「漢學の主義其無效なるを知らざる乎」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「漢學の主義其無效なるを知らざる乎」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

各地方少年輩の輕躁にして、漫に時事を談じて底止する所を知らず、途には世の安寧をも妨げんとするの勢あ

るは、我輩も之を憂ざるに非ず。唯この勢を防禦するの略に至て、聊か我輩の所見と今の經世家の考と相異なる

所のものおりとは、過般の時事新報社説に於ても( 二月二十八日)〔註「政談の危險は人に存して事に在らず」と題す〕 

其大概を論じたり。抑も

今の少年輩が斯くも政談に喋々するは、畢竟無事無聊なるが故なり。無聊とは何ぞや。心に憂る所なくして身に

行ふ可き事業を知らず、日を消するに困却するの謂なり。無事なるが故に無焉に日を消せんとするも、去りとて

は世に名も知られずして其外見愚なるに似たるが故に、少年の血氣之に堪へずして樣々の事を企て、途に輕躁に

も陷り亂暴にも及ぶことなり。左れば今この輕躁亂暴を防ぐの法は、少年輩の心事をして繁多ならしむるに在り。

心事繁多なれば心配も亦多し。古人の語に、知字憂患の始と云へり。蓋し字を知り書を讀み古今の人事を詳にす

るに從て心配を增すの謂ひならん。既に心配多ければ架空捕風の政談の如き、之を奨勵するも顧る者なきに至る

可きなり。今の地方の少年輩は、既に敎育を受けて其天稟も亦遲鈍ならざる者多しと雖ども、如何せん、其敎育

は僅に地方小學に止まざれば、暫時中學を窺ふたる者に過ぎず。而して此中學小學の敎授は如何なるものぞと尋

るに、所謂小學讀本にして、中學の敎も亦甚だ高からず。且維新の初には國中公私の學校にて西洋の原書を讀む

ことを勉めたりしに、明治六、七年の頃より洋書を讀まば正則に限るなど唱へて、頻りに西洋人を雇て敎授せんこ

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日本人にて和漢の書を敎へ飜譯書を授ることに説を變じて、今度は西洋の原書をば殆ど無用物の如くに視做し、

或は老大の漢儒などを喚起して學校の敎員と爲したることなれば、今日少年輩の多數は、曾て洋書を目に觸れた

ることもなく、僅に飜譯書を讀む歟、又は洋學者の談を聞て、知見の資と爲す者より外ならず。( 今を去ること

十年、或る地方にて洋學校を設立して、洋書器械等も買入れ、漸く少年輩の敎授に着手せんとする折しも、其筋

の吏人が巡囘して、少年の敎育に洋書を讀ましむるは困難にして無益なりとて、忽ち學校の組織を一變して、西

洋流の書籍器械等も不用に屬したることあり。是れは一地方に限らず、當時全國一般の流行なりき。)斯る敎育

の有樣なれば、學術に於ても政治經濟に於ても、滿腔高尚の思想に乏しきものと云はざるを得ず。然るに三、四

年前府縣會の設立より、政權參與の政談漸く世上に喧しくして、少年輩も亦其談に參ぜざるを得ず。之に參じて

之を談ずるも、固より談ず可き知見の資本なきが爲に、止むを得ず目下の利害を述べ、其これを述べて論及する

所は、地方廳の施政より警察巡査の擧動に至るまで、唯其眼の達して漢書學又は譯書學の知見を以て之を判斷す

るに過ぎず。地方の新聞紙又は其演説に不都合なるもの多きも亦、決して怪しむに足らざるなり。我輩常に言へ

ることあり、近年演説の反則を以て罪を得たる者甚だ多し、若し此反則者の姓名を記し、其敎育の履歷を明細に

糺して、又一方に反則の度數と罪の輕重とを記し、統計の法に從て比較照合したらば、罪の最も重くして度數の

最も多き者は、敎育の最も低くして就學年月の最も短き者にして、是れより次第に罪の輕きに従て次第に敎育も

高く、敎育と反則と正しく併行して誤るなきの奇觀ある可しと。此言決して妄慢ならざるは我輩の敢て信ずる所

なり。

今の經世家は果して何等の所見あるか。少年輩の輕躁なるを見て洋學を學びたるの罪とするものか、頻りに儒

敎主義とて周公孔子の敎を以て世上の風潮を鎭靜せしめんと欲するものゝ如し。我輩は此樣を傍觀して氣の毒に

堪へず。少年の輕躁なるは洋學を知るの罪に非ずして、却て之を知らざるの罪なり。且試に思へ。能く進む者に

して始めて能く守ることを得べし。十六年來進て國を經營したるは何ものゝ功なるや。直に洋學者に非ざれば洋

學者の敎を奉じて事を爲したる者より外ならず。此時に際して漢學果して何事を爲したるや、和學果して何業を

行ひたるや。其功業の頂上を云へば、神妙にも文明の進歩を妨げざりしの一事のみ。古來數千百年、我國の文明

は神儒佛敎の功徳なることは、我輩固より之を抹殺せんとするに非ず、厚く禮謝する所ある可しと雖ども、獨り

近時文明の進歩に當て曾て其力を借用せざりしは世人の普く知る所にして、其進退共に無力遲鈍なるは明々白々

たる事實なり。然るに今日にして一時世上の風潮に驚き、此和漢學に依賴して退守の策を運らさんとするが如き、

迂遠も亦極ると云ふ可し。進むを知らざる者にして豈能く守るの策あらんや。蓋し今より三年を出ですして後悔

の日ある可きのみ。

和漢學論は姑く閣き、兎に角に今日少年輩の輕躁なるは、我輩も大に憂る所なれば、之を防ぐの法は、國中大

に洋學を奨勵して、學術經濟政治學、一切西洋の原書を以て敎授し、少年輩をして學問の難くし高尚なるを知

らしむるの一策あるのみ。卽ち其心事を繁多にして憂患を覺へしむるものにして、復た悠々迂闊の政談に從事す

るの閑を得べからず。學術日進の眞味を嘗めて眞實に其佳境に達し又人を此佳境に導くが爲に、新聞に演説に之

を實際に説明せんとするが如きは誠に畢生の困難事にして、時としては失望の餘りに自から學問を放却して絶念

とまでに迫ることあるものなり。學者の一大憂患なり。經濟政治學も亦斯の如し。無學空腹を以て目前の小利害

*一行読めず*

らしめんとして苦心するのみならず、政府當局の輩とて隨分識量に乏しき者少なからざれば。無下に此輩を咎め

て怒らしたることもたく、去迚常に之を賞賛して其無識に自得せしむることもなく、公明正大の論鋒を以て其中

を導かんとするが如きは是亦至難の事にして、往々失望することなきに非ず。何れも皆學者知字の憂患ならざる

はなし。既に此憂患を知る。之をして輕躁ならしめんと欲するも得べがらざるなり。故に今の經世家にして實に

世の輕躁者を憂るの念あらば、之を眞成の西洋學に導くの外、斷じて好方便ある可らず。事理の最心賭易きもの

なり。此賭易きものを睹ずして、徒に目下の小利害に苦しみ、文明に乏き少年をして益文明に近づくを得せしめ

ず、甚しきは孔孟の敎を基礎に定めて今の人心の波瀾を制し、以て文明繁多の世事を經營せんとするが如き、啻

に迂闊のみならず、我輩をして之を評せしむれば、迂闊極りて却て輕躁なるものと云はざるを得ざるなり。

〔三月八日〕