「國財論」
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時事新報に掲載された「國財論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
又或人の説に、飮酒は人生天賦の慾にして、其價の騰貴を以て之を禁ず可きに非ずと雖も、濁酒燒酎の税を
薄くして自家用料の酒を無税にするときは、國中次第に濁酒燒酎の醸造を增して清酒は次第に減少す可し、濁酒
燒酎口に適せざるも、白家用料とあれば毎戸清酒を釀すも妨あるなし、今日既に已に自家製のもの多し、今後若
し次第に酒税の增加するあらば毎戸自から清酒を造で自から之を飮み。政府は遂に収税の目的を誤るに至る可し
と云ふ者あれども、我輩は此説にも感服するを得ず。抑も人間社會の物品に、貴しと云ひ賤しと云ふは、必ずし
も其物の實用のみに就て輕重したる意味に非ず。實用のみを云へば綿布と絹布と左まで相違あるに非ず、眞鍮も
銀も金も實用に異同なしと雖ども、世上一般綿布を輕んじて絹布を重んずるのみならず、實用には最も關係なき
其縞柄模樣にまで心を惱まして金を費し、眞鍮の煙管は銀よりに賤しと云ひ、銀の煙管は金に及ばざること遠し
として之を怪しむ者なし。蓋し其然る由緣は何ぞや。貴き物は世間皆これを貴び、其價高くして之を得るに難き
が故なり。多く金を出して得難き物を得るは、其人の資力を表するの目印にして、文語の潤飾を除て俗に之を云
へば富有の看版たるに過ぎず。或は絹布の衣裳又は金銀の煙管の代りに金圓を弄して人に示すも可なりと雖ども、
去迚は殺風景なるが故に、其形を衣と爲し又煙管と爲して外面を裝ふのみ。卽ち古今世界の人情なり。此人情果
して普通にして人事の實際に違ふことなくんば、酒を用るの一事に於ても亦同樣ならざるを得ず。酒の實用を云
へば唯飮て醉を取るのみに在るものなれば、濁酒にても燒酎にても苦しからず、或は家釀の巧なるは市場の沾酒
に優るものもある可しと雖ども、濁酒燒酎は既に下流の名を成して之を中人以上の用に供す可らず、家釀美なる
も富豪縉紳の盛會に手造りの酒を進るとは甚だ殺風景にして、其味の美惡に拘はらず必ず灘伊丹又は知多郡の製
造に限ると云ふことならん。加之酒の價の次第に騰貴するに從て次第に其品位を高くし、今日四斗樽もて運途し
て大家の厨下に据へ置き、煤拂の祝ひにも鏡を抜て放飮すること水を呑むが如くなるものも、漸く其器物の姿を
改めて其用法を大切にし、一杯の酒を振舞ふも馳走の部類に屬するの狀態と爲る可し。斯の如く酒の位の上進す
るに準じて之を用る人の豪氣も亦上進し、某家の主人は一席の宴會に幾斗の伊丹を空うして、其價蓋し百圓に近
し、愉快なる哉近來の盛會などゝ俗世界に評判すれば、隣家の主人も亦こ札を學て幾十幾百の金圓を費し酒を以
て豪を爭ふこと、今日料理の獻立を以て宴席の盛否を評するものと一樣なるに至る可きも亦人情なり。天下の人
心、若し實用の道理談に凝結して、衣服の絹たり綿たり、身の寒溫に差違なし、煙管の金たり眞鍮たり、煙草の
風味曾て異ならず、家に巨萬の富あるも我れは綿服を服して眞鍮の煙管を携へんと云ふ者、果して世間の多數な
らば、酒を用るの際にも亦経済論の道理に依頼して盛宴に酒税を免かるゝの工夫もある可しと雖ども、文明爭豪
の世に斷じて其事なきは我輩の得て保證する所なり。我輩常に謂らく、日本の酒價は何れまでに騰貴して適當な
らんと問ふ者あらば、之に答ること難しと雖ども、結局の處は盛宴と稱する會席の費用を酒と料理と兩樣に分ち、
其價正に等分にして、料理の價百圓なれば酒の價も百圓なるを以て至當なる可しと信ず。然るに今日の宴會を見
るに、名も酒宴にして實も亦酒を樂み、酔ふて愉快と稱して歡を極めながら、其酒の費を聞けば唯會費の一小部
分たるに過ぎず。我輩の宿案に比すれば大なる差違なりと雖ども、數年を出ですして其差違を見ざるの日ある可
きこと、敢て疑を容れざる所なり。
又一説に、内國にて酒税を重くしたらば、外國の地に之を釀造して外來の輸入品と爲し、以て税を免かるゝの
工夫ある可しとて過慮する者あれども、苟も獨立國の人民として斯る卑怯なる言を吐くとは落膽の至ならずや。
今の一切の輸入品に就ても、税の輕重は我國權に屬するものにして、到底我手に其權柄を執らざる可からず、亦
これを執るの時節も遠きに非らざる可しと信ずる其最中に、内外の奸商輩が古來外國に絶無の日本酒を擬造して
之を外國品に裝ひ、以て我内國の税を遁れんとするが如きあるも、默して之を許す者あらんや。卽ち商人等も非
常の工夫を運らす心のなれば、我政府も亦非常の法を設けて之を防ぐ可し。一片の條約書は天造に非らず、臨時
の變に應じて臨時に之を左右すること甚だ容易なり。此邊に就ては我輩は毫も苦慮する所なきものなり。況や酒
悦は唯其醸造の本に就て収るのみならず、一度び税を課したるものも、都邑に入るときは又重ねて入市税を取る
の工夫もあり、又小賣の毎戸に課するの法もあり。瑕令ひ商人輩が僅に關税を遁るゝの一策を案ずるも、之に應
ずるには幾多の方略あり。恐るゝに足らざるなり。 〔六月二十五日〕