「文明の風を導くには取捨する所あるを要す」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「文明の風を導くには取捨する所あるを要す」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

日本の文明開化は少しく急進に過ぎたりとて、近來世間に一種の議論を生じ、其主張する所を聞けば、新樣の

廢す可きは之を廢し、舊物の復す可きは之を復し、漫に輕躁浮薄に走らざるを以て旨とするものゝ如し。又其實

際に現はれたる所を見れば、舊き漢學も廢す可きに非ずとて儒敎主義を再興し、漢學再興すれば古學醫流の死灰

も亦再燃し、洋食洋服以て洋風の家に居るも殺風景なりとて、漸く舊時の日本流に復り、琴棋書畫骨董の遊樂は

朝野上流の社會に行はれて、家庭の敎訓には仁義忠孝を語り、春風秋月には詩歌の淸會を催ふす等、人間萬事古

雅にして然かも其情の優しきは、安樂太平の世に至極神妙のことにして見苦しからず。亦是れ文明の徴なれば、

我輩固より異議なしと雖ども、一利あれば之に伴ふ一害を見るも人事の常にして、漢學再興と云へば、不學無術

の古學者流が、漢字を敎るの傍に奇妙なる支那主義を説て、直接間接に文明開進の妨を爲し、春風秋月の樂に乘

ずれば、物理の實數を忘却して、琴棋書畫の風韻は器械學の元素と全く相反對し、開明多事の日に有爲の少年輩

を誤るもの甚だ多し。事物の弊害を免るゝの難き、以て知る可し。

左れば急進の新樣を棄てゝ舊物の復す可きを復するは我輩の贊成する所なれども、之を棄て之を復するの際に

全く弊害なきものを擇ぶは、我輩の最も贊成して之を聞見するも欣喜に堪へざる所のものなり。今この種の事を

求めて我輩は爰に先づ其一項を得たり。卽ち葬式の法、是れなり。抑も我日本國にて、太古の事は知らず、百千

年來人を葬るの法は一に佛者に任して、上は至尊の帝室より下庶民に至るまで、死して佛に歸せざるはなし。然

るに維新以來人事の急變劇進の際、葬式の法も亦其變進中の一箇條にして、神葬なるものを始め、其式全く新奇

にして大に俗間の耳目を驚かし、俗人は之を聞見して是れも文明開化の一箇條ならんと驚きながら今日まで見送

りしことなれども、今や社會上流の或る部分にては、我文明は行過ぎたり、進行に過急なりき、廢す可きは廢せ

ん、止む可きは止めんとて大に發明したる上は、兎に角に之を廢止して差支なきものは彼の新奇なる神葬ならず

や。之を廢止すればとて人民忠孝の心を薄くするに非ず、文明開進の路を妨るに非ず、奇怪の主義を弘むるに非

ず、人事を輕躁ならしむるに非ず、唯却て凡俗の驚駭を除去するに足る可さのみ。人或は云く、宗敎は人々の自

由に任ず、葬式の法、卽ち宗敎の事なれば、他の喙を容る可き所に非ずとの説あれども、是は所謂西洋説の寫眞

にして、我日本上流の心事を解せざる者の言のみ。我日本の士人は宗敎を蔑視せざれども、之に頓着する者なし。

其葬式の、神たり佛たり、何ぞ之を心に關するものあらんや。死者若し靈あらば、神に祭らるゝも佛に葬らるゝ

も、一樣に地下に瞑す可きのみ。是卽ち日本士人たる所以にして、其心事の洒落なる、西洋人の得て知る所に非

ず。數年前我文明の駸々乎として進歩したる其時に、葬式の法に至るまで變革して無頓着なりしも、我士人の本

色なれば強ち之を咎るには非ざれども、今や此士人に何か所見を生じて文明の進歩にも取捨する所のものありと

聞くからには、寧ろ宗敎に無頓着なる其本色を再現して舊佛法に復するこそ、經世の具に聊か益する所あらんと

信ずるなり。若しも然らずして、百千年の舊慣行にも拘はらず、又自家の信心如何にも拘はらず、神葬は新奇な

るが故に之を執行するとあれば、夫子自から着實を主張して自から着實ならず、凡俗の輕浮を厭ひながら其凡俗

を驚破するものと云ふ可きなり。                             〔七月二十三日〕