「商賣上の契約を愼む可し」
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本文
商賣上の契約を愼む可し
我國海外諸國と開港貿易すること既に三十年當初に在りては彼我互に相知らずして互に相
猜疑し其交際决して親密ならざるより賣買取引の間にも相欺き相害すること甚た多かりし
が歳月を經過するに從ひ彼此の關係次第に繁多となり双方の感情稍く融和して互に自他の
心意を改め復た昔日の如く專ら欺詐騙瞞を以て商賣の方便と爲さゞるに至りたるは彼我の
幸福これより大なるはなし然れとも我國各開港塲に居留する外國商人は元來利益を目的に
渡來したる人々にして云はゞ徳義上には其感情甚だ薄く唯利是謀るの人物たることを免か
れざる者甚た多し固より商業の本色これを咎るに足らずと雖とも我國の商人にして外國商
人と取引を行ふの輩は概ね實地の經?に乏しく小康に安んじて進取の勇なく世界の商况に
暗くして當面の機變に通せざるが故に動もすれば外國商人との取引上に意外の損失を被ふ
ることなきにあらず是れ我輩が窃に憂慮に堪へざる所なり今其損失を致す所以を尋ぬれば
其原因固より一にして足らざれとも就中我國商人が外國商人との契約を等閑にするの一事
は其一大原因たるが如し我輩は頃日橫濱居留の外國某商會と我國の某商人との間に物品賣
買の約定を爲し其外國商會より我國商人に交付したる英文約定書を一見したり其和譯左の
如し
(前略)何某商會(外國)商會)は今回何某殿(日本商人)の負擔として下記の商品を書面
の價にて輸入することを結約せり依て何某殿は今回右品を買ひ其代價を書面の通り仕拂ひ
波止塲へ着荷のとき直に之を引取るべし
右荷物到着後三日間に引取らざるときは何某殿は右品に屬する運賃、倉敷、火災保険料等都
て必要なる諸人費を支辨し其上右金額に月一分の利息を拂ふ可し
此賣買約定の手附金として若干弗を何某殿より何某商會に受取りたること
此約絛を履行せざる罰には何某商會より何某殿へ手附金を返却す可し又本文の物品は海上
の危險事變を除き此約定書の日附より二百日間に到着す可し
此約定書の文意を概言すれば「此度貴殿に前記の物品を前記の價格にて賣渡ことを約定せり
然る上は後日如何樣の事情あるも貴殿より此方に對し違約を申出すことある可らず右品は
到着次第速に引取る可し一日たりとも約定書に載せたる時限に後るゝときは相當の費用を
拂ひたる上に相當の利子を拂ふ可し但し此方の都合に由り違約の沙汰に及ぶは此方の勝手
たるに付其節は貴殿より受取り置きたる手附金をは返却す可し」と云ふにあり此果して何等
の契約〓や今仮りに此物品の價額を若干萬圓なりとし手附金として一萬圓を受取りたりと
せんに右の外國商會は其商品を本國より輸入するに當り其價前日より騰貴することあらば
直に其買主たる日本商人に向て破談を申込み先に受取りたる一萬圓を返戻せば明かに法律
上の義務を免かれ買主は之に向て一言の不平を陳ぶるを得ず若し又其價前日より下落する
ときは前約なりとを強て前日の價にて之を賣渡さんに買主は右約定書に依て之を拒絶する
の權利を有せざるが故に忍て之を受取らざるを得ず然るときは物品の價騰貴する塲合には
外國商會は低價に賣渡すべき物品を高價にて他人に賣るの益あるのみならず一萬圓の手附
金は二百日の間無利足にて使用するの利あるを以て二重に其利益を得可し又其價下落する
塲合にも前約の價にて之を賣るが故に亦相應の利益を得るを失はず之に反して買主日本商
人は低價に仕入れたる物品の騰貴せし塲合には突然前約を渝られ利益を得べき目算を誤る
のみならず手附金として渡したる一萬圓より生する利子は徒らに外國商會の〓裡を肥すの
みにして一毫も已に利する所なし又其價下落するに當ては面あたり其損失あるを知り乍ら
猶之を受取らざるを得ず加之右外國商會と買入れの約を取結びたる以上は別に他の商會と
同品の買入れの約束を爲さゞること明なれば一朝前の外國商會のために違約せらるゝの日
に於て他に低價なる物品の供給を得るの道なく已むを得ず騰貴したる價にて今日更めて物
品の仕入を為し以て其〓用に應ぜざるを得ず此等の損失を合計すれば買主日本商人の被ふ
る所の損害は獨り二重三重のみに止まらざる可し我輩は未だ世上に斯る無法の契約あるの
例を聞かざるなり然るに我日本帝國の橫濱開港塲に於て此新例を世界に示したり豈慨歎せ
ざるを得んや或は此新例をして今より二三十年前我日本人民が外國を知ること十分ならざ
るの日に在らしめば猶或は寛恕すべき情?なきにあらずと雖とも開港以來三十年明治十六
年の今月今日に此珍奇なる新例を目撃せんとは實に我輩の豫期せざる所にしてために一驚
を喫するも無理なからずと信ずるなり
外國商人の不埒を見てこれを咎るのみにては未だ十分に斯る無法の契約に關する情?を盡
したるものと云ふべからず試に日本商人の貿易に從事する人物を見るに近年に至りてこそ
若實老練身元慥かなる商家にして此業を營む者漸く輩出するに至りたりと雖とも開港の當
坐は勿論夫れより十數年或は二十年の後に至るまで日本の商人にて貿易に從事する者と云
へば概ね皆狡猾にして恥を知らず文盲無賴の奸徒のみ多かりしを以て外國商人等は動もす
れば其騙〓に陥ゐれられ一旦これを覺とるも遂に其損失を回復するの方便を得ざりしを例
としたるが故に外國商人の日本商人を視ること外道惡魔も〓ならず到底人間の道を以て接
すべからざるものと决心したるが如く遂に我輩は前段に譯出したるが如き法外千万なる賣
買約定を爲して恬然愧る所を知らざるに至りたるなるべし果して然らは斯る無法の契約の
彼我貿易の間に行はるゝは其原因外國商人の惡德に在らずして却て日本商人の惡德に在る
ものなりと云はんも不可なきが如し好しや其原因は專ら一方にのみ偏在せず両者の中間に
存するものとするも畢竟するに商賣上の交際は單に道德のみを以て支配すべきにあらず法
律の許す限りは義理も人情も問ふ所にあらざること世界古今商賣上の習慣たりとせば外國
商人が勝手の約定を爲して飽まで己れの利を營まんとするは天晴れの商業家なりと稱すべ
く日本商人が其無學懶情よりして他人の言ふが儘に自家に大不利の約定を爲して安閑たる
は言語道斷なる商業家なりと稱すべきなり富人あり家に巨萬の財寶を蓄積するもこれを護
するの法を求めず盗賊の言に從て門戸を撤去し晏然眠に就くの後夜半盗賊の侵入する所と
なり翌朝家を改むれば山積の財寶一空し始めて其の身の無一物庵主たるを知りたることあ
りとせんか世人は盗賊の惡德を惡むの前に先つ富人の愚を笑ひ其不幸は自業自得なりと評
するなるべし約定は賣買の〓〓なり然るに我日本商人等は此大切なる約定を爲すに當り何
か橫文字にて認めたる書付を外國商人より受取り其中には何事を記しあるやを知らず又こ
れを知ることを求めず其儘に認め〓くの後他日行違を生するに及びて〓〓〓〓し〓〓〓〓
すと雖とも及ぶ所なきなり今や我日本の貿易事務は大に其体面を改めこれに從事する商人
は决して文盲無賴の狡猾〓にあらず然るに其内外商人の賣買約定等を見るとき尚ほ二三十
年前の〓氣今日に存するもの〓〓是〓〓〓の〓づや我輩は世人が外國商人の惡德を〓〓の
〓に先づ日本商人の愚蒙を笑はんことを恐るゝなり