「公債証書の騰貴」
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本文
公債証書の騰貴
近來公債証書の價頻りに騰貴して七分利付金祿公債証書額面百圓に付時價八十七圓以上に
達したり世上或は此商况を見て日本の公債証書は次第に國民の信を得て斯の如し、証書の
騰貴は即ち國民が政府を信するの証として見る可しなど公言する者ありと云ふ我輩は此言
を聞くに付て少しく鄙見を陳べざるを得ず事固より近淺なる問題にして敢て大方の聽を煩
はすに足らずと雖とも廣き江湖には無識の人も亦少なからず証書の時價昻低に際して何等
の勘辨もなく唯其騰貴するを見て貴しと思ひ其貴きは百年も貴からんと妄想して爲に自家
の財産を進退する者なきを期す可らず敢て鄙見を陳る由?なり
公債証書の騰貴は國民が政府を信するの厚きが爲に非ず前年始めて証書なるものを政府よ
り發行したる其時には或は信不信の意味もなきに非ず之が爲に非常なる相塲を現はしたる
こともありしかとき此惑迷は一兩年の間に消散して爾來今に至るまで如何なる人民にても
証書に付て一點の疑念を懷つ者なし其これを信するや紙幣を信して之を通用するに異なら
ず本年の一月頃には七分利付公債証書の價凡七十圓少餘なりしものが僅に七八ケ月を經て
今日に至り八十七圓餘と爲り七十に付十六七即ち凡二割五分の差を生したるを以て國民が
政府を信するの証と爲すは明治政府は八ケ月の間に二割半の信を增したりとの意味ならん
と雖とも無稽の甚しきものと云ふ可し我輩の所見にては本年一月より政府に向て新に一毫
の信を增さず又一毫の信を?せず其これを信するは公債証書發行の時より今日に至るまで
終始一の如く曾て變化したることなし江湖の人々も亦必ず我輩と同意ならん同意なればこ
そ証書を抵當にして金を貸借し數年來常に之を疑ふたることなく又これを信するの度を深
淺したることなきに非ずや左れば証書の價の昻低は以て政府を信するの民心を測るに足ら
ざるなり
然は則ち近日其頻りに騰貴するは何ぞや商况不景氣の爲に商人等が進取の氣を失ふて萎縮
したるが故なりと答て可ならん紙幣次第に下落して物價次第に騰貴するの時に當ては商人
等が何品を仕入れても曾て損亡を覺ることなし或は銀貨を標準に立てゝ計算したらば特に
大に失敗したることもあらんと雖とも紙幣の數を以て計れば常に勝利ならざるはなし例へ
ば百圓の品を仕入れたる時に銀貨の價百三十圓なりしものが二ケ月を經て其品物を百十五
圓に賣捌き一割五分の利を見たり然るに其賣捌きの時には銀貨の價騰貴して百六十圓と爲
りたれば其實は五圓餘の損なれとも紙幣の數に於ては相違もなき十五圓の利益なるを以て
實に失ひながらも名に欺かれて一時商賣の大景氣を催ふしたるものが其極度に至て忽ち反
對の症を現はし全國一般漸く不景氣の風に吹かれて此風と共に銀貨の價も亦頻りに下落し
品物を仕入るゝ者は毎に損亡を見ざるはなし仮令ひ賣買上銀貨を本に立れば損ならざるも
通貨の數に於て着々失敗し之が爲に國中破産したる者は殆と其數を知る可らず是に於てか
商人等の勇氣は一時に挫折して苟も財産ある者は其財産を品物にするを好まず品物を仕入
れ又工業に資本を卸して諸品漸落の禍を蒙らんよりも寧ろ無爲にして失ふなきの優れるに
若かず况や銀貨の下落紙幣の上騰は今日を以て明日を期す可らず政府も亦紙幣の下落をば
頻りに苦慮せられて或は頓に如何なる發令ある可きも測り難きことにして今日の物價既に
下落したるが如くなるも今後銀紙の差を思へば尚二十餘錢の危險あり容易に手を下たす可
らずとて恰も二十餘錢の危險に嚇されて一?の運動を逞うするを得ず唯今日一品を仕入れ
て明日これを賣渡すの謀を爲すのみにして商法上見込の品を仕入れて半年又一年の利益を
期するが如き者は全國地を拂ふて一商家あるを見ず既に品物を仕入るゝが爲に金を要せず
此金を空しく庫中に積むも亦忍ひざる所なれば窮策ながら公債証書を買ふて薄利を得んと
するの人情を催ふし遂に今日証書の騰貴を致したることなり七分利付の証書を八十七圓に
て買へば其利子一年八朱に過きず固より日本商人の甘んずるものに非ざれとも八朱も尚な
きに優れりと云ふまでのことにして若しも一旦商况の機を變し或は政府より紙幣兌換の令
を發する歟又は其價格を動かす可らざるものに確定する歟又或は商機變轉して銀貨上騰の
勢を催ふす歟何れにも是等の變動よりして少しく商况の恢復を致し商人の資本を商賣上に
用るの端を開くときは一時公債証書に姿を變したる通貨は忽ち商人の手に復りて活?の働
を爲す可し即ち公債証書下落の時なり但し其時節到來の期は我輩の明言し能はざる所なれ
とも事の始末は大に違ふものなかる可しと信するなり
以上記したる次第なれば目下公債証書の騰貴は國民が俄に政府を信するの由?に非ず唯商
賣不景氣の徴候として見る可きのみ其賣買の常に強氣なるは商人工業家の窮策に出たるも
のなり日本國民に資本の豐なるを表するに非ずして商賣不繁昌工業衰微の實况を示すもの
なり之を譬へば身体の強壯平に復して腹痛の止むあり又或は体力衰?して腹痛をも覺へざ
ることあり〓に之を皮相すれば〓ながら腹痛なしと雖とも其原因は則ち正に反對なり今の
商賣不繁昌工業衰微の爲に証書の騰貴するは体力衰へて麻?したるが爲に腹痛を覺へざる
の類ならんのみ