「安南の戰報」
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本文
安南の戰報
安南は支那の南境の隣國にして面積凡十万英方里これを日本に比照するに帝國の所領より
北海道を除き其殘餘即ち本州九州四國三島を合したるものと略相似たり人口は未た精細な
る調査を得ずと雖とも盖し一千五百万内外のものなるべしと云へり佛國は此大國を擧けて
自國の所轄に歸すべしと云ひ支那は安南爲中國所属之邦猥りに他人の干渉を許さずと云ひ
双方固く執て相容れず議論益上昻して漸く其頂點に達し不日將に曲直の判斷を兵力に訴へ
んとするの徴あり佛國政府は尚ほ談判する所あらしめんとて在日本東京の「トリクウ」公使
を北京に派遣したるに支那政府は和戰の全權を李鴻章に附與して直ちに南方に出發せしめ
李氏は既に其途に上りたり世人は此等の擧動を見日ならずして佛清?國の間に搆兵の事あ
るべした豫期する折柄忽ち香港より新聞の到達するあり五月十一日以來安南東京(トンキン)の海内(ハノイ)に
於て佛兵安南の黒旗兵と激戰して大敗を取り首將「リヴヰール」氏以下戰死する者數十名傷
者を合せて百名内外なりと云へり今や清佛の間密雲日に慘澹前山既に〓脚を見るの想ある
折柄安南土兵のために佛兵敗走の報知ありしは眞に安南事件のために百尺竿頭更に一歩を
進めたるものと云はざるを得ず安南の戰報左の如し
五月十一日安南の黒旗兵八千乃至一万許り東京(トンキン)海内(ハノイ)府(佛人の居留地)を攻圍し一軍〓バ
ク〓ン〓〓一軍〓ヒ〓〓〓又一軍〓〓ンテイ道〓三道並び〓〓む然る〓佛軍總督リヴヰー
ル氏はその兵卒を率ひて海内府〓據守し敵兵と防戰すと雖ども衆寡敵せざるのみならず土
民の勇氣次第〓盛んにして敵兵益々多きを加ふリヴヰール氏は乃ち佛船カラビン號をハイ
ホンに送り佛國支那艦隊より急ぎ援兵を求め且つ當府に陸兵を送るべき旨を報知し置き防
禦の力を盡し〓り十三日には佐官カアリユウ氏チムヂンに奮戰して非常の勇氣を顯〓せし
が遂に重傷のため果なく死去したるに〓同日佛軍は其屍を殯葬して軍祭を執行したり十五
日佛軍バクニン道に出でゝ敵兵を衝撃し敵砲六門に釘を打ち又佛艦レオパアト、ブルヴイル、
フアンフエールの三艘〓海上よりバクニンの敵營を砲?せしも遂に其功を見〓十九日佛軍
は再び黒旗兵を衝撃せんため兵士五百餘人大砲五門總督リヴヰール氏之を指揮し進んて敵
兵を衝かんとし午前四時未明に海内を發し進軍二時間に及び〓時忽ち黒旗兵の伏に陥りた
り佛軍は敵の伏兵に度を失ひ狼狽したるも尚能くこれに應じて遊?し苦戰凡そ一時間佛軍
遂に支え難くして退軍し死傷する者頗る多し全軍五百餘人の中即死二十餘人負傷四五十人
其外將校士〓にて戰死せし者は總督リヴヰールを始め提督ド、ヴヰーラル中佐ジアツキン中
尉ド、ブレシー分隊長ド、ムーリン等の諸氏にて死傷都合一百人殆ど全軍の五分一を占む亦
以て當日の激戰を〓〓を知るべし提督ヴヰーラル氏は戰塲にて負傷し海内に營〓歸〓六時
間の後遂に呼吸を絶ちたり又總督リヴヰール氏が戰死せし次第は本軍敗走の際獨り殿戰し
我軍の大砲一門人後に殘して見へしかば夫れ遺すなと士官數名を指揮して蹈止り必死とな
りてこれを爭ひ大砲は難なく取戻し得され共惜むべし總督は重傷の爲に屍を戰塲に〓らし
たり是役や固より公法の戰爭にはあらざれ共佛軍は初度の戰爭に敗北し剰へその總督を失
ひたれば非常な大敗と稱すべきなり又佛卒の中にて黒旗兵は擒となりし者數名〓りといへ
り斯くて佛軍は殘兵を収めて再び海内府に入り守備を嚴にして攻?に備へ警固め頗る嚴重
なり府知事は又人民に説諭し平穩を旨として猥りに立騒〓ざる樣告示〓さり然れとも海内
府の騒動は一方なら〓人民離散して悲慘の觀を呈し居留地には歐洲人支那人安南人の家屋
あれ共これありては軍艦の發砲に不便なりとて或はこれを燒き拂ひ或は火藥を以て之を破
壞したりされば同府の人民中今尚ほ在留する者は僅に二千人計なり斯る次第にて府民は糧
食を得るに便なく卵子鴨鵞すら〓れあらざる程〓り此〓軍の報知を得るや否やサイゴンよ
り佛兵二小隊東京に向て出發したりしが猶ほ其他の援軍も續て出發する筈なり然るに海内
府にては兵卒も少く援軍の來着を望むと大旱の雲霓も啻ならす今佛軍が充分安南を據守す
るには二万の兵を要すべしといへり又橫濱の佛字新聞エコリ、デュ、ヂヤポンに曰く支那人、
黒旗兵、及ひチユヂユツクの送遣し〓る兵卒は海内の壁上に總督リヴヰールよ我輩は汝と戰
地に相見て醢肉の如くに汝を寸斷せんと配したる貼紙を出しされはリヴヰール氏は其暴慢
を憤り打て之を窘めんとし五月十九日の拂曉大砲を牽て城を發し午後六時を以て歸城せん
と軍議一决〓さりしが黒旗兵は早くも此軍議を謀知〓十九日の前夜を以て埋伏兵を城市の
近傍に設け今や遲しと待受たり、神ならぬ身のリヴヰール氏は夫れとも知らす十九日朝五時
頃城兵に出軍の令を下し眞先に軍艦シナ号に水平が曳きさる四門の大砲を進め自ら馬車に
乘して海軍歩兵一分隊、上陸し居る水兵の分隊及歩兵十二分隊等を其後に從へ其勢五百餘人
にて午前三時半より進軍し城外の急流に架しさるバルニー橋を過きんとせしが橋幅狭くし
て大砲を並進する能はす因て一門づゝを打渡し先鋒〓〓に彼岸に達しさる時一叢茂き道側
の森中より伏兵俄かに發して大砲を曳きさる海兵の過半を打倒し之れと同時に砲聲四方に
轟き支那の伏兵はレミントン銃を携帯し甚だ急〓れ共我が水兵は善く戰ひ大砲を棄て去ら
ず是時軍艦ビツシヱール、ジユビフル號の尉官及見習士官ムーソン氏は既に危く見へたれば
總督リヴヰール氏〓いで此二人を救はんと乘りさる馬車を飛下りたるが二人共に射殺され
〓〓併〓大砲は遂に支那兵の手に落ちざりし、此日の戰に死しさる佛人はベルト、ド、ヴヰ
ラール分隊の隊長一名歩兵佐官一名歩兵尉官一名ビクトリース號の水夫十二名サンチユ、ジ
ユ、ヴヰラール號の水夫三名海軍歩兵〓名なり其他ヴヰラール號の尉官は腹部を射られシユ
ルブライス號の尉官及ひブリビエール號の副監督官は傷を被り測量士ガルニエール氏の負
傷しビクトリース號は水夫十四名ヴヰラール號の水夫八名共に負傷したり佛兵敗を取り總
督死亡〓たるの報海内城に達するや城中の驚愕一方ならず軍艦ヴチルタ號をサイゴンへ遣
はし電報を以て佛政府へ其凶變を報しさりこの戰やリヴヰール總督以下枕を並て打死〓た
れば佛軍に取りしも實に小敗にあらざれども〓軍〓不利は獨り此に止まらず支那兵〓〓總
督の首を提げて益其威を示すときは其人心に影響する所少なからず、〓右の敗戰後〓支那兵
安南に在留する耶蘇敎徒を屠らんとする抔の風説あれば水師提督メエール氏は海内に來り
て其兵を都督し同地に在りたるモーレル、ビユーリユー氏と共に專ら防禦に從事し頻りに本
國の來援を待ち居〓り又今度戰歿したるリヴエイル氏は最もも其職に稱ひ文思ありて著述
の才に富み實に惜むべき人物なりし
又五月二十七日龍動發電報に云く安南ハノイの佛兵は圍を衝〓されども清兵の〓めに追ひ
戻され〓れ〓籠城して頻りに來援を求めたり○佛政府は東京の佛軍總督に向て天津より來
る清兵若し安南に境界を踰へんとせば之を邀へて進?すべ〓との命令を送りさり
抑も東京の黒旗兵なる者及び其聯合の兵は今回南方に進發したる李鴻章の引率する兵にも
あらず又雲〓?廣地方の支那官兵にもあらざるは勿論安南王直轄の軍兵にもあらざるを以
て黒旗の擧動は毫も清仏間の疑問に關係する所なしと強ひて〓?すればするものゝ其實際
の影響は支那兵自から佛兵を屠殺したるものと格別の相違なかるべし況や東京地方には其
性質の如何を審かにせざれとも數百の支那兵の出歿するあり甞て安南兵を援けて佛兵に抗
したりとのことは前日來の外報中に散見する所なるをや思ふに佛國政府は此戰報を得ると
等しく直ちに強大なる援兵を派遣し一擧して黒旗の?窟を覆へし東京地方を席巻して支那
の境界に及ぼし偶ま支那兵の其行路を妨けんとする者あればこれと鋒を交ふることに躊躇
せざるべきや疑なし大將戰歿の報知は在本國の佛兵をして怒髪冠を衝かしむへきは論を俟
たす此兵士にして不日東京の「サンコイ」河岸に上陸の上は其擧動必ず尋常ならざるべし戰
地は北京を距る二十餘英里なり電信鉄道の便あるにあらざるを以て北京の朝廷にて清佛の
全權等が談判應對は東京の戰事を左右するに頗る不充分なることもあるならん我輩は後報
を俟ち又論する所あるべし
本件に關し海外電報の來ると同時に香港及びサイゴン發の通報にてその?況を詳〓し取敢
へず〓れを本日の紙上に登載〓しさるが斯く電報の遲延したる次第は海内府の變報は始〓
にサイゴンより印度を經て歐洲に達したるものが再び五月二十七日を以て倫敦を發しルー
タアの電線にて香港に達し夫より船便にて橫濱に着しさる其間に香港サイゴンの新聞紙も
到達〓たる故電報の遲刻したる姿とはなりさるなり看官宜しく前後の日附を參照して其情
勢を詳〓すべし