「文明の利器果して廢す可きや」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「文明の利器果して廢す可きや」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

昨日の社説に記したる如く、文明の利器とは蒸氣、電信、郵便、印刷の此四の者なり。方今文明の社會を支配

するものは此四者にして、苟も此利器に依るに非ざれば國にして其國を成す可らず。國の大小強弱貧富盛衰を評

するには、唯この利器を用るの多きと少きと、活潑なると不活潑なるとを見て、之を斷定す可きのみ。左れば今

日我日本人も既に國を開て海外の諸國と文明の交際を始めたる以上は、決して其用法を廢す可らず。益これを利

用して獨立國の利を謀ることの緊要なるは、普く人の許す所にして又疑を容るゝ者もなし。然るに前節にも記し

たる如く、此利器なるものは文明世界共有の利器にして、獨り之を專にする者あるを許さず。若しも人間世界に

稀有の事情を存しして、利器を用る者は唯政府のみに限り、他は一切これを利用するを得ざるが如きあらば、天下

を御すること甚だ易し。例へぱ明治十年鹿兒島の一類が暴發したるとき、其勢力實に強大なりしかども、彼れに

電信郵便の便なく、蒸氣船の備なし、又印刷を利用して自家の主義を廣布するの法を知らず。之に反して政府に

於ては電信以下の利用、一として備はらざるはなし。交通運輸の便利、一に政府の專有する所と爲りて、進退活

潑運動自在なるが爲に、暴徒の勇武なるも其力を伸るに由なく、以て速に鎭定したることならん。之を要するに

西南の暴徒は文明の利器に敵して敗したるものと云ふ可し。唯武事に於て然るのみに非ず、文事に關しても固よ

り然り假に爰に空像を畫斑き、國中交通運輸の權を政府の一手に掌握して、電信郵便の私通を許さず、蒸氣船車

の用法に〔を〕限り、印刷の事業を一切官に司どることを得るとせん歟、全國の人事は忽地に鎭靜し、恰も火の熄へた

るが如くにして、彼の喋々たる民間の政談の如きは、之を耳に聞かんとするも之を口にする者なきに至る可し。

元來政談喋々は我輩の嘉みせざる所にして、少年の輕躁狂奔するは經世論者の憂て以て不德とする所なれども、

假に論者の言に從ひ實に之を不德の致す所とするも、其不德を矯正するに直接反對の德敎を以てせんとするは、

策の得たるものと云ふ可らず。如何となれば其輕躁狂奔は德育無形の缺典に非ずして、器械有形の力に迫られた

るものなればなり。故に今天下一時の安寧を求めんとするには、萬巻の經書を讀ましめて人の德義を養ふよりも、

單に社會交通の道を制限して其心情を鎭靜するに若かず。事理の最も明白なるものなり。我輩も常に安寧を求る

に汲々たる者にして、種々様々に工夫を運らし策略を案じ、是れも差支へ其れも行はれずとて、策、窮したる其

時には、寧ろ一時の安寧を買ふが爲に、交通の全權を政府の一手に專にしては如何とまでに想像を畫きたること

もなきに非ざれども、唯實際に臨て其手段なきに苦しむのみ。抑も德育德敎を以て人心の軽躁を制するに足らざ

るは、之を我國の史記に徴するも實例を見る可し。戰國の時代に佛門の僧侶輩が輕躁にも兵を弄したるは何故ぞ。

慈善禁殺生の佛者にして戰爭に人を殺すとは驚く可きに非ずや。假に此時に當て佛門中に德敎主義の人を出し、

僧侶の輕躁にして武邊に狂奔するは其薄德の致す所なり、薄德を救ふの方便は德敎を奬勵するに在りとて、頻り

に經文を讀ましめ經義を説法したらば、果して衆僧侶の輕躁狂奔を鎭靜し了りたることならん歟。我輩これを信

ぜず。蓋し當時佛者の武に奔るは德義の厚薄に在らずして、天下一般の人心、恰も武に燃ゆるもの、之が原因だ

るのみ。故に天下治平に歸して殺氣収まり、原因爰に除去すれば僧侶も亦慈善禁殺生の僧侶に歸して、舊時の本

色に復したることなり。左れば今日世間少壯の輩が政談に輕躁狂奔するも、其德義の厚薄に在らず、德敎の洽不

洽に在らず、天下一般の人心、近時の文明に燃るもの、之が原因たること明白なれば、今この原因を除去せんと

する歟、近時の文明とは蒸氣、電信、郵便、印刷の用法、卽是れにして、此ものを除けば天下の心情忽ち鎭靜す

可しと雖ども、其鎭靜や政治論の一局部に限らず、百般の人事も亦これと共に同時に退縮して、開國獨立の體面

を維持するの方便なし。我國の蒸氣船車は今日其用法の尚未だ盛ならざるを憂るものなり。電信郵便も其進歩せ

ざるを憂るものなり。印刷甚だ不自由なり。著書新聞甚だ少なし。何れも皆我文明の缺典にして、今日吾人が外

國の人に對して動もすれば愧る所のものは、唯この缺典に在るのみ。今日正に足らざるを憂ふ。更にこれを退縮

せしめて我日本國を如何せん。三歳の童子も其非を知る。之を退けんとすれば國、其國を成さず。之を進めんと

すれぱ人心穩かならず。文明も亦人間世界の一大困難物と云ふ可し。之を讐へば一國文明の進歩は一個人の全身

に熱度を增して其働を活潑ならしめたるものゝ如し。然るに其進歩に從ひ政治論の騒擾を致して世間往々輕躁浮

薄の厭ふ可き者を出すは、熱度の增すに伴ふて頭痛症を發したるものゝ如し。然るに今この頭痛を憂ひ、其大本

の原因を除去せんとして、減損療法を施すときは、全體の熱度を低落せしめて活潑力を失ふに至る可し。然ば則

ち今日政治論の喧嘩も結局其遠因は除く可らざるものと覺悟せざるを得ざるなり。蓋し治療の法、決して一樣な

らず。臨機應變、以て時の宜しきに從ひ、病症の遠因を問はずして一時其近因を除くの法あり。之を誘導して暫

く輕快を覺るときは、其遠因と稱したるものも實は病に非ずして生力增進の善徴候たりしを發見するの日ある可

し。唯國手にして能く之を診斷し、臨機應變の治療法を施して全體の健康を保たしむるの工夫ある可きのみ。若

しも然らずして局部の頭痛に狼狽し、又其餘症に迷ひ、其變症を疑ひ、頭痛の原因は溫熱の增進に在り、進みた

るものを退くるには解熱法ありとて、簡單明白なる醫案を以て漫に減損療法を施し、却て全身永久の健康福祉を

忘却するが如きは、和漢古學醫流の事にして、共に語るに足らざるものなり。但し其誘導療法のことに就ては、

之を次號の社説に述べん。                                〔四月二十日〕