「外國貿易見るに忍ひさるの慘状を呈す」
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時事新報に掲載された「外國貿易見るに忍ひさるの慘状を呈す」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
商賣の不景氣とは近來格別に世人の喋喋する所にして我輩も不案内ながら徃徃其實を見るものの如し内國米價の下落隨て地價も亦同樣の譯けにて農家の困却も容易ならざる由なれとも是れは姑く閣き外國貿易輸出の事情を聞くに輸出品の最第一は生糸にして近年は其數次第に増して毎年四万個に下たらず(一個とは正味五十五斤)我貿易の大半は生糸の輸出に係るものにして其賣買の成敗は先つ生糸商より産糸の地方に〓し隨て全國一般の商况に波及するものと云ふ可し在横濱の一友人專ら外國の貿易に從事する某氏あり頃日氏の語を聞くに云く我商况の不景氣を訴へたるは明治十四年に始まり十五年の春に至て世人一般に漸く其影響を感するの情あり此時より今日に至るまで生糸商の成行如何を尋るに十四年産出の品を仕入れするは同年秋冬の際にして其頃は生糸百斤の價上物にて凡そ六百弗の見込にて弗の價は紙幣一圓七十錢内外なりしを以て品物の價は六百弗、々の價は一圓七十錢と其大概を豫算したりしに十五年二三月の頃に至て歐米の市にて生糸の價に變を生したるが爲に横濱に於て從前六百弗なりしものは下落して五十弗を■(にすい+「咸」)したり内國商人は是に於て六百に付き五十の■(「胸」の右側+「月」)算を違へ之に加るに弗の相塲も同年三月の末には一圓四十三錢にまで下りたれば商人の■(「胸」の右側+「月」)算は百七十に付き二十七を違へたり尚又これに加るに同年九月より十一月に至るまで聯合生糸荷預所の擧ありて一時外國商人と生糸賣買の勢力を爭ひ暫く品物の賣渡を不自由にしたるが爲に其物に對する資金には空しく利子を失ひ其上に又生糸賣渡の時機を誤りたる其損亡も亦少少ならず
右の次第にて生糸商人即ち地方の荷主と在横濱の生糸賣込問屋の失敗は實に容易ならず各荷主各問屋の有樣は固より千種万樣にて一概に之を記し難き塲合もあれとも大凡これを平均して荷主も問屋も豫期したる利益は固より一錢をも〓領せずして其上に荷物一個に付き凡百五十圓を失ひ其百五十の内百は荷主の損と爲り五十は問屋の災難たりしことならん例へば前記の算數に從ひ百斤六百弗のものとすれば一個五十五斤は三百三十弗にして紙幣にすれば(一圓七十錢の相塲にて)五百六十一圓を得て仕入元金を引き此餘に至當の利益を取らんと思の外、先つ品物賣價の下落六百にして五十なるが故に三百三十にして二十七半を■(にすい+「咸」)し一個の價三百二弗半と爲り紙幣の下落を(前記には七十錢より四十三と算したれとも是れは極度なるが故に)平均二十錢の差と視て一圓五十錢とすれば正味落手す可きものは僅に四百五十圓にして既に百十一圓を損し此内より資金の利子口錢等を拂へば損失の高凡そ百五十圓なる可し
横濱の問屋にて地方の荷主へ爲替を貸すには凡そ八掛けを通常と爲し實價五百六十圓の生糸一個に付き大數四百五十圓を渡して荷物を預り置きたることなるに其實價既に下落して四百五十圓と爲りたれば爲替金の利子と口錢の由を生す可きものなし之に加るに聯合會社にて恰も品物の賣渡を停滯せしめたる姿にして問屋より荷主に對して聊か人情に氣の毒なる意味も含み平生なれば四百五十圓に止まる可きものも増して五百圓左右を貸したることも多し扨决算の日に至り荷主は唯荷物を手離すより外に方便なく問屋は利子を損し口錢を損し又爲替貸越しの差を損し之を全体に平均すれば荷主は百圓、問屋は五十圓の損亡として大なる間違なきことならん斯る事の次第にて地方の荷主に資本薄きものは悉皆破産せざるはなし即ち破産しても尚所損を償ふに足らざるものなり是れより一等を進めて稍や財産ある者は荷物を投けたる上に尚自家の身代を削りて負債を拂ひ之を削り盡して餘財あることなし
元來生糸商なるものは地方の品物を買集めて横濱の問屋へ送り其間の利益を目的にする商賣なれば横濱にて生糸の價格を落し又銀貨の下落することあれば地方の買出しをも其割合にして禍を蒙ことなかる可きに似たれとも實際は則ち然らず十四年度産出の品を同年秋冬の際に仕入するには實に其時の商况に從て之を見〓るものなるが故に其際の見込み齟齬するときは一切の災〓皆荷主の頭上に落ちざるを得ず又器械糸の如きも器械所の主人が繭を仕入るるときに見込を立るものなれば製糸賣込の時節に至て豫算に齟齬するときは其災を蒙るの状况全く生糸商に異ならす共に與に失敗破産して之が爲に所有の不動産を賣却すれば桑田の價は下落して地方一般の地主は俄に貧寒の思を爲し器械所の主人は交代して所の事務も一時に紊亂し富豪閉居して職工業を失ひ、信用地を拂ふて金利愈高し實に見るに忍ひざるの有樣なり (以下次號)