「世態論時事新報に呈す」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「世態論時事新報に呈す」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

歐米各國にて政治兵馬商業工藝の進歩は近年特に著しきものにして、就中文明の利器たる交通法の便利なる、

刮目して見る可きもの多し。一例を擧て云はんに、橫濱と桑港との間を航海するに、二十餘年前は三、四十日を費

したるものが、慶應三年米國にて太半海飛脚船會社の設立より頓に趣を改めて、太平海を渡るには廿二、三日に

過ぎず。夫れより「パナマ」の地峽を越て米國の東岸に達するには、桑港にて船待ちの滯在等、彼れ是れ凡そ三十

日を以てし、日本より紐育地方に到るに僅に五十餘日、二ヶ月以内なりとて、當時其迅速を以て人を驚かしたる

ものも、今は昔の物語と爲り、今日の飛脚船は太平海の航海を成すに十四、五日を以て足り、桑港より滊車に乘

れば六日を以て紐育に到る可し。其日數三週より多からず。慶應三年は王政維新の前年、卽ち今を去ること十七

年なるが、此十七年の間に日本と米國との距離は殆ど三分一に減縮したりと云ふ可し。又聞く所に據れば「パナ

マ」地峽の掘割は本年より四年間には必ず竣工す可しと云ふ。此地峽を變じて海峽と爲す上は、米國東海岸と船

舶の交通非常の便利を極むるは勿論、歐洲諸國の商船軍艦も直に大西洋より太平洋に出で、我日本に達するには

僅に三十日内外なる可し。斯る交通の有様にて、我國外交の變は如何なる可きや。貿易商賣の活潑にして商人社

會を擾攪す可きは無論、或は不幸にして歐洲の某國と和を破るのこともあらんには、昔年なれば其軍艦の來るに

三、四ヶ月或は半年と聊か猶豫す可きものも、今や則ち一報の電信に應じて其艦隊を日本海に見るは四、五週間に

在る可し。實に劇しき世態と云ふ可し。此劇しき世の中に居て獨立國の體面を維持せんとす。容易なる事に非ず。

我國民は何に由て彼の商責の鋒に當る可きや。我軍人は何に由て彼兵力の衝に對す可きや。人民各獨立して殖産

工業の道を勉め、個々の獨立を合して一國商賣の獨立を謀らざる可らず。商工の利不利は各國の間に於ても亦一

國の内部に於ても同樣にして、專ら交通の便不便に由るものなれば、我國内にも速に鐵道を敷設し海運を盛にし

道路を開き港を築く等、其事の大にして人民の手に能くす可らざるもの、又其性質に於て人民の私に負擔す可ら

ざるものは、之を政府に任すること要用なり。又我軍人の勇敢なるは他に愧る所なし。其軍學の如きも近來漸く

進歩すれども、勇氣と學識とに富むも器械に貧にして兵員少なければ文明の戰爭に適す可らず。我陸軍甚だ多か

らず、我軍艦甚だ少なし。海岸海峽の防禦すら尚且不完全なり。洋上の純儸警衞の如きは皆無と云ふも可なり。

海外を一望して歐米諸國進歩の迅速なるを視察し、首を囘らして自國百事の振はざるを思へば、慨嘆に堪へざる

のみならず、滿目皆寒心す可きものゝみならずや。左れば内國交通の便と云ひ、又兵備の擴張と云ひ、之に着手

せんとして先づ要用なるものは國財なるが故に、之を徴牧せんとするも亦止むを得ざる次第なり。國財、固より

天より降らず地より湧かず、皆是れ國民の膏血なれども、これを徴収して國を護るの要用は今日に切迫したるも

のなれば、これを如何ともすること能はず。國民も亦辛苦なりと云ふ可し。

然りと雖とも、國財を徴収せんとするに國民の心を得ること緊要なるは固より論を俟たざることなるに、不幸

なるは近來我國には官民不調和の變相を呈し、何等の原因なるにや、人を見て、誰れは官の筋の人なり、彼れは

民の筋の人なりとて、次第に相遠ざかりて相容れざるものゝ如し。夫れも果して人物の智愚と德不德とを分明に

區分して名稱を附することなれば可ならんと雖ども、固より實際にある可き事柄に非ず。唯偶然に官たるが故に

官なり民たるが故に民なりと云ふに過ぎず。實に不思議なる流行にして、然かも實際には甚だ有害なる流行なれ

ば、此一事に就ては人民の自から注意す可きは無論、政府に於ても膽力を大にし、大に開門して天下の人物を容

れ、安心して政を施す可きなり。官も民も互に相猜疑すれば際限もなきことにして、唯徒に自家の區域を減縮し

て其行事を不自由ならしむるに足る可きのみ。今の文明繁多の世の中に在ては、全國の人が同心協力して自由自

在に活動するも、尚且事の擧らざるを憂ふるなり。何を顧慮して躊躇するの遑ある可きや。雙方共に斷じて相近

づかんことを勉む可きなり。若しも此に疑あらば既往に溯て自省せよ。從前相互に疎外したるは必ず深く慮る所

のものありて然かしたることならんと雖ども、後に至て事の實際を見たらば、果して前に慮りし通りの次第にし

て、若しも迂闊に其時を過ぎたらば、斯る大難をも生じたる筈ならんと、明に證す可きものありや。十中の八、九、

皆然らずして、後に至れば前の思慮も先づ無盆なりしとの事實を發明するもの多からん。既往斯の如し、將來亦

推して知る可し。左れば官民調和は實に今日の急にして、云はゞ兩區の情界を混同して日本國を廣くし、其全力

を今日に用んとするものにして、卽ち國權擴張の論と官民調和の要と、二者相伴ふて離る可らざる所以なり。余

が時事新報の主義を解すること斯の如し。世論尚見る所のものあらば謹て敎を乞ふ。   〔七月三十一日〕