「國財論」
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時事新報に掲載された「國財論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
右の理由にして、酒に税を課せらるゝも酒屋に於ては其利害に關係あらざれば毫も不平を訴ふ可きに非ずと雖
ども、唯酒屋の爲に謀て或は難澁す可きは、官の筋より釀造檢査の活潑ならざると隱造摘發の精密ならざると此
二箇條なり。抑も酒の造釀〔釀造〕は全く化學の定則に由て成るものなれば、造釀中其器物の開閉を愼しみ其取扱に注意
するは最も大切なることにして、時候の寒溫を窺ひ一分時の遲速あるも大損害を致すことあるが故に、其發酵の
進退を視察して手を下だすの趣は、醫師が病症の機變に應じて藥を投ずるものに異ならず。其穎敏を要すること
以て知る可し。然るに檢査官が此事情を解せずして苟も怠ることあれば、釀造の機は天然に無難なるも人爲に妨
げられて、酒屋の營業に言ふ可らざるの損亡を蒙らしむるもの少なからず。或は官吏の怠慢に出るものもあらん
と雖ども、派出吏員の少なきと其身分の重からざるとに由て、自然に生ずるの弊害と云ふ可し。又税の重きに從
て隱造を企る者多きも、人間世界に免かる可らざるの常態なれば、嚴重に之を妨がざる可らず。然るに政府の法
を犯さんと企る程の者は、必ず大膽にして然かも才智ある人物なれば、檢査官の來るあるも一見分明なる帳簿を
示し、難問に答辨すること甚だ快活にして、毫も疑ふ可きの痕を現さゞるが故に、往々其陰惡を掩ふに足る者多
く、之に反して質朴正直の酒家翁は先づ官員の名を聞て恐縮の心を生じ、偶ま詰問せらるゝことあれば訥辨口吃
して言ふ能はず、帳簿疎漏にして分明ならず、器物狼籍にして秩序を失ふ等、吏人の目を以て之を一見すれば、
是ぞ怪しき者ならんとて、益詰り責れば益狼狽して、遂に些少の手落の爲に罪に陷る者なきに非ず。之を要する
に正者禍を蒙りて不正者は罪を免がるゝものと云ふ可し。以上は今日に於て心往々人の竊に聞見する所の流弊な
れば、今後若し酒税の次第に增加することあらば、其弊も一層の甚しきを加ふ可きや疑を容れず。故に政府は特
別に此に注意して、酒造檢査に就ては大に吏員を增して、其身分を重くし其俸給を豐にして其心事を高尚ならし
め、常に酒造の地方を巡囘して檢査の時を誤らざるのみならず、時として酒屋より之を促がすこともあれば、醫
師の急病に走るが如く、風雨の夜中をも犯して出張する程の覺悟あらしめ、又其隱造の注意に就ては卽時其場所
に臨て吟味す可きは無論、尚其上にも平生其地方の評判風聞を探偵して、秘密に各酒屋の人物を詳にし、其心得
を以て檢査にも加減ある可きことなり。
或は隱造の摘發には同業相互に密告せしむるの方便を用ふ可しとの説心柱とも、政府の法律に對して人民の相
互に密告するは、法に於て妨なしと雖ども、其事たるや頗る陰險にして社會の德義を損ずること實に容易ならず。
苟も一度び此陰險を犯す者あれば、怨恨結て解く可らず。古來世界中に其例多きのみならず、現に今日我國に於
ても、商賣上に又政治上に其事なきに非ず。何某は印紙貼用の犯則に就て隣家の主人を告訴したりと云ひ、何某
は何れの宴會に於て友人の失言を聞き、翌日これを密告して國事犯の罪に陷れたりと云ふが如きは、當局の本人
に於て畢生の怨を結ぶのみならず、傍より之を聞見するも悚然に堪へず。德義の一方より論ずるときは、凡そ人
生の賤劣不德は他人の隱事私行を摘發するより甚しきはなし。社會の秩序も之が爲に紊亂する程のものにして、
最も愼しむ可きことなれば、酒類の隱造に關しても其摘發は專ら官の手に任じて、人民の密告なからしめんこと
を勉めざる可らず。苟も官とあれば其官員は唯官の職掌に由て吟昧するの資格を持するが故に、何樣に巖重なる
も、又時としては暇令ひ秘密の計略を用ることもあるも、毫も德義に於て損ずることなし。今日官吏の資格を以て
人を罪するも、明日は其資格を脱し、最前の罪人に向て昨日の不幸を弔するも可なり。蓋し前節に吏員を多くし
て俸給を豐にす可しと云ひしは、實際其事の繁多にして等閑に附す可らざるものあればなり。隱造摘發の如き、
之を罪するは唯法律の重き所以を知らしむるが爲のみに非ず。酒造同業中に税を遁るゝ者あれば、之を遁れたる
者は必ず酒の價を低くして速に賣却す可きこと當然の情態にして、所謂品物を賣り崩す心のなるが故に、他の同
業者は之と低價を競ふを得ず。強ひて競はんとすれば必ず元金をも全うするを得ずして、途に失敗にも至る可し。
一人の奸は其禍を一地方に及ぼして、地方全體の酒屋に不幸を蒙らしむるのみならず、政府の収税に心自から影
響することなきを得ず。故に酒造の檢査は法律の保護に非ずして寧ろ經濟上の必要と爲し、政府は之が爲に費用
を愛しむことある可らず。例へば二千萬圓の酒税を収るが爲に、其五分乃至一割を費し、一、二百萬圓を収税費と
爲して、正味の収入は一千八、九百萬圓と爲るも、法律を實施して奸惡を許さゞるは、政府の體面を全うして兼て
良民の幸福と云はざるを得ざるなり。 〔六月二十二日〕