「世態論時事新報に呈す」
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本文
五九樓仙蠻 寄送
余が常に信じて愛讀する所の時事新報にては、官民調和、國權擴張の旨を主張し、其實際の着手には國財を徴
収すること緊要ならん、其法は斯くもしたらば善からんとて、酒税の事など論じて、尚本月十九日の社説にも同
主義の一説を記したれば、余は例のに如く之を熟讀して、或は之に就き鄙見をも呈せんとする際に、朝野新聞の記
者が突然と時事新報に向て駁擊の文を草したり。其行文頗る放漫粗暴、或は下等社會の爭論とも云ふ可き程の體
にして、重き事柄を論ずる文法とも思はれず。之と相對して語るは余が屑とせざる所なれども、偶ま余が思考
中の事に就て口を開きたることなれば、鄙言或は朝野新聞の説に關係する所あるも止むを得ざる次第なりとして、
聊か記して以て大方の評論に質さんとす。抑も朝野新聞の記者が其駁論の主眼には、明治五、六年の頃、福澤先生
の隨筆「學問のすゝめ」中に記したる議論文を引き、此文に人民の無氣力なる次第を痛論して、結局國民の一身
獨立して人々本國を以て自家の思を爲すに非ざれば一國の獨立は覺束なしと云ひながら、今日時事新報に國權擴
張の爲にとて國財徴収の事を論ずるは甚だ穩かならずと云ふものゝ如しと雖ども、余が所見にては先生十年前の
議論も今日時事新報の主義も決して兩端ならざるを知る。如何となれば先生十年前の論も其歸する所は國權擴張
に在り、今日新報の主義も同樣の點に在ればなり。「學問のすヽめ」十七編、又この他に福澤先生の著書は甚だ多
し。世人よく之を通覽す可し。如何なる文章に於て國權の事は輕々看過して可なりと記したることあるや。余は
之を見ざるのみならず、先生畢生の心事は國權擴張の一點に歸して、其著書幾十百部、其論幾千萬言は、書名を
何と題し議論を何れの方向に立るも、結局の目的は唯國權の一點に在るのみ。卽ち今の時事新報にて國權擴張の
事を論ずるは正しく主義を一にするものに非ずや。新報の文に、外國交際の路を開きたる今日に在ては、人民も
唯日本國内の事にのみ局促し、外國の事に就ては少しも顧慮せざるが如き迂闊なることある可らず、宜しく國内
の小利害を擱くも、事、外交に關すとあれば、速に全力を此點に集め、深く全國の大利害に注意を加へざる可ら
ず云々とあるは、如何にも適當至極の論にして、余が眼には一毫の非を見ず。然るに朝野新聞記者は此文を何と
解したるにや、蓋しと云ふ一文字を以て臆測し了り、小利害を擱くとは民權伸張自由擴充の旨に戻ることならん、
立憲政體を忌むことならん、官吏( 卽ち近く人を指す)の權威及び舊套保守の主義を論難することなきの意ならん
とて、獨り熱心煩悶するが如くなれども、是れは俗に所謂早合點と申す可きものなり。一身の獨立は甚だ大切な
り。心身共に獨立して、漫に他に雷同せず、漫に他に依賴せず、不自由の間にも自由を求めて我權利を屈するこ
となく、封建の舊主義、支那敎の陳腐論は、以て文明の國を維持するに足らず、政府の政權は強大なるを祈れど
も、官吏の尸位素餐、舊時の門閥家の如くなるは、固より好む所に非ず、反立憲政體の事は既に定りたることな
れば、忌むも好むも説のある可きに非ず。以上は今日に在て都て尋常一樣の問題にして、時事新報の紙上、何れ
の邊に於て此反對論を見たるや、之を見ずして是れならんと臆測するは、之を記者の早合點に歸せざるを得ざる
なり。
左れば十年前福澤先生が「學問のすゝめ」を著し、今日時事新報に國權擴張の事を論ずるも、其目的は厘毫も
齟齬する所を見ざるのみならず、之を齟齬したりとて大に立腹せらるゝ朝野新聞記者の流こそ、躬から顧みて今
吾と故吾とを比較したらば、或は少しく心事の齟齬したることはなきや。今日なればこそ記者も誠に優しくして
大に福澤先生を慕ひ、流石に先生は卓識英智の人なれば夙に吾輩一樣の思意を縷陳し云々と云はれたれども、當
時先生が其卓識英智なる説を縷陳したる時に、記者の流は何處に在りしや。民權國權の談の如きは寂寥として世
に聞る所なし。若しも當時に在て今の記者の如き人物ありて先生の説を贊成したらんには、先生も如何ばかりか
力を得て滿足するのみならず、苟も此流の論説が社會の輿論と爲りたらんには、先生は徒に筆を勞して「學問の
すゝめ」など起草せずして他に力を用ひたることならんに、時勢然るを得ずして、遂に先生をして十年前に勞せ
しめたるは、文明進歩の困難なる一證として見る可きのみ。 〔七月二十八日〕