「慶應義塾紀事」
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本文
慶應義塾紀事の書は一私塾中の事なれとも書中に記す所徃徃社會の人事に連絡して之を一見すれば二十年來我國文化發達の沿革をも揣知す可きものなきに非されば掲けて以て本日の社説に代ふ
慶應義塾紀事
履歴之事
本塾は安政五年の冬江戸鐵砲洲舊奧平藩邸内に設立したるを始として明治十六年に至るまで二十五年なり安政五年より文久二年の終に至るまで四ケ年餘の間は生徒の就學する者新陳出入して常に數十名に過きす僅に一小家塾にして事の記す可きものもなく且塾の記録さへ詳ならされは一切の紀事は文久二年正月より起て明治十五年十二月に終るものとす
創立の始は荷蘭書のみを講したりしが安政六年五國條約の事成り外國人の渡來も漸く繁多なるに付ては蘭書を以て時事に當るに足らさるを悟り専ら英文の讀法を研究し漸く之を生徒の教授に用ゐたるは文久二三年の事なり是れより生徒の數も次第に増加して慶應三年の頃には八十名より百名の數あり唯この時に當て本塾の困難、攘夷の國論〓に圍まれて苟も洋學者とあれは一身の生命をも安んするを得ざりしの一事なり(此事は維新の後にも暫時流行したれとも文久二三年の甚しきが如くならず)翌慶應四年即ち明治元年戊辰王政維新の事あり二百五十餘年來の大變にして在江戸の官立校は無論大都會中に一私塾の痕跡もなし恰も此騷擾の際に鐵砲洲の奧平邸は外國人の居留地たる可き約束を以て本塾も邸内に留まるを得ず之が爲に前年冬芝新錢座に買入れたる地面あるを以て此に塾舍を新築して其功を竣りたるは戊辰四月の事にして其前は塾の名〓さへあらされは今より何か名を附けんとて人にも物にも差支なき其時の年號に取りて慶應義塾 名けたり盖し明治元年に慶應 文字は不都合なるに〓たれとも改元の布告は同年九月のことにして本塾の竣功は四月なるを以て未た明治の名を知らざりし時なればなり(今の芝區新錢座の攻玉塾は舊慶應義塾の處なり)塾舍既に成りたれとも東西南北戰爭の最中にして殊に東京は官賊兩軍の入り乱れたる塲所なれば讀書には最も適當せす且塾中の生徒なる者は大抵皆諸藩の士族にして其父兄は無論本人も國事に關する者多くして漸く塾を退き百名に近き生徒が三十名に■(にすい+「咸」)し其■(にすい+「咸」)少の極度は兩三日の間僅に十八名のみを存したることあり都下一般の人事は火の熄へたるが如くにして市に賣買する者なく酒樓に飮む者なし物〓〓〓唯謂れもなく四方に奔走するのみのことなりしかとも幸にして本塾のみは一日も休業することなく彼の上野彰義隊の變は五月十五日の事なりしが其日は塾にて新舶來の英書「ウェーランド」氏經濟論の開講日に當り講義中生徒等は折折屋根に登りて上野の兵焔を遠見したることあり今にして考ふれば彈丸烟裏の讀書甚た難きか如くなれとも〓然らすして安全なりしは畢竟當時の戰爭は軍〓正しくして且軍人一般の氣風も市民の私を犯すことなかりしの事實として見る可し啻に一私塾の幸のみならす我日本國文明の美事なり又再考すれは學問の事と政治の事とは全く縁なきものにして政事の騷擾中も尚且安んして學事を修む可し况して太平無事の日に政治と學問と分離すること甚た易しとの實を發明するに足る可し
紀事中の議論は之を閣き扨維新の風雨も漸く收まるに從て國人の文思漸く舊に復し又新に發達して入社する者甚た多く明治元年中にも既に百餘名の新入社あり、同二年は二百五十餘名、同三年は三百餘名、次第に生徒の増加するに從て塾務も次第に繁多と爲り差向き新錢座の地所建物にては人を容るるに足らざるの不自由を覺へたり
明治三年の冬三田二丁目嶋原侯の藩邸上地と爲りて直に其地所并に附屬の町地共合して凡そ一万三千坪餘拜借の特命を蒙り在來の建物凡そ八百坪は嶋原侯より時價の低きものを以て讓受け尚大に新築して新舊の普請大客成を告げ乃ち新錢座を去て爰に轉したるは明治四年春の事にして即ち今の東京芝區三田二丁目二番地慶應義塾是れなり轉居 後も入學の生徒は日に多くして學務と俗務と同時に之を理すること甚だ易からず就中諸藩の壯年士族が戰塲より歸て直に學に就き其心事擧動の淡泊にして活溌なるは眞に愛すべしと雖とも舊時の殺氣尚未だ去らず動もすれば粗暴輕躁に走りて學塾の教塲或は小戰塲たる可きの恐れ少なからず學者の沈默を以て暗に之を化す可らず理論の深遠を以て直に之を論す可きものに非ざれば幹事も教員も共に與に活溌にして唯簡易輕便の一主義を以て生徒に交り漸く之に理を説き道を示して遂に以て學者の本色に誘導したることなり本塾の理事常に難しと雖とも最も困みたるは維新以後三四年の間に在りとす
本塾の慣行にて塾中の生徒を大人中年童子の三種に分ち十三四歳より十五六歳を童子とし十六七より十八九を中年とし二十歳以上は則ち大人なり教塲の教授には特に大中小の異同を問はずと雖とも寄宿所は各其名稱に從て區別し三樣相混じて起居するを許さず盖し年齡不同の者が雜居すれば大人は童子の戲謔〓騷の爲に妨げられ童子等は自から年長の風を學で言語擧動早成の弊を免かれず甚しきは喫烟飮酒の惡習をも容易に視るの恐なきに非ず故に童子局にも中年局にも常に監督を置〓朝夕局中の動靜を視察す其人は則ち教員中より撰ふの法なり
右の如く本塾中に童子局の設あれとも局に在る者は固より起居眠食の事を自から辨ぜざる可らず或は筆紙墨其他些少の買物等も錢を以て自身に購求することなれば些少ながら出納の考なきを得ず然るに十二三歳以下十歳〓後〓最も雅きは六七歳の小兒にても父母の志厚ければ就學せしめんと欲する者あれとも之を本塾に入れて其保護の責に任するは塾に於て最も難んずる所なり是に於て邸内に幼稚舍なるものを設立したり此舍〓本塾に近接すれとも處を異にし舍の建物も其教授も其經濟も自から獨立の姿を成して幼童中の最も幼なるもののみを撰て之に入れ唯學問の教授のみならす衣服飮食の注意より嗽手洗行水風呂の世話に至るまで大概皆婦人又は老人の受持と爲して居家の子供を養育すると同一樣に取成し衆稚子をして家を離るるも奇異の思を爲さしめざるを專一とせり明治七年一月設立以來同十五年十二月中に至るまで入舍したる幼童の數凡三百名其漸く長して本塾に移りたる者も少なからず良家の父母多事なるが爲に家庭教育の暇なき者歟、又府下住居にして父母共に遠方の地に寄留する者の如きは其子を托して体育智育の教を受けしめ其便益最も多しと云ふ(現今幼童の數百十七名)
本塾入社生の數は安政五年より計ふ可きなれとも前節に記したる如く當初は塾の記録さへなき有樣なれば之を知る可らず又文久三亥年を初とするも兩三年の間は尚家塾の風を存し隨て入社生の姓名を登録せざるものも少なからずと雖とも兎に角に帳簿なるものを作りたる初年なれば亥年を第一年として明治十五年の末に至るまで入社簿上明に本人の住所屬籍姓名を記したる者の數を擧れば三千九百六十七名とす(本年一月一日より四月二十四日に至るまでの入社百十五名にして此數を加れば文久三年より明治十六年四月まで二十年四ケ月間の入社四千八十二名なり)此入社の事に付き注目す可きは華士族と平民と其數の割合及ひ時勢に從て其割合の變化したることなり我國の洋學は元と醫家より入りし者にて嘉永癸丑亞國人の渡來前に洋書を講する者とては唯醫書生のみなりしものが安政の初より尋常の士族にても徃徃斯道に志を立る者を出したるは時勢の一變革なりと云ふ可し左れとも尚士族に限りて百姓町人は之を知らず文久三年より明治四年まで本塾入社生の全數千三百二十九名の内に平民は僅に四十名のみ翌明治五年には入社三百十七名にして平民の就學する者漸く増加して全數百分の十二分に富る即ち士族八十八名に付平民十二名の割合なり、同六年には増して十八分と爲り、同七年には二十九分と爲り、同八年には三十一分と爲り、同九年には三十四分と爲り、同十年には四十八分と爲り、同十一年は更に■(にすい+「咸」)して三十八分と爲り、同十二年には三十一分と爲り、同十三年には上て五十二分と爲りて平民の數士族に超越し、同十四年には正しく五十分と五十分と相平均し、同十五年は開塾以來入社のの數も最も多き年にして平民は百中五十七分の割合に上りたり、以上二十年間入社の増■(にすい+「咸」)及平民と士族と割合の變化に就ては樣樣原因もあることならんと雖とも明治十年に限り平民の數多くして士族の少なかりしは同年西南の戰爭に自から士族の心を動搖せしめたるが故ならん又明治十三年より頓に平民を増したるは全國農家の富實を致したるが爲に自から其文思を發達したるものならん一私塾の〓衰以て天下全面の形勢を卜す可きに非ざるも自から其一班を窺ふ可きものあるが如し
學規之事
本塾創立の初に當ては學問の規則とて特に定めたるものなし唯英文を讀て其義を解することを勉め所用の書籍も僅に一二册の會話編又は文典書あるのみにして他の書類は其名を聞くも其物を見るの方便なし萬延元年に至て亞國開版の原書數部と ウェブストル の辭書一册を得たり(日本國へ英辭書輸入の初ならん)之を本塾藏書の初として其他に當時政府の筋より私に數部の英書を借用し又一年を隔て文久二年英國開版の物理書地理書學術韻府等の書に併せて經濟書一册を得たり即ち「チャンブル」氏教育讀本中經濟の一小册子にして當時は日本國中稀有の珍書なりき右の如く書籍に乏しくして生徒の書を讀まんとする者は手から原書を謄寫して課業の用に供する程の有樣なれば固より塾中に教則を立てんとするも其方便ある可らず次て五年を經て慶應三年の冬亞國の原書數百部を得たり之を本塾一新の機として此時には地理物理數學の書に無論、從前稀に見たる經濟書歴史の如きも各其種類に從て數十册づつを備へ生徒各科を分て書を講すること甚た易く塾中復た原書を謄寫するが如き迂遠の談を聞かず
翌年は即ち王政維新の春にして其四月に至り本塾に於ても始て新に規則を作て之を木版に刻したるは學課の稍〓整理したる證として見る可し今日現行の慶應義塾社中の約束書を見れば全く當初の規則に異なるが如くなれとも其原稿は則ち明治元年に成りて爾來年年歳歳に増補改正したるものと知る可し學則は專ら有形の實學を基礎として文學に終るを旨とす算學の如きは初に在て生徒の最も好まざる所にして之を奬勵するためには頗る困苦したりしが十餘年來次第に之に慣れて今日は塾中普通の課業と爲りて復た故障を見ず
英書を讀み其意味の微細なる所までも之を解して不審を遺ささるは本塾の最も長ずる所なれとも外國交際の日に繁多にして外人に直接の關〓を生す可き今の時勢に在て語學の心得なきは又不都合なるを知り常に外國の英語教師を雇ふて讀書の傍に語音を學ばしむ
本塾の學風は一に〓〓近時の文〓學を〓として和漢古學の主義は素より取る所なしと雖とも今日の文學を勤めんとして漢字を知らずしては用を便ずるに足らず依て課業にも讀漢書の一科を設けて頻りに之を奬勵す
本塾の入社就學に年齡を限らざるが故に徃徃二十歳以上の學生にして始めて洋書を學はんとする者あり此種の生徒は尋常五年の學期を踏むこと能はず只管速成を求むることなれば之がため本科の外に一科を設け本則に拘はらずして教授す、之を科外生と名く盖し我國の洋學は日尚淺くして少小の時より教育の順序を經ざる者甚だ少なからず去迚今日の時勢に於て苟も洋書を知らずしては忽ち人事に差支を生ず、丁年以上始めて就學するも事情止むを得ざるに出たるものなれば今後數年の間は科外の科も亦要用なることならん
明治七年夏の頃本塾の教員相會し學術進歩の事を議して謂らく西洋諸國には「スピーチュ」の法あり(即ち今日の演説なり)學塾教塲の教のみにては未た以て足れりとす可らず「スピーチュ」「デベート」(討論)の如き學術中最も大切なる部分なれば此法を我國に行はれしめては如何との相談にて衆智之に同意し何事にても世に普通ならしめんとするには吾より之を始るに若かず然らば此原語を何と譯して妥當ならん談論、講談、辨説、問答、等樣樣に文字を案して遂に「スピーチュ」を演説「デベート」を討論と譯して其方法の大概を一小册子に綴り社中竊に之を演習したるは明治七年五月より凡そ半年の間なり此間に方法も稍や整頓したるを以て翌明治八年春本塾邸内に始て演説館なるものを新築して演説討論演習の用に供したり但し其趣意は演説を以て直に聽衆を益するの目的に非ず唯此所に公衆を集め又は内の生徒を會して公然所思を演るの法に慣れ以て他日の用に供せんとする者にして演説討論を稽古する塲所なり開館以來既に九年、月次公衆を集めて學術上の事を演説す即ち今の三田演説會是にして〓公衆演説の外に又或は塾中の生徒が課業の傍に討論會を催ふす等の事も多し
本塾〓主義は和漢の古學流に反し仮令ひ文を談するにも世事を語るにも西洋の實學を根據とするものなれば常に學問の虚に走らんことを恐る依て近日社中の年長〓科に達したる者に談して人身學、動物學、本草學、化學、電氣學等の講談(レクチュール)を設ることに决したり
身体の運動は特に本塾の注意する所にして課業の時間は三時間より四時間を過るを許さず又數年前より邸内に柔術の道塲を設けて專ら体育を勵し又近日は之に居合を交へ時としては劍術の〓を爲さしむ盖し塾中に病者の少なきは塾の地位市中高燥の部分に在ると運動法の然らしむものならん
二十餘年來學則は次第に變革して今日にして前後比較すれば殆と別種のものの如くなれとも〓を考れば此間に大改革とては一回も施行したることなし唯時勢に從ひ學問の進歩に促かされて識らず知らずの際に徐徐として自から改まりたることならん今後も此法に依らんとて社中年長の常に注意する所なり
會計之事
本塾終始の困難は會計の事即ち是なり本來一銀の資本なく又他より補助する者もなくして塾を開き(明治六七年の間華族太田資美君より外國語學教師雇人の〓として數千圓を寄附せられたるは空前絶後の事にして今に至るまで社中の深く感謝する所なり)〓の〓は奧平藩の建物を借用し教師も各自巳生〓の〓ありて生徒〓教授の如きは唯斯道の爲にするの熱心を以て自から勞するのみにして嘗て利益の邊〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓など〓けて生徒より些少の金を拂はしむるの慣行はあれとも固より以て塾舍營繕の費用にも足らず唯時の事情に從ひ社中朋友偶ま錢ある者が錢を費すの有樣にして明治元年まで日一日を送りたることなりしが此年の春より芝新錢座に新築を企て騷乱の最中職工の賃錢等も極く低くして普請は却て手輕に成功したれとも塾の會計より見れば大事業なり加之この騷乱の爲に教員の者も一時自己の生計(多くは諸藩主よりの給與)を失ひ復た如何ともす可らず是に於てか社中大に議を起し古來日本に於て人に教授する者は所謂儒者にして此儒者なるものは衣食を其仕る所の藩主に仰く歟若くは出入の旦那より扶持米を収領し、或は揮毫して潤筆料を取り、或は講筵に出頭して謝物を受る等極めて曖昧の間に心身を惱まして人の爲に道を教へたることなれとも今や世界中の時勢は斯る曖昧なるものに非ず教授も亦是れ人の勞力なり、勞して報酬を取る、何の妨あらんや、斷して舊慣を破て學生より授業金を取るの法を創造す可し且束脩とは師弟一個人の間に行はる可き禮式なれとも今や衆教員にして教る者は皆師にして學ぶ者は皆弟子なり或は塾中今日の弟子にして明日同塾の師たることもあらん束脩の名義甚た不適當なれば改めて之を入社金と名け其金額を規則に明記して之を納るに熨斗水引を要せずとて生徒入社の時には必す金三圓を拂はしむることに定めたり當時世間に例もなきことにして且三圓の金は甚た多きに似たれとも一は以て輕躁書生の漫に入來するを防き一は以て塾費に充んとするの趣旨なりき扨毎月授業料の高を定むるに當て其標凖と爲す可きものなし依て案するに當時の教員若干名其一月の食費雜費を概算すれば物價下直の時節一人に付凡そ四圓にして足る可き見込を以て各教員平等に四圓づつを給す可き全額と塾の諸雜費とを共計して之を學生の數に割付れば一名より毎月五十錢を■(「状」の左側+「又」)めて過不足なかる可しとて慶應義塾の授業金半圓なりと記したるは本塾創立以來明に金を取て人に教るの始なり當初は大に世間の耳目を驚かして或は人情に戻りしことならんと雖とも漸く習慣を成すに從て又怪しむ者もなく爾後次第に物價の騰貴塾費の増加に從て授業金も亦増加し一圓より一圓五十錢遂に二圓二十五錢まてに上り明治十二年改定して一圓七十五錢と爲り今日は則ち改定の法に從ふものなり
右の如く入舍金を收め又授業金の法を定めたれとも塾の會計は尚甚た困難なり教員の■(「状」の左側+「又」)領する所平等に四圓と定めたるも固より一時救急の法にして永久す可きに非ず此際に維新の新政治も漸く行はれ明治三四年の頃より都鄙に官立の學校漸く起らんとするの勢にして官には〓〓の資金を費し教員の給料等も固より豊なるに反して私塾には一錢の有餘なし唯我社中の熱心〓力に由て維持するのみ、其一班を擧れば在芝新錢座の時に一棟の寄宿寮を増築せんとして資を〓ず〓〓社中の両三名が急に一部の英書を飜譯し其〓〓〓〓の利益を以て建築費に充たることあり其譯書は洋〓明〓とて當時珍奇の兵書なりしが今日は既に巳に〓用のものならん又本塾の教員たる者は如何に學力に〓しき人物にても教塲の事、庶務の事を兼勤して其俸給と名く可きものは一月五六十圓より昇る可らす百圓以上の月給は創立以來塾中に聞かざる所なり故に一旦この教員が國中他の學校に聘せらるるときは其月給、本塾に比して二三倍以上なるを常とす畢竟其人物か本塾を視ること故郷の如く自家の如くして其間に利益の情を忘れたるものならん若しも此學塾をして官立の學校ならしめ在校の生徒常に二三百名(現今の生徒五百餘名は近年最も多きものなり)二十年の間に四千名を教育せんには其費用少なくも毎年二三万圓を要して本年まて費額の共計五六十万圓に下らざることならん然るに今本來無一錢の私塾にして五六十万圓の事を實行したるは人の同心恊力も亦其効大なるものと云ふ可し
人の同心恊力其効大なりと云ふと雖とも亦無限のものに非す在昔村夫子の家塾の如きは門弟子の次第に増加するに從ひ之を門下の繁盛と稱して自から些少の實益をも増加したることなれとも本塾の如きは則ち然らず生徒の多きに凖して費用も亦多く、繁盛は學問の繁盛にして會計は却て困難を加るの實あり、教員の給俸豊ならざるも必ず之を支辨せざる可らず、塾舍の建物美麗ならざるも必ず營繕を加へざる可らず、迚も永久の目途ある可らざれば寧ろ今にして斷然〓校と决して地所建物共に之を賣却し二十年來塾の爲に尽力したる人人に之を分配せん歟去迚は亦惜しむ可し恰も培養〓存の目途なき大木の如く之を伐ると伐らざると决斷し難き折柄明治十三年冬の頃又社中の評議にて苟も家産に餘ある者は一時又は年年に多少の金を捐てて試に之を維持せんとするに决し舊生徒又舊教員にして現時身を起し家を成したる者又は本塾に入て就學したるには非ざれとも常に塾の事に心を開れて之を喜愛する者即ち塾友とも云ふ可き人人が會議を設けて維持の方法を立たり之を慶應義塾維持社中と稱し今日の塾は此社中に依て維持せらるるものにして爾來又徃徃捐金して維持社中に加入する者あり今後本塾の永續すると否とは此維持の如何に係るのみ
本塾の邸地一万三千坪餘、塾に属する建物凡そ千二百坪、塾の會計と邸地の會計とは之を分別し前記の維持金は塾の教塲に属する費用と其建物の營繕費等を補助するに用ひ邸地の地税地方税等の諸公費と邸内の道路外圍等の費用は本邸住居の各戸より毎年屋敷人用なるものを拂はしめ其集金を以て之を支辨す邸地地券の記名はあれとも内實〓地主の權を許さず塾のあらん限り子孫に相傳せずして之を維持すること恰も寺院の法の如くせんとするの目的なれば目下地主の名義あるも屋敷入用を拂ふこと他各戸に異ならす邸内平等の出金を以て諸入費を辨したる上に本塾の敷地と其庭園には屋敷入用を課せざるの慣行にして目今の處、邸地の會計に負債はなしと雖も庭園其他に着手す可きものを放却して東京諸邸中に比類少なき本邸の勝景を空ふするは遺憾に堪へす又塾の會計も維持金の集りたるものありと雖とも其利子のみを以て固より足らす動もすれは元金を消費して後日の不安心を抱くもの少なからす慶應義塾の困難唯〓計の一事に在るのみ
東京三田慶應義塾
明治十六年四月廿四日 塾 監 局
左の二表中前の(慶應義塾入社生徒年表)は文久三年癸亥より明治十五年壬午に至るまて全二十年慶應義塾に入社したる三千九百六十七名の生徒各年の入社數を示し又此生徒の身分を調らへ其白分の何程は士族(華族も此中に入る)何程は平民たることを區別したるなり明治維新前は平民にして義塾の生徒たりし者殆んと皆無なりしが漸くに平民の學生を出して漸くに増加し近年は平民の方士族よりも却て多數を占むるに至れり但し二十年間入社生徒身分の區別は華族三十七名士族二千九百六十五名平民九百五十九名朝鮮人六名なり又後の(慶應義塾入社生徒國分表)は同二十年間の入社生徒を本籍の國國に分配したるなり最多數は武藏最少數は伯耆國全く入社なきは飛騨、隱岐及び對馬なり 慶應義塾入社生徒表
年 號 入社 士族平
員數 民分割
文久三亥年 一〇 一 〇
元治元子年 三六 〓〓
〓
慶應元丑年 五八 〓〓
〓
同 二寅年 七七 〓〓
〓
同 三卯年 八四 〓〓
明治元辰年 一〇三 〓〓
〓
同 二巳年 二五八 〓〓
〓
同 三午年 三二六 一〇〇
同 四未年 三七七 九七
〓
同 五申年 三一七 〓〓
〓
同 六酉年 二四〇 〓〓
一八
同 七戌年 二五四 〓〓
二九
同 八亥年 二七三 〓〓
〓〓
同 九子年 一八九 六五
三〓
同 十丑年 一〇五 五二
四八
同十一寅年 一三〇 六〓
三八
同十二卯年 一八六 〓〓
〓〓
同十三辰年 二〇四 〓〓
〓〓
同十四巳年 三四四 〓〓
〓〓
同十五午年 三九六 〓〓
〓〓
同十六未年
合計〓九六七 〓〓
〓四
士族平民分割の前は士族後は平民の割數なり
慶應義塾入社生徒國分表
自文久三亥年至明治十五年 全一七年間
五畿内 山城 四五
大和 一九
河内 六
和泉 一二
攝津 五二
東海道 伊賀 二
伊勢 六六
志摩 二一
尾張 四二
三河 六一
遠江 五五
駿河 七二
甲斐 二一
伊豆 一五
相模 四五
武藏 五五一
安房 一五
上總 七三
下總 六四
常陸 四〇
東山道 近江 九二
美濃 六四
飛騨
信濃 九五
上野 四六
下野 三一
磐城 三三
岩代 一五
陸前 四一
陸中 五五
陸奧 八五
羽前 五六
羽後 四四
北陸道 若狹 六
越前 六〇
加賀 七一
能登 四
越中 一〓
越後 一五〓
佐渡 二
山陰道 丹波 一〓
丹後 二〓
但馬 二〓
因幡 二〓
伯耆 一
出雲 二〓
石見 一五
隱岐
山陽道 播磨 五〇
美作 一七
備前 三〓
備中 二六
備後 〓〓
安藝 五九
周防 三四
長門 九〓
南海道 紀伊 一七〓
淡路 一六
阿波 五五
讃岐 二二
伊豫 九四
土佐 一三七
西海道 筑前 二七
筑後 五五
豊前 一五〓
豊後 四四
肥前 一五〇
肥後 一〇六
日向 三七
大隅 五
薩摩 一六七
二嶋 壹岐 三
對馬
北海道 二九
朝鮮國 六
合計 三千六百六十七人