「國財論」
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時事新報に掲載された「國財論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
我輩の宿説として毎度開陳したる如く、目下我國の急務に於ては陸海軍の備を擴張せざる可らず、之を擴張せ
んとするには資金なかる可らず、資金の出所は國民なるが故に先づ民心を調和すること緊要なりとの理由は、今
更これを爰に説明するにも及ばざる可し。民心調和の急なるは本月十五日の社説に於ても其大槪を記したれば、
今こゝには資金を集るの方策を述んとす。抑も武備擴張の急務たるに就ては、朝野共に異議を容るゝ者を見ざる
のみならず、近日に至ては滿天下の輿論、正に我輩と旨を同うすと云ふも過言には非ざる可し。既に我輩と論旨
を同うするときは、此論を空うせしめずして實際に施行するこそ緊要なれ。卽ち其着手の初段は國財を徴牧する
に在り。今論點を低くして之を視れば、天下の人皆私欲の心あらざる者なきが故に、近く其私心に訴へて議論の
通用を滑にせんと欲せば、所謂休養斯民の陳腐主義を根據と爲し、今日に於ても尚減税論を唱るこそ安心なれど
も、一方に於ては既に已に武備擴張の急を知りて之を促がしながら、一方に於ては其資本の徴牧に就て異論を云
ふが如きは、前後撞着不深切の甚しきものなれば、我輩に於ては寧ろ斯民を休養するの俗論を排して、斯國を維
持するの正義に從はんと欲するものなり。蓋し我輩は古聖人の仁政を學て腐儒輩と共に國事を語る者に非ず、又
目下内國の政談に就き爲にする所ありて衆人の私心に訴へ、以て私論の通用を滑にせんことを求る者にも非ざれ
ばなり。( 我輩この一編の論説に就ても、又例の如く官權保護新聞の記者輩に向ては、氣の毒ながら暫く其賛成な
からんことを懇願す。如何となれば、此流の人達が竊に其筋の保護を被りながら我輩の説に尾し來りては、之が
爲に却て世間の信を失ひ、折角の微意も貫徹し難きの恐あればなり。)
以上冒頭の題言は單簡にして筆を閣し、爰に實際に國財を徴牧せんとして何れより着手せん歟、或は地租を改
正するの説あり、又絹布に税を課するの説あり、又遺産相續税の説あり、又家産歳入税の説あり、政府の當局者
に於ても必ず様々に思慮する所ある可し。何樣にて心苦しからず、唯牧税の煩少なくして、最も巨額を集るに
易く、最も民心に感ずること薄きものを擇ぶ可きのみ。此點より考れば、我輩の所見にては酒税を增加すること
最も適當ならんと信ず。過般酒税の改正よりして世間或は之を苛重なりと思ふ者石あらん歟なれども、畢竟未だ
外國の事情を知らざる者の考たるに過ぎず。西洋諸國の例に從へば、我酒祝は最も輕きものにして、或は其輕重
を比較するの場合にも至らず。我税率を以て外國の税率の最も重きものに對したらば、日本の酒は殆ど無税なり
と云ふ可き程のものなれば、更に之を改正して五割を增し又一倍と爲すも決して顧慮するに足らざることならん。
目下の有樣にては地租の改正も容易に行はる可らず、之を行はんとするも紙幣の價格囘復して穀物の價下落する
ときは、農民の資力にて多分の增税には堪へざることならん。其他絹布以下収税の工夫はあれども、皆新工夫に
して、其實際に臨て如何なる可きや、是等も須らく思考して適當なりとの説を得たらば施行す可きなれども、差
向の處は収税に煩勞少なくして最も巨額を集るに易く、最も民心に感ずること薄きものは、酒の右に出るものな
かる可し。結局我目率帝國軍備の資本は、永世酒より出るものと覺悟して大に違ふことなかる可きなり。但し讀
者諸君は、外國にて酒税の割合の重くして、其政府歳入の一大部分を占め、或は之を以て海陸軍費を支るに足る
可く、又これを支へても尚餘ある國も少なからず云々の事情は、本年一月四日より九日までの間、時事新報の社
説を再讀して其大槪を了解せらる可し。
或る人の説に、外國は外國なり、日本は日本なり、外國に酒税の苛重なるものあればとて、直に其例に傚ふて
之を我國に施す可らず、日本古来の慣行には酒に税を課したることもなし、今日の酒税既に已に輕からず、然る
に又これを增さんとするが如きは、我民力の程度を知らざるものなり、暇令ひ或は增税説に從ふも、極めて徐々
に之を施し、五年を期し十年を待ち、四、五十年の後には遂に西洋風に心移る可きなれども、今年今月直に之を
實施せんとするは、所謂西洋流の急行癖なり云々とて、苦情を述る者なきに非ず。此苦情甚だ着實なるに似たり。
我輩も此着實論に同意を表せんと思へども、世界の事情吾々の着實論を許さゞるを如何せん。或人の云ふ如く、
外國は外國にして日本は日本なれども、其日本なるものも今日は外國と竝立して、百事外國の例に傚ひ、陸軍も
外國に同じく、海軍も外國に同じく、文武商工の事より交際の方法にまで一切外國に異なるものなくして、面し
て其外國の事物は實に急行劇進にして片時も運動を駐めたることなく、甚しきは常に吾人の眼中に蔑視したる支
那人さへ尚且近來は睡を覺ましたる此急進の世界中に國を立てながら、日本は日本なり、日本古來の慣行あり、
武備修めざるに非ざれども着手に順序あり、武備の爲に資本の必要なる、我れ之を知らざるに非ざれども、之を
徴収するに時節あり、我れは十年を待つものたり、五十年を期するものなりとて、悠々安閑、以て日本の舊慣を
奉行す可きや。内國人民の身に取りては至極安樂にして安眠す可しと雖ども、外人の來て眠を驚かす者あるを如
何せん。眼を開て西洋諸國文武の進歩を見よ。武備に文事に又商工の業に於て、一として我耳目を驚かさゞるも
のなきに非ずや。加之これに驚くと驚かざるとは我れに存するのみにして、外人は必ずしも我を驚かさんと欲
する者に非ず。或は我安眠を利し我頭上を踏て通行する者ある可し。讀者諸君は其頭を外人に踏まれて尚且眠を
貪らんと欲する歟。時事新報の記者は之に同意を表するを得ず。諸君斷じて然らず、其心事は記者に等しきたり。
然ば則ち目下の至急、武備擴張の一事に就き、何ぞ一日を猶豫せんや、何ぞ僅々の增税を恐れんや。記者は此一
事に就き諸君と共に急行せんことを願ふ者なり。 〔六月二十日〕