「前右大臣岩倉具視公薨去す」

last updated: 2019-09-08

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本文

前右大臣岩倉具視公薨去す

明治十六年七月二十日午前七時四十五分前右大臣從一位大勳位岩倉具視公薨去す公近年健

康十全ならす然れとも尚ほ王事に勤勞の一日も怠ることなし今春來〓噎の病に惱み其病症

甚た宜しからざるを以て醫師の勸告に從ひ熱海温泉等閑静の地に就て病痾ありしと雖とも

著しき効驗なし五月西京宮殿御保存御用を以て同地に赴き滯在中病勢遽かに差重もりたる

趣き 〓聞に達しけれは御慰問且つは病氣診察のため態々侍醫を差遣はされたる程なりし

が病の間を得て六月二十八日無事に東京に歸着し祝田町の私邸に在て養痾あり然れとも病

勢?退の様子なきを以て公私上下の人々危懼一方ならす看護療養遣る所なしと雖とも未た

其効を見す七月五日〓聖上には大臣の邸に臨幸せられ親しく病褥に〓ませられて懇ろに御

慰問あり同十二日には 皇后宮同邸に行啓あり親しく病容を御尋問あり爾後病勢大に快方

に向ひ熱度も退き食氣も進み餘程平穩の容體に移りたる由なりしが去る十八日夜より熱氣

消長甚しく身體疲勞を覺え漸く危篤の容體と變したり此以前より公には病痾療養のため久

しく朝觀を欠き機務を曠くすることを憂慮し上表して現職を辭せんことを懇請し止まざる

を以て 聖上にも其志の切なるを察し玉ひ一昨十九日特旨を以て其請を允し願に依て本官

右大臣を免す但し座次は舊の如くたるべしと宣下ありたり同日は再び同邸に臨幸ありて〓

しく病〓に〓ませられしに甚た衰弱の容體なれは殊更懇ろに御慰問ありたり然るに越て一

日昨二十日午前七時四十五分に至り 然長逝したりと聞え上 聖天子より下朝野の士民に

至るまで悲歎の涙に暮れこれを惜まさるはなし悲しひ哉

公の履歴は維新前後に互り其事甚た長く追々に詳記すべけれとも取敢えず左に其大畧を記

さんに

公は故正三位參議兼右近衞權中將岩倉具慶の男にして文政八年九月十五日京師に誕生。天保

九年十月廿八日叙從五位下(十四歳)仝年十二月十一日元服聽昇殿。天保十二年六月十四日

叙從五位上。弘化二年二月十八日叙正五位下。嘉永七年三月廿日任侍從(三十歳)仝年六月

十日叙從四位下。安政二年九月二日爲和歌御會御人數。安政三年正月廿五日爲和歌御當座御

人數。安政四年正月廿五日叙從四位上(三十三歳)。仝年十二月十九日爲近臣。萬延元年十

二月廿九日任右近衞權少將。文久元年正月五日叙正四位下(三十七歳)。仝年仝月十六日拜

賀。文久二年五月十五日轉右近衞權中將。仝年七月廿八日依願所勞本番所參勤。仝年八月廿

日依願辭中將。仝日勅勘蟄居。仝年仝月廿二日依願落飾(法名友山)。仝年九月廿五日被止

洛中住居(山城國愛宕郡岩倉村住)。文久三年正月十三日重愼の旨被仰出。慶應三年三月廿

九日自今被免入洛住居洛外の事(但月々一度計歸宅不苦一宿の外不相成候事)。仝年十一月

八日自今歸宅可爲勝手被仰出候事。仝年十二月九日被免勅勘復飾。仝年仝月二十七日議定職。

明治元年二月某日副總裁。仝年仝月十七日兼海陸軍務會計事務總督被仰出。仝年同月廿二日

任右兵衞督。仝日叙從三位。仝年四月廿一日是迄の職務罷免更に議定兼輔相被仰出候事。仝

年後四月廿日被免當職依格別之思召自今御前日參被仰出。仝年仝月廿五日依別段思召御前日

參被仰出候侍共今般御革正機務多端に付更に議定兼輔相被仰出。明治二年己丑正月十七日當

職辭退之義難被聞食届候得共病痾難澁之趣に付不被爲得已願之通輔相被免候議定之義乍大

義是迄之通力疾勤仕可致旨被仰出(但座列可爲議定第一席)。仝年正月廿五日大納言大將極

位宣下之義昨年來?御沙汰有之候得共再三固辭に依り權大納言正二位推任叙宣下候事仝日

叙正二位。仝年二月十一日於浪華表療養御〓下賜。仝年仝月十四日至急御用有之早々歸京可

致旨被仰出候事。仝年四月十三日當官を以て行政官機務取扱候樣被仰出。仝年七月八日任大

納言。仝年九月廿六日左の勅語を賜ふ

汝具視皇道の衰を憂ひ大に恢復の志を抱く竟に太政復古の基業を輔け躬を以て天下の重に

任し夙夜勵精〓畫圖〓以て中興の業を成す洵に國の柱石?が股肱?切に厥偉勳を嘉みす乃

ち賞賜して厥勞に酬ゆ嗚呼將來輔道益望むことあり汝具視其懋哉

高五十石依偉勳永世下賜候事。仝年十一月廿三日兵部省事務掛被仰付。明治三年四月某日被

免。仝年七月十日民部省御用掛被仰付。仝年閏十月五日被免。仝年十二月三日山口鹿兒島?

藩へ勅使被仰付並勅語左の通

方今の形勢前途の事業實に不容易義に付毛利從二位島津從三位上京?を輔翼太政を賛成し

?藩一致戮力諸藩の標準となり大に皇基を助け候樣?か旨を傳〓誠意貫徹候樣盡力可致令

委任候事

明治四年二月六日歸朝復命。仝年七月十四日任外務卿(四十七歳)。仝年八月十八日仝邸親

臨左の勅語を賜ふ

一新以來日夜勵精圖治今日の盛業に到るも汝具視功居多なり依て親臨して以て其功勞を謝

仝年十月八日任右大臣同日爲特命全權大使歐米各國へ被差遣。同年十一月十二日歐米各國へ

向け揚碇。明治六年二月十三日喪父在英御用中不會其期(四十九歳)。仝年仝月二十日家督

被仰付。仝年九月十三日歸朝復命。仝年仝月廿三日依願喪父爲追祭一週日の暇下賜。仝年十

月廿日親臨左の勅語を賜ふ

國家多事の折柄太政大臣不慮の病患に罹り?深く憂苦す汝具視太政大臣に代り?が天職を

輔け國家の義務を擧け衆庶安堵俟樣黽勉努力せよ

明治七年一月十四日赤坂喰違に於て逢變。仝年二月廿三日依快氣出仕。仝年仝月廿七日病後

に付日勤に不及候得共精々相扶け御用節々出仕候樣御沙汰の事。明治九年五月八日奥羽御巡

幸供奉被仰付。仝月十八日叙從一位。仝年九月四日於橫須賀迅鯨號御式の節御名代被仰付。

仝年十二月廿九日明治勳章の勳一等に叙し旭日大授章を賜ふ。仝月卅一日督部長被仰付。明

治十年一月廿四日西京へ行幸に付左の勅語を賜ふ

?西幸の間親く政を視ることを得ず凡百の事具視に委任す爾具視其れ?が意を體して之を

所分せよ若し夫れ重大の件に至ては一々之を行在に以聞して裁を乞へ事の緊急にして稽緩

すべからざる者は便宜所决して後其事由を以聞すへし

明治十一年八月三十日北陸東海?道御巡幸供奉被仰付候事。明治十五年十月督部長御免。仝

年十二月某日叙大勳位。明治十六年五月西京宮殿御保存御用にて西京へ出張同年六月歸京。

同年七月五日親臨病氣御慰問あり。同月十二日皇居宮同邸へ行啓病氣慰問あり。同月十九日

依願免本官但可稱前右大臣座次可爲如舊事。同月同日親臨病氣御慰問あり。同月廿日薨去享

年五十九歳

今や右大臣岩倉具視薨去したり明治天皇陛下は其股肱の重臣國家の柱石を失はれたり盖し

明治政府の基礎既に鞏固なる今日に於て仮令一の柱石を失ひたりとも政府の大体上に於て

は格段の影響あるべからざるは勿論なりと雖とも政府の大小事務中公が生前に計畫を盡し

其實施に鋭意盡力ありたるもの甚た少なからずと云へば公の薨去は夫等の事務の維持實行

に影響する所决して小少ならざるべし公の生死は明治政府の政治歴史に一大期限を遺すも

のと云ふも不可なかるべし讀者は本日以後政治海裏に向て其影響の如何を徴せよ