍の至る所、實に測量すべからざるものあり。經世家の飽くまでも注意用心すべき所のものなり。
我國に於ても數年の後には國會を開設するとのことにして、世上には往々政黨の沙汰もあり。國會開設の後には何れ公然たる黨派の政治と爲ることならんか、曾て日本に先例もなきことなれば、開設後の事情は今より臆測すべからざる所なれども、政事の主義に就ては色々に仲間を分て隨分喧しきことならん、或は政府が隨時に交代すること西洋諸國の例の如くならんか、假令い或は交代せざるにもせよ又交代するにもせよ、政の針路は隨時に變更せざるを得ず。然る時に當て全國の學校はその時の政府の文部省に附屬し、教場の教員に至るまでも政府の官吏にして、政府の針路一變すれば學風も亦一變するが如き有樣にては、天下文運の不幸これより大なるはなし。例えば政府の當局者が貿易の振わずして一兩年間輸出入の不平均なるを憂い、是は我國人が殖産工商の道に迂闊なるが故なり、工業起さゞるべからず商法講ぜざるべからずとて、頻りに之を奬勵して後進の青年を商工の一方に教育せんとするその最中に、外國政治上の報告を聞けば近來甚だ穩ならず、歐洲各國の形勢云々なるのみならず、近く隣國の支那に於て大臣某氏が政權を執てその政略は斯の如し、或は東洋全面の風波も計るべからず、不虞に豫備するは廟算の極意にして、目下の急は武備を擴張して士氣を振起するに在り、學校教育の風も文弱に流れずして尚武の氣を奬勵するこそ大切なれとてその針路に向う時は、曩に工藝商法を講習して將さに殖産の道を學ばんとしたる學生も、忽ち經濟書を廢して兵書を讀み、筆を投じて戎軒を事とするの念を發すべし。少年の心事その軟弱なること杞柳の如く、他の指示する所に從て變化すること甚だ易し。而してその指示の原因は何れよりすと尋るに、一兩年間貿易輸出入の不平均か、若くは隣國一大臣の進退に過ぎず。内國貿易の景況、隣國交際の政略、當局の政治家に於ては實に大切にして等閑に附すべからざるものなれども、之が爲に所期百年の教育上に影響を及ぼすとは憐むべき次第ならずや。斯く政治と學問と密着するときは、甲者の變勢に際して常に乙者の動搖を生じ、その變愈甚しければその餘波も亦愈劇なり。爰に一例を擧れば、舊幕府の時代江戸に開成學校なる者を設立して學生を教育しその組織隨分盛大なるものにして、恰も日本國中洋學の中心とも稱すべき姿なりしが、一朝幕政府の顛覆に際して、生徒教員も忽ち四方に散じて行く所を知らず、東征の王師必ずしも開成校を敵として之を滅さんとするの意もなかりしことならんと雖ども、學者の輩が斯くも狼狽して一朝にして一大學校を空了して、日本國の洋學が幕府と共に廢滅したるは何ぞや。開成校は幕政府中の學校にして、時の政治に密着したるが故なり。語を易えて云えば、開成校は幕府政黨に與みしてその生徒教員も自からその黨派の人なりしが故なり。この輩が學者の本色を忘却して世變に眩惑し、目下の利害を論じて東走西馳に忙わしくし、或は勤王と云い又佐幕と稱し、學者の身を以て政治家の事を行わんとしたるの罪なり。當時若しこの開成校をして幕府の政權を離れ、政治社外に逍遙して眞實に無偏無黨の獨立學校ならしめ、その教員等をして眞實に豪膽獨立の學者ならしめなば、東征の騷亂何ぞ恐るゝに足らんや。彈丸雨飛の下にもい唔の聲を斷たずして學問の命脈を持續すべき筈なりしに、學校組織の不完全なると學者輩の無氣力なるとに由り、遂に然るを得ずして見るに忍びざるの醜體を呈し、維新の後漸く文部省の設立に逢うて辛うじて日本の學問を蘇生せしめ、その際に前後數年を空うしたるは學問の一大不幸なりと斷言して可なり。固より今の政府は舊幕府に異なり、騷亂再來すべきに非ざるは無論なれ共、政治と學問と附着して不利なるは、政の良否に拘わらず、古今欺くべからざるの事實と知るべし。又維新の初に、神道なる者は日本社會の爲に如何なる事を爲したるかを見よ。その功徳未だ現われずして先ず廢佛の議論を生じ、その成跡は神佛同居を禁じ、僧侶の生活を苦しめ信者の心を傷ましめ、全國神社佛閣の勝景美觀を破壞して今日の殺風景を致したるのみ。抑も神道なる者は我輩の知らざる所なれども一種の學問ならんのみ。苟も學問とあれば自から主義の見るべき者あるは無論なるが故に、その學問の主義を以て他の學流と競爭するも可なり、相互に敵視するも可なり。政治に密着せざる間は、唯その學流自然の力に任じて自から強弱の歸する所あるべき筈なるに、王政維新の際に於て大に政府に近づきその政權に依頼したるが爲に頓に活動を逞うし、その學問に不相當なる大變動を生じて日本國の全面に波及したるは、是亦學問と政治と附着したるの弊害と云うべし。
右等は維新前後の大事變なれども、大變の時勢は姑く擱き、平時と雖ども世の政談の熱度次第に増進すれば、その氣は自から學校に波及して校中多少の熱を催うすべきは自然の勢に於て免かれ難きことならん。全國の學校を行政官に支配し又行政官の手を以てその教授を司どり、顧て各地方の政治家を見れば、時の政府と意見を殊にして之に反對する者あるの場合に於ては、その反對の働は單に政治の事項に止らずして行政部内に在る諸學校にまで及ぼして、本來無辜の學問に對して無縁の政敵を出現するに至るべし。既に今日に在ても學校の教員等を採用するに、その政治の主義如何を問うて何々政黨に縁ある者は用い難しと極めて窮窟なることを云う者あれば、又一方には小學の教員を雇うに、何某は何れの政談演説會に聽衆の喝采を得たる人物なれば少しくその給料を豐にして之を遇すべしとて、學識の深淺を問わずして小政談の巧拙を以て品評を下だす者あり。雙方共に政治の熱心を以て學校を弄ぶものと云うべし、雙方共に學問の爲に敵を求るものと云うべし。元來學問は他の武藝又は美術等に等しく全く政治に關係を持たず、如何なる主義の者にても唯その學術を教授するの技倆ある者にさえあれば教員として妨なき筈なるに、之を用るにその政治上の主義如何を問い又その政談の巧拙を評するが如きは、今日こそ世人の輕々看過する所ならんと雖ども、その實は恐るべき禍亂の徴候にして、我輩は天下後日の世相を臆測し、日本の學問は不幸にして政治に附着して、その慘状の極度は彼の趙宋、舊水戸藩の覆轍に陷ることはなかるべきやと、憂苦に堪えざるなり。
去れば今日この禍を未然に防ぐは實に焦眉の急にして、決して怠るべからざるものならん。その法如何して可ならんと云うに、我輩の持論は、今の文部省又は工部省の學校を本省より分離して一旦帝室の御有と爲し、更に之れを民間の有志有識者に附與して共同私有私立學校の體を成さしめ、帝室より一時巨額の金圓を下附せられて永世保存の基本を立るか、又年々帝室の御分量中より學事保護の爲にとて定額を賜わるか、二樣の内如何樣にもすべきなれども、一時下附の法も甚だ難事に非ず。例えば、目今本省にてその直轄學校の爲めに費す所毎年五十萬圓なれば、資金五百萬圓を一時に下附して該共同の私有金と爲し、この金を以て實價五百萬圓の公債證書を買うて之を政府に預け、年々凡そ五十萬圓の利子を收領すべし。名は五百萬圓を下附すと云うも、その實は現金を受授するに非ず、大藏省中貯蓄の公債證〔書〕に記名を改るのみ。又この大金を人民に下附するとは雖ども、その人の私に惠與するに非ざるは無論にして、私の字に冠するに共同の字を以てすれば、固より一個人の私すべからざるや明なり。私立學校は既に五百萬圓の資金を得て維持の法甚だ易し。是に於て尚全國の碩學にして才識徳望ある人物を集めて常に學事の會議を開き、學問社會の中央局と定めて、文書學藝の全權を授け、教育の方法を議し、著書の良否を審査し、古事を探索し、新説を研究し、語法を定め、辭書を編成する等、百般の文事を一手に統轄し、一切政府の干渉を許さずして恰も文權の本局たるべし。在昔徳川政府勘定所の例に、旗下の士が廩米を受取るとき、米何石何斗と書く米の字は、その竪棒を上に通さずして俗樣に米と記すべき法なるを、或る時林大學頭より出したる受取書に楷書を以て尋常に米と記しければ、勘定所の俗吏輩如何で之を許すべきや、成規に背くとて却下したるに、林家に於ても之に服せず、同家の用人と勘定所の俗吏と一場の爭論と爲りて、遂に勘定奉行と大學頭と直談の大事件に及びたるときに、大學頭の申し分に、日本國中文字の事は拙者一人の心得に在り、米は米の字にて宜しとの一言にて、政府中の全權と稱する勘定奉行も之が爲に失敗したりとの一話あり。右は事實か或は好事家の作りたる奇話か之を知るべからずと雖ども、林家に文權の歸したる事情は推察するに足るべし。今日は時勢も違い斯る奇話あるべき樣もなしと雖ども、若しも幸にして學事會の設立もあらば、その權力は昔日の林家の如くならんこと我輩の祈る所なり。又學事會なる者が斯く文事の一方に就て全權を有するその代りには、之をして斷じて政事に關するを得せしめず、如何なる場合に於ても、學校教育の事務に關する者をして兼て政事の權を執らしむるが如きは殆ど之を禁制として、政權より見れば學者は所謂長袖の身分たらんこと是亦我輩の祈る所にして、之を要するに、學問を以て政事の針路に干渉せず、政事を以て學問の方向を妨げず、政權と學權と兩立して兩ながらその處を得せしめなば、政を施すにも易く學を勉るにも易くして、雙方の便利これより大なるものなかるべしと信ずるものなり。
右の如くして文部省は全く廢するに非ず、文部省は行政官にして全國の學事を管理するに行政の權力を要するもの甚だ少なからず。例えば各地方に令して就學適齡の人員を調査し、就學者の多寡を計え、人口と就學者との割合を比例し、又は諸學校の地位履歴、その資本の出處、保存の方法を具申せしめ、時としては吏人を地方に派出して諸件を監督せしむる等、都て學校の管理に關する部分の事は文部省の政權に非ざれば能くすべからず。況や強迫教育法の如き必ず政府の權威に由て始て行わるべきのみ。但し我輩は素より強迫法を贊成する者にして、全國の男女生れて何歳に至れば必ず學に就くべし、學に就ざるを得ずと強いて之に迫るは、今日の日本に於て甚だ緊要なりと信ずれども、その學問の風を斯の如くしてその教授の書籍は何を用いて何を讀むべからずなどゝ、教場の教授法にまで命令を下すが如きは、亦事の宜しからざるものと信ず。之を要するに、學問上の事は一切學者の集會たる學事會に任じ、學校の監督報告等の事は文部省に任して、云わば學事と俗事と相互に分離し又相互に依頼して始めて事の全面に美を致すべきなり。譬えば海陸軍に於ても、軍艦に乘て海上に戰い馬に跨て兵隊を指揮するは眞に軍人の事にして、身躬から軍法に明にして實地の經驗ある者に非ざればこの任に堪えず。左れども海陸軍必ずしも軍人のみを以て支配すべからず、軍律の裁判には法學士勿るべからず、患者の爲には醫學士勿るべからず、行軍の時に輜重兵粮の事あり、平時にも固より會計簿記の事あり、その事務千緒萬端何れも皆戰隊外の庶務にして、その大切なるは戰務の大切なるに異ならず、庶務と戰務と相互に助けて始めて海陸軍の全面を維持するは普ねく人の知る所ならん。然ば則ち全國學問の事に於ても、教育の針路を定めて後進の學生を導き、文を教え藝學を授る者は、必ず少年の時より身躬から教育を受けて又他人を教育し、教場實際の經驗ある者にして始めてその任に當るべし。即ち學者をして學問教育の事を司らしむべき由縁なれども、又一方より見れば、全國の教育事務は獨り學者のみに任ずべからず、之を管理してその事を整齊せしむるには、行政の權力を用いて所謂事務家の働に依頼せざるを得ず、學者が政權に依て學問を人に強いんとし、事務家が學問の味を知らずして漫に之を支配せんとするは、軍人が海陸軍の庶務を兼ねて庶務の吏人が戰陣の事を差圖せんとするに異ならず、兩ながら勞して效なきのみならず、却て全面の成跡を妨るに足るべきのみ。海陸軍の醫士、法學士又は會計官が戰士を指揮して操練せしめ、又は戰場の時機進退を令するの難きは人皆これを知りながら、政治の事務家が教育の〔方法〕法方を議しその書籍を撰定し、又は教場の時間生徒の進退を指令するの難きを知らざる者あらんや。我輩の開陳する所、必ずしも妄漫ならざるを許す者あるべしと敢て自から之を信ずるなり。
帝室より私學校を保護せらるゝの事に付てはその資金を如何するやとの問題もあれども、この一條は最も容易なる事にして、心を勞するに足らず。我輩の持論は、今の帝室費を甚だ不十分なるものと思い、大に之を増すか、又は帝室御有の不動産にても定められたきとの事は毎度陳述する所にして、若しも幸にして我輩の意見の如くなることもあらば、私學校の保護の如き全國僅に幾十萬圓を以て足るべし。或は一時巨額の資本を附與せらるゝ、唯幾百萬圓の金を無利足にして永代貸下るの姿に異ならず、決して帝室の大事と稱すべき程のものに非ず。或は今の政府の財政困難にして帝室費をも増すに遑あらずと云わんか、極度の場合に於ては、國庫の出納を毫も増減せずして實際の事は擧行すべし。その法他なし、文部省工部省の學校を分離し御有と爲すときは、本省に於ては從來學校に給したる定額を省くべきは當然の算數にして、この定額金は必ず大藏省に歸することならん。大藏省に於ては期せずして歳出を減じたることなれば、その金額を以て直に帝室費を増加し、帝室はこの増額を以て學校保護の用に充られたらば、更に出納の實際に心配なくして事を瓣ずること甚だ容易なるべし。啻に實際に心配なきのみならず、學校の官立なりしものを私立に變ずるときは、學校の當局者は必ず私有の心地して百事自然に質素〔勤〕謹儉の風を生じ、舊慣に比して大に費用を減ずべきは無論、或は之れを減ぜざれば、舊時同樣の資金を以て更に新に學事を起すに足るべし。今の官立校とて徒に金圓を浪費亂用すると云うには非ざれども、事の官たり私たるの別に由て費用も亦自ら多少の差あるは社會に免れざる所にして、世人の明知する事實なれば、今回若し幸にして官私の變革あらば、國庫より見て學校の資本は心ず豐なるを覺ることならん。
又或は人の説に、官立の學校を廢して共同私立の體に變じ、その私立校の總理以下教員に至るまでも從前官立學校に從事したる者を用い、學事會を開て學問の針路を指示するが如きは甚だ佳しと雖ども、その總理教員なる者は以前は在官の榮譽を辱うしたる身分にして、俄に私立の身と爲りては恰も榮譽を失うの姿にして心を痛ましむるの情實あるべしと云うものあり。我輩一と通りの考にては、この言は全く俗吏論にして學者の心事を知らざるものなりと一抹し去らんとしたれども、又退て再考すれば、學者先生の中にも隨分俗なる者なきに非ず、或は稀には何官何等出仕の榮を以て得々たる者もあらん。然りと雖ども、學者中假令いこの臭氣の人物ありとするも、之れを處すること亦甚だ易し。先ず利祿を以て云えば、學校の官私を問わず俸給は依然として舊の如くなるべし。又利祿を去て身分の一段に至ては、帝室より天下の學者を網羅して之に位階勳章を賜わらば夫れにて十分なるべし。抑も位階勳章なるものは唯政府中に
限るべきものに非ず。官吏の辭職するは政府を去る者なれば、その去るときに位階勳章を失わず、或は華族の如き曾て政府の官途に入らざるも必ず位階を賜わるは、その家の榮譽を表せらるゝの意ならん。左れば位階勳章は、官吏が政府の職を勤るの勞に酬るに非ずして、唯普通なる日本人の資格を以て政府の官職をも勤る程の才徳を備え日本國人の中にて拔群の人物なりとて、その人物を表するの意ならん。官吏の内にても一等官の如きは最も易からざる官職にして、尋常の才徳にては任に堪え難きものなるに、能くその職を奉じて過失もなきは日本國中稀有の人物にして、その天禀の才徳、生來の教育共に第一流なりとて、一等勳章を賜わりて貴き位階を授ることならん。左れば官吏が職を勤るの勞に酬るには月給を以てし、數を以て云えば、百の勞と百の俸給と正しく相對してその有樣は殆ど賣買の主義に異ならず、この點より論ずるときは仕官も亦營業渡世の一種なれども、俸給の外に位階勳章を與うるは、その勞力の大小に拘わらず、恰も日本國中の人物を排列してその段等を區別する者にして、官途には自から拔群の人物多きが故に、位階勳章を得る者の數も官途に多き由縁なり。政府の故意にして殊更に官途の人のみに之を與うるに非ず、官職の働は恰も人物の高低を計るの測量器なるが故に、一度び測量して之を表するに位階勳章を以てしてその地位既に定るときは、本人の働は何樣にても之に關することなく、地位は生涯其の身に附て離れざるものなり。即ち辭職の官吏も其の位階勳章をば生涯失うことなきを見て之を知るべし。
位階勳章は直に帝室より出るものにして、政府吏人の毫も關り知るべき者に非ず。而してその帝室は日本國全體の帝室にして、政府一局部の帝室に非ず。帝室固より政府に私せず、政府固より帝室を私せず、無偏無黨の帝室は帝國の全面を照らして、その孰れに厚からず又孰れに薄からず、帝室より降臨すれば、政治の社會も學問の社會も、宗旨も道徳も技藝も農商も、一切萬事要用ならざるものなし。苟も是等の事項に就て拔群の人物あれば、則ち之を賞してその拔群なるを表す、位階勳章の精神は蓋し此に在て存するものならん。人間社會の事は千緒萬端にして、唯政治のみを以て組織すべきものに非ず。人の働も亦千緒萬端に分別して之に應ぜざるべからず。即ち人事の分業分任なり。既に之を分て之に任ずるときは各長ずる所あるべきは自然の理にして、農商の事に長ずるものあり、工藝技術に長ずるものあり、或は學問に長じ或は政治に長ずる等、相互に爭うべからざるものあるが故に、この事に長ずるものはこの事の長者として之を貴び、その業に長ずる者はその業の長者として之に最上の榮譽を與うるも亦自然の理に於て許すべきものなり。例えば大關が相撲最上の長者なれば、九段は碁將棋最上の長者にして、その長者たるや、一等官が政事の長者たるに異ならざるなり。左れば、生れながらにして學に志し畢生の精神を自身の研究と他人の教導とに用ひて、其一方に長ずる者は、學問社會の長者にして、是亦一等官が政事の長者たるに異ならざるや、もとより明白なり。而して其相撲の大關又は碁將棋の九段なる者が、太政大臣と同一樣の榮譽を得ざるは何ぞや。相撲と碁將棋とは、其事柄に於て、之を政事に比して輕重の別あるがゆえに、其輕重の差に從て、雙方の長と長と比肩するを得ざるものなりと雖ども、今一國文明の進歩を目的に定めて、政事と學事と相互に比較したらば、いずれを重しとし、いずれを輕しとするは、判斷に於て甚だ難き事ならん。
學者をして學問の貴きを説かしめたらば、政事の如きは小兒の戲にして論ずるに足らざるものなりと云い、政事家も亦學問を蔑視して、實用に足らざる老朽の空論なりとすることならんと雖ども、これは所謂雙方の偏頗論にして、公平に云えば、政事も學問も共に人事の至要にして、雙方ともに一日も空うす可らず。政事は實際の衝に當って大切なり、學問は永遠の大計を期して大切なり、政事は目下の安寧を保護して學者の業を安からしめ、學問は人を教育して政事家をも陶冶し出す、雙方共に毫も輕重あることなしとの裁判にて雙方に不平なかるべし。
一國文明の爲に學問の貴重なること既に明なれば、その學問社會の人を尊敬して之に位階勳章を與うるは誠に尋常の法にして、更に天下の耳目を驚かす程の事に非ず。即ち學問社會上流の人物は政事社會上流の人物と正しく同等の地位に立て毫も輕重あるべからず。唯相互にその事業を干渉せざるのみ。朝廷には位を貴び郷黨には齡を貴ぶと云うは、政府の官職貴きも之を以て郷黨民間の交際を輕重するに足らずとの意味ならん。況や學問社會に對するに於てをや。政府の官途に奉職すればとてその尊卑は毫も效なきものと知るべし。佛蘭西の大學校にて、第一世「ナポレオン」はその學事會員たるを得たれども、第三世「ナポレオン」は遂に之を許されざりしと云う。同國にて學權の強大なること以て證すべし。我日本國にても、政府の官職は唯在職中の等級のみにて、この他に位階勳章の制を立てず、尊卑は唯政府中官吏相互の等級にして曾て政府外に通用せざるものなれば、私の會社中に役員の等級あるが如くにして、他に影響すること少なからんと雖ども、苟もその人の事業に拘わらずしてその身を輕重するの法あるからには、その法は須らく全國人民に及ぼして政府の内と外とに差別する所あるべからざるなり。官吏も日本政治社會の官吏なり、學者も日本學問社會の學者なり。その事業こそ異なれども、その人物の輕重に至ては毫も異なることなくして、唯偶然にこの人物が學問に志して學者の業に安んずるが故に、その身の榮譽を表するの方便を得ず。彼の人物が偶然に仕官に志して官吏の業に就たるが爲に、利祿に兼て榮譽を得るとは人事の公平なるものと云うべからず。固より高尚なる理論上より云えば、位階勳章の如き誠に俗中の俗なるものにして、齒牙に留むべきに非ずと云うと雖ども、是れは唯學者普通の公言にしてその實は必ずしも然らず。眞實に脱俗して榮華の外に逍遙し天下の高處に居て天下の俗を睥睨するが如き人物は、學者中百に十を見ず、千萬中に一、二を得るも難きことならん。況や日本國中榮譽の得べきものなければ則ち止まんと雖ども、等しく國民の得べきものにして、彼れは之を得て此れは得ずとあれば、殊更に辱しめらるゝの念慮なきを得ず。是れをも忍て塵俗の外に悠々たるべしとは、今の學者に向て望むべからざることならんのみ。
右の次第にて、學者の榮譽を表するが爲めに位階勳章を賜わるは誠に尋常の事にして、政府の官吏にのみ之を賜わるの多きこそ却て人の耳目を驚かすべき程の次第なれば、今回幸にして行政官直轄の諸學校を私立の體に改革せられたらば、その教員の輩は固より無官の人民なれども、何れも皆少小の時より學に志して自身を研き他を教育するの技倆ある人物にして、日本國中學問の社會に於ては長者先進と稱すべき者なるが故に、その人物に相當すべき位階勳章を賜わるは事の當然にして、本人等の滿足すべきのみならず、亦以て帝室の無偏無黨にして日本國の全面を通覽せられ政治も學問も同一視し給うとの盛意を示すに足るべきことゝ信ずるなり。
帝室は既に日本私立學校の保護者たり。尚この上に望む所は、天下の學者を撰で之に特別の榮譽と年金とを與えてその好む所の學藝を脩めしむる事なり。近年西洋に於て學藝の進歩は殊に迅速にして、物理の發明に富むのみならず、その發明したるものを人事の實際に施して實益を取るの工風日に新にして、凡そ工場又は農作等に用る機關の類は無論、日常の手業と名くべき灌水、割烹、煎茶、點燈の細事に至るまでも悉皆學問上の主義に基て天然の原則を利用することを勉めざるはなし。之を要するに、近年の西洋は既に學理研究の時代を經過して、方今は學理實施の時代と云て可ならんか、これを形容して云えば、軍人が兵學校を卒業して正に戰場に向いたる者の如し。之に反して我日本の學藝は十數年來大に進歩したりと云うと雖ども、未だ卒業せざるのみならず、恰も他國の調練を調練するものにして、未だ戰場の實地に臨まず、物理新に發明するを得ず、その實施の時代に至るには前途尚遙なりと云うべし。例えば醫學の如きは、日本にてその由來も久しく隨てその術も他の諸科に超越するものなれども、今日の有樣を見れば、西洋の日新を逐うて常に及ばざるの嘆を免かれず。數百年の久しき、日本にて醫學上の新發明ありしを聞かざるのみならず、我國に固有の難病と稱する脚氣の病理さえ尚未だ詳明するを得ず。畢竟我醫學士の不智なるに非ず、自家の學術を研究せんとしてその時と資金とを得ざるが爲なり。僅に醫學の初歩を學び得るときは、或は官途に奉職し或は開業して病家に奔走し、奉職開業必ずしも醫士の本意に非ざるも、糊口の道なきを如何せん。口を糊せんとすれば學を脩るの閑なし、學を脩めんとすれば口を糊するを得ず、一年三百六十日脩學半日の閑を得ずして身を終るもの多し。道の爲に遺憾なりと云うべし(我輩曾て謂らく、打候聽候は察病に最も大切なるものなれども、醫師の聽機穎敏ならずして必ず遺漏あるべきなれば、この法を研究するには、盲人の音學に精しき者を撰て先ず健全なる肺臟心臟等の動聲を聽かしめ、次第に患者變常のときに試みてその音を區別せしめたらば、從前醫師の耳にて五種に分ちたるものも、盲人の耳にはその一種中を細別して二、三類に分つこともあるべし。即ち從前の察病法五樣なりしものが、五に三を乘じて十五樣の手掛りを得べし。この試驗果して有效のものならば、醫學部には必ず音學を以て一課と爲し、青年學生の聽機穎敏なる時に及で之に慣れしめざるべからず。或はその俊英なる者は打候聽候を以て專門の業と爲して之を用るも可ならん。蓋し醫學の祕密は是等の注意に由て發明することもあらんと信ず)。獨り醫學のみならず、理學なり又文學なり、學者をして閑を得せしめ又隨て相當の活計あらしむるときは、その學者は決して懶惰無爲に日月を消する者に非ず、生來の習慣恰も自身の熱心に刺衝せられて勉強せざるを得ず。而してその勉強の成跡は發明工風にして、本人一個の利益に非ず、日本國の學問に富を加えて國の榮譽に光を増すものと云うべし。又著述書の如きも、近來世に大部の著書少なくして唯その種類を増し、隨て發兌すれば隨て近淺の書多しとは、人の普ねく知る所なるが、その原因とて他に在らず、學者にして幽窓に沈思するの暇を得ざるが爲なり。蓋し意味深遠なる著書は讀者の縁も亦遠くして、發兌の賣買上に損益相償うを得ず、之れを流行近淺の雜書に比すれば、著作の心勞は幾倍にして所得の利益は正しくその割合に少なし。大著述の世に出でざるも偶然に非ざるなり。何れも皆學問上には憂うべきの大なるものにして、その憂の原因は學者の身に閑なくして家に恆産なきが爲なり。故に今帝室より私學校を保護するに兼て學者の篤志なるものを撰び、之に年金を與えてその生涯安身の地位を得せしめたらば、自から我學問社會の面目を改めて、日新の西洋諸國に竝立し日本國の學權を擴張して鋒を海外に爭うの勢に至るべきなり。財政の一方より論ずれば、常式の官職もなきものへ毎年若干の金を與るは不經濟にも似たれども、常式の官員とて必ずしも事實今日の政務に忙わしくする者のみに非ず。政府中に散官なるものありて、その散官の中には學者も少なからず、假令い或は散官ならざるも、生來文事を以て恰もその人の體格を組織したる人物は、之を政事に用いてその用を爲すに足らず、學者は之に事を諮問するに適して之に事を任ずるに不便利なり。斯る人物を政府の區域中に入れてその不慣なる衣冠を以て束縛するよりも、等しく錢を與うるならば之を俗務外に安置してその生計を豐にしその精神を安からしむるに若かず。元老院中二、三の學者あるもその議事之が爲に色を添るに非ず、海陸軍中一、二の文人あるも戰場の勝敗に關すべきに非ず、或は學者文人に諮問の要もあらば、その時に隨て之に問うこと甚だ易し。國の大計より算すれば年金の法決して不經濟ならざるなり。
帝室より私學校を保護し學者を優待するは、學問の進歩を助るのみならず、我國政治上に關しても大なる便益を呈することならん。抑も文字の意味を廣くして云えば政治も亦學問中の一課にして、政治家は必ず學者より出で學校は政談家を生ずるの田圃なれども、學校の業成るの日に於てその成業の人物が社會の人事に當るに及ては、各その赴く所を異にせざるを得ず。工たり商たり又政治家たり、或は學成るも尚學問を去らず、畢生を委ねて學理の研究又は教育の事を勉る者あり、即ち純然たる學者なり。左れば工商又は政治家はその所得の學問を人間の實業に利用する者にして、學者は生涯學問を以て業と爲す者なり。前にも云える如く、政治の國の爲に大切なるは學問の大切なるに異ならず。政治學日に進歩せざるべからず、國民全體に政治の思想なかるべからず、政談熱心せざるべからず、政事常に語るべし。國民にして政治の思想なきは〔唐〕陶虞三代の愚民にして、名は人民なるもその實は豚羊に異ならず、共に國を守るに足らざるものなれば、苟も國を思うの丹心あらんものは内外の政治に注意せざるべからず。政治の事甚だ大切なりと雖ども、是れは人民一般普通の心得にして、爰に政治家と名るものは一家專門の業にして、政權の一部分を手に執り身躬から政事を行わんとする者なれば、その有樣は工商がその家業を營み學者が學問に身を委るに異ならず。之を要するに、國民一般に政治の思想を養えとは、國民一般に學問の心掛けあるべしと云うに異ならず。人として學問の心掛けは大切なれども、全國の人民悉皆學者たるべきに非ず。人として政治の思想は大切なれども、全國の人民悉皆政治家たるべきに非ず。世人往々この事實を知らずして、政治の思想要用なりと云えば忽ち政治家の有樣を想像して、己れ自から政壇に上て政を執るの用意し、生涯政事の事業を以て身を終らんと覺悟する者多し。學問と云えば忽ち大學者を想像して、生涯書に對して身を終らんとする者あるが如し。その心掛けは嘉みすべしと雖ども、人々に天賦の長短もあり、家産家族の有樣もあり、幾千萬の人物が決して政治家たるべきにも非ず、又大學者たるべきにも非ず、世界古今の歴史を見てもその事實を證すべきなれば、政治も學問もその專業に非らざるより以外は唯大體の心得にして止み、尋常一樣の教育を得たる上は各その長ずる所に從い、廣き人間世界に居て隨意に業を營み、以て一身一家の爲にし又隨て國の爲にすべきなり。
政治も學問も相互にその門を異にして、人事中專門の一課とするときは、各門相互に干渉すべからざるは無論、各自家の專業を勉めて相互に顧ることもなきを要す。政治家たるものが既に學問受教の年齡を終て政事に志し又政事を執るに當ては、自身に學問の心掛けは固より怠るべからざるも、學校教育上の事は忘れたるが如くに之を放却せざるべからず。學者が學問を以て畢生の業と覺悟したる上は、自身に政治の思想は固より養うべきも、政壇青雲の志は斷じて廢棄せざるべからず。然るに近日世間の風潮を觀るに、政治家なる者が教育の學校を自家の便に利用するか、又は政治の氣風が自然に教場に浸入したるものか、その教員生徒にして政の主義を彼れ是れと評論して自から好惡する所のものあるが如し、政治家の不注意と云うべし。政治の氣風が學問に傳染して尚廣く他の部分に波及するときは、人間萬事政黨を以て敵味方を作り、商賣工業も政黨中に籠絡せられて、甚しきは醫學士が病者を診察するにも、寺僧又は會席の主人が人に座を貸すにも、政派の敵味方を問うの奇觀を呈するに至るべし。社會親睦、人類相愛の大義に背くものと云うべし。又一方の學者に於ても、世間の風潮政談の一方に向うて苟も政を語る者は他の尊敬を蒙り、又隨て衣食の道にも近くして身を起すに容易なるその最中に、自家の學問社會を顧れば、生計得べきの路なきのみならず、螢雪幾年の辛苦を忍耐するも學者なりとして敬愛する人さえなき有樣なれば、寧ろ書を抛て一臂を政治上に振うに若かずとて、壯年後進の學生は爭うて政治社會に入らざるはなし。その人の罪に非ず。風潮の然らしむる所なり。今の風潮は天下の學生を驅て之を政治に入らしむるものなるを、世の論者は往々その原因を求めずして唯現在の事相に驚き、今の少年は不遜なり輕躁なり、漫に政治を談じて身の程を知らざる者なりとて之を咎る者あれども、假にその所言に從て之を醉狂人とするも、明治年間今日に至て俄に狂すべきに非ず、その狂や必ず原因あるべし。その原因とは何ぞや。學生にして學問社會に身を寄すべきの地位なきもの即是なり。その實例は之を他に求るを須たず、或は論者の中にもその身を寄する地位を失わざらんが爲に説を左し、又その地位を得たるが爲に主義を右したることもあらん。之を得て右したる者は之を失えば復た左すべし、何ぞ現在の左右を論ずるに足らんや。自身にして斯の如し、他人も亦斯の如くなるべし。伐柯其則不遠、自心を以て他人を忖度すべし。人の心を鎭撫するの要はその身を安からしむるに在り。安身は安心の術なり。故に今帝室の保護を以て私學校を維持せしめて兼て又學者を優待するの先例を示されたらば、世間にも次第に學問を貴ぶの風を成して自然に學者安身の地位も生ずべきが故に、專業の工たり農商たり又政治家たる者の外は、學問社會を以て畢生安心の地と覺悟して政壇の波瀾に動搖することなきを得べし。我輩曾て云えることあり、方今政談の喋々を直に制止せんとするは些少の水を以て火に灌ぐが如し、大火消防の法は水を灌ぐよりもその燃燒の材料を除くに若かずと。蓋し學者の爲に安身の地を作てその政談に走るを留るは亦燃料を除くの一法なり。
學問之獨立畢