「日本の貿易は不相應に幼穉なり」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「日本の貿易は不相應に幼穉なり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

日本の貿易は不相應に幼穉なり

富國の道は農工商業をして併行盛大ならしむるに在り而して今の日本の有樣を見るに農に

工に新に起すべきの事業甚た多きは普ねく人の知る所にして日本の農工業は决して盛大と

云ふべからざるなり然れとも我日本全國の富を增殖するの策を案するに當り農工商業何れ

の点に於て最も不足を感するやと云ふに我輩は農工業の不振を感するの前に先づ商業の不

充分なるを感するの情甚た深きを覺るなり

我日本は絶海の孤嶋にして彈丸黒子の壤土たり此狹小なる壤土にして久しく封建制度の下

に沈み三百の小諸侯各其封土に割據して各これに籠守するの時世にありては商業の第一義

たる有無交通の道の如きは殆ど絶無の有樣なりし一小彈丸内に同住するの人にして東西相

知らず相徃來せず互に天涯万里の想を爲せし時にありて商業の盛ならざるは毫も恠しむに

足るものなし下て明治四年に至り封建廢せられ郡縣起り彈丸の壤土をして纔かに中央一政

府の統轄に歸せしめしより爾來勉めて内國の交通を便にて商業を獎めたりと雖とも如何せ

ん數百年の宿弊一朝にして洗除すべからず漸く舊來の習慣を忘れて新知の良法に從ふの跡

なきにあらずと雖とも未た以て日本の商業を一新するに足ふず他の農工二業に比して尚ほ

大に讓る所あるを免がれざるなり

内國の商業既に斯の如し海外の商業に關するものに至りては無論見るに足るものあるべか

らざるは我輩の豫期する所なりとは云ふものゝ其不振幼穉の實况を目?する毎に其太だ甚

たしきに驚き未た甞て浩歎せざるはあらざるなり日本の農業固より完全なるにあらず西洋

文明の知識を以てこれに改良を加へば尚ほ幾層の上進を見るべきや疑を容れずと雖とも然

れとも此一事を以て日本現時の農業を拙劣至極のものと斷するは大なる間違なり日本の農

業既に固有の美あり此上大に改良を加ふることなきもこれを文明國の農業なりと稱して决

して愧る所なかるべし又日本の工業の如き是亦無論不完全なるものにして其改良を加ふべ

き新に起すべきもの枚擧に遑あらずこれを其隣次の農業に比すれば更に一層の劣位に在る

ものと云はざるべからず然れとも日本亦固有の工業や〓にあらす唯當代文明の〓〓〓稱す

る銕の一〓〓〓〓〓分〓〓や〓他の文明の技術に於ては間ま或は西洋諸國の人を驚かすに

足るへきものなきにあらす銅器漆器陶器等の如きは其最も著しきものなり故に今日本國の

有樣を通觀するに其農業と云ひ其工業と云ひ其固有の熟練のみに依頼するも隨分盛大なる

貿易を維持し得べき資力なきにあらず况や西洋文明の輸入以來我が短を捨てゝ彼の長を取

り或は新に起す所ある等農工業の盛大を計畫するもの實に少なからずして次第に改良繁盛

の傾向あるに於ておや日本は决して貿易の材料なきを苦まさるへし然るに今顧みて日本の

商業を見るに其不振幼穉なる實に驚くに堪えたり農工業はこれを西洋諸國と比するも尚ほ

幾分か其地?を有ち貿易の資たるを得べき地位に在りながら獨り商業に至りては决して然

らず纔に封建割據の箝制を脱し得たるのみにて未た大に其力を舒るに至らずこれを彼の西

洋諸國の商業に比すれば其優劣幾等の差異あるやを知るべからず其外國貿易に属する部分

の如きは唯外國人の自から來て賣買するに一任し内國人は唯其成を仰いて喜憂するのみに

して其全務に干預せんと企る者あることなし斯の如くにして改むることを知らざれば仮令

日本の農工業は何樣の盛大に達することあるも以て國を富すの道たること能はず徒らに國

民のために勞苦を買ふの具たるに過きざるべし國の憂これより大なることなかるべきなり

今日本の貿易商人なる者は他の種類の商人に比すれば頗る怜悧活?にして世界の事情に通

曉すると稱する人々なり然るに其實際に就てこれを察すれば决して怜悧活?ならず决して

世界の事情に通せず依然として封建時代の古町人なる者十中の九は皆然りと爲すなり例へ

ば本年三月米國政府が濫製茶の輸入を禁止するの法令を制定したる以來橫濱神戸等の外國

商人が茶の吟味を嚴にして妄りに買入れざるを見て日本の茶商人は大に喫驚し米國にては

日本茶の輸入を禁止した〓なとを狼狽の餘急に轉業を企る者ある等茶商?に製茶人社會の

慌恐一方ならず〓て又自から招く所の損失實に容易ならざるなり若し貿易茶商人等にして

米國に支店を有するか或は米國の商店と平時通信してあるか或は平時米國の新聞紙を〓讀

してあるか或は單に日本の新聞紙にても熟讀しあらんには斯る無用の狼狽のため大損失を

招くが如きことはあらざるべし然るに今此狼狽あるを見れば此商人等の平生推て知るべき

なり又近頃安南事件に顯し淸佛の葛藤漸く切迫し或は淸佛の戰爭にも立至るべきを見て日

本の生糸貿易商等は頗る憂懼の色あり我輩これを訝りて其理由を叩くに彼等曰く淸佛戰を

開かば日本の生糸は忽ち〓〓を失ふべし十年以前普佛戰爭の時の例を以て知るべきなりと

然るに彼等殊に知らず十三年前の戰爭は佛國を戰塲としたるものなりしが故に同國の工業

は一切中止し里昻の工塲に日本の生糸を要せざりしは勿論全歐洲の商况に大影響を及ぼし

遂に日本の市塲にまで波及したりと雖とも今回は然らず其戰塲が安南ならざれば淸國に於

てこれを〓きために淸國より生糸の輸出六け敷して歐米市塲の生糸相塲を引上くるの傾向

あるもこれを引下くるの恐はなかるべしこと云ふことを普佛戰爭以來の貿易商にして其〓

る所斯の如し其他の商人は推して知るべ〓なり我〓〓の貿易は斯る商人の手中に在り果し

て斯の如くにして〓續せんには仮令貿易の金〓は何程に增加するとも以て國を富すこと能

はず偶ま以て日本國民のために勞苦を買ふの具たるに過きざるべきなり我輩豈にこれに寒

心せざるを得んや