「北京駐在新任英國公使」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「北京駐在新任英國公使」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

北京駐在新任英國公使

東京駐在現任英國特命全權公使「サー、ハリ、スミス、バークス」は「サー、トーマス、フ

ランシス、ウエード」の後任として支那北京駐在特命全權公使に轉任したるよし五月三日倫

敦發の「ルイター」社電報に見えたり我輩は「ルイター」社の電報のみを以て滿足せず此報

道の?實如何を夫れ是れと探聞したるに决して?搆の報道ならずして甚だ正確なる事實な

り英國外務卿「グランヴイル」侯よりも疾くに此轉任の事を「バークス」公使へ通達しあり

との事を承知したり

支那は亞細亞第一の大國にして土地の廣く人民の衆多なる英國を除くの外は全世界に於て

之と肩を比ぶる者なし故に政治上なり商業上なり英國の支那に關する利害は實に東洋の第

一位を占むるなり北京駐在の英國公使は特命全權使節兼貿易事務總監の職名を帶び其責任

甚だ重し俸給は一ケ年六千磅(三万銀圓)にして在東京英國公使の年俸に比すれば二千磅(一

万銀圓)を多くせり依て今英國公使の身分にして東京より北京へ轉任するは其榮轉たるや疑

を容れず外交官吏に身を委〓たる者の一大名誉として之を羨まざる者はなかるべし

然るに此榮轉の沙汰ありし以來既に全一ケ月「バークス」公使が新命を拜したるの報知を得

ざるは甚だ不審の事にして既に東京横濱の社會に於ては種々の風説流行し榮轉の承諾なき

を訝らざる者なかりき此中にて最も容易ならざる風説は今回「バークス」公使の轉任に付支

那政府に於て異存を申出て在倫敦の支那公使會紀澤にも何か周旋奔走する所ありて英國外

務省は頗る困難の地位に立てり是等の内情あるがために「パークス」公使には爾來一ケ月未

だ新命を拜するの塲合に至らざるなりと云ふもの是なり我輩は此問題に關し未た確報を得

ざるを以て固より此風説の眞と僞とを明言すること能はずと雖とも全体の事情よりして觀

察するときは無論?搆の風説なりと判定し只管確報を得るの遲きを憾みしが去る二日刋行

の橫濱「ヘラルド」新聞に「パークス」公使の北京に榮轉は事實なり此旨「グランヴィル」

侯より通達ありて公使にも既に此任命を拜したるよし支那政府にて何か異存ありて或は之

を公言したるにもせよ之を論解し得たるか又は自から之を取消したるなるべし公使も赴任

を急き數週間の中には必ず出發すべし云々とあり「ヘラルド」新聞は英國公使舘に關する報

道に於ては常に迅速正確の名を博するものなれば我輩は此報道を正確のものと信じ大に「パ

ークス」公使のために此榮轉を慶賀するなり然るに不幸にして此榮轉の沙汰ありし報道と此

榮轉を承諾したる報道との間に空しく一ケ月の時日を費やしたるを以て大に世人の疑惑を

來たし必定支那政府が此任命に反對して異存を申出しゆゑなりとの風説内外社會に喧しく

彼の英國公使に對して無上の好意を懐ける「ヘラルド」新聞の如きすら此に關して紙上に記

す所あるに至りたるは我輩の遺憾之に過きざるなり然れとも我輩今支那政府に代りて身を

其地位に置き彼是れと考慮するも「ハリ、パークス」氏を英國特命全權公使として其〓廷に

引接することを好まずと云ふの理由を見出すこと能はず我輩は左に英國外務職局履歴簿中

より同氏の履歴を抄録し今回の任命に支那政府の異存あるべからざるを辨し聊か同氏のた

め其寃を〓かんとす履歴の大畧左の如し

「パークス」氏は千八百四十一年六月「ボツチンガル」氏の隨員となりて始めて清國に來り

四十五年より四十六年の間福州にて譯官を勤め四十六年より八年まで上海の譯官を代理し

四十八年四月十九日上海の譯官に任じ四十九年更に厦門の譯官に任し五十一年清民に賞與

を頒つため台灣派遣を命せられ同年十一月二十一日廣東の譯官に任し五十四年八月十日厦

門の領事に任じ五十五年三月「ボーリング」氏に隨行して暹羅に赴き該國の絛約を契へて英

國に歸り五十六年一月絛約の批準を以て暹羅に到り其年七月より五十八年九月まで廣東の

代理領事を勤め同年十二月二十一日上海に轉任し同年一月廣東の共同委員會議には英國の

委員となれり五十九年十二月六日「コムパニオン、オフ、ゼ、パス」に叙せられ特派全權大

使「ユルギン」侯に隨行して其書記官となり六十年?河事件の際?々要衡に當りその八月二

十三日〓水國提督「ホープ」氏に隨ひ天津に赴き清國が英佛と搆戰の際?國の談判に奔走周

旋して其功績少からす九月十八日清國人のために擒となり備さに辛苦を嘗め殆んど死地に

陥りしも十月八日免せられて再び「ユルギン」侯に隨行し六十一年一月侯は清英の和成るを

以て清國を去り氏も廣東の任所に歸り更に水師提督「ジエムスホープ」氏に隨行して揚子江

の遠征に赴き六十二年五月十九日「ナイト、コムマンダア、オフ、ゼ、パス」に叙せられ六

十五年三月二十八日日本駐在英國特命全權公使兼總領事に轉任し爾來日本國に在留して日

英の間に周旋せり

斯の如く同氏は支那に官遊すること前後二十三年其人情風俗に通ずるは勿論支那の國歩艱

難の際に周旋したるを以て支那政府の官吏にして同氏に面識なきも「ハリ、パークス」の名

を聞て之を知らざる者は一人もなき程の有樣なれば公私の交際上自他の便利此上なかるべ

きなり但し咸豐の乱に交戰停止中にも〓はらず支那兵が公法に背きて「パークス」氏を擒に

し拷掠至ふざる所なく殆ど死に至らしめんとしたることありしと雖ともこは支那政府の過

にして「パークス」氏の過にあらず然るに支那政府は自己の前過ち思ひ「パークス」氏が怨

に報するに怨を以てせんことを掛念し氏と相遠さからんと欲して今回の任命を拒むとせん

か是即ち人の不善を逆ふるものにして君子の所爲にあらず儒敎主義の盛行する支那國人に

して斯る卑劣の所爲あるへき理由なきなり或は又支那政府は「パークス」氏が二十年前の所

業に徴して尚ほ今日に疑懼する所ありとせんか「パークス」氏とて聖人にてはあらざるべけ

れば二十餘年間の在留中時々或は支那政府の怨を買ふに足るべき程の所業なかりしとも申

し難しと雖とも二十年前の「パークス」は今日の「パークス」にあらず血氣正に剛なるの時

に當りては或は道義の範圍を踰越するの言行もありしならんと雖とも既に耳順の老翁たる

今日に於ては壯年の過ち再びするの掛念あるべからず近くば之を在日本の英國公使たる「パ

ークス」氏の身上に就て證すべし慶應以來明治の初年頃までは「パークス」の名都門に喧し

く今日に於ては之を云ふも氣の毒なることながら實に人の指彈を免かれざるものなりき然

るに今や全く之に反し昔年の〓敵も今日の親友となり東京社會に「パークス」の名は親愛恭

敬すべき人を表するの字義と一變したり此例に由て之を推すに今日の支那政府は道光咸豐

年間の支那政府にあらず今日の「パークス」氏は二十年前の「パークス」氏にあらず主客今

日互に北京に相見んには意氣相投して琴瑟を皷する趣あるや疑なし支那政府は自家既に道

光咸豐の政府にあらずと信せり然るに「パークス」氏に限りては二十年一日の如く今日仍ほ

血氣壯剛の「パークス」氏なりとするは實に恕の道を知らざる者と云ふべし支那政府の爲ざ

る所なり故に我輩は支那政府が「パークス」公使を拒〓するの由なきを確信する者なり