「李鴻章の辞職」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「李鴻章の辞職」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

李鴻章の辞職

支那は東洋の古國にして人民多く土地廣く世界無比の大國なり盖し支那は斯く人民の多を

有し土地の大を保つが爲めに却て其法を布き政を施すに常に望洋の歎あるを免かれず北京

を始め天津上海廣東等苟も外國人の輻輳する土地の周圍は人民聊か文明の光曙に向はんと

するの傾なきにあらずと雖とも漸く僻地邊隅に至るに從ひ尚ほ蠻風汚俗の見るに忍びざる

者少なからず殊に政令周ねからざるがため違境の頑民等?々党を組み徒を集め反旗を翻へ

し竹槍を弄ぶ者常に絶えず斯かる事の次第にして治民の〓を施すに常に其障碍を見ざるな

きの有樣なるが上に中央政府枢要の位地に立ち政權を左右する政治家の人物如何を顧みれ

ば一応唯孔孟の敎を奉信し〓〓政治家の本色を具て毫も文明の赴を知らず宇内各國の大勢

を辨へざる者滔々皆な然り獨り李鴻章は流石に東洋の一大俊傑と稱せらるゝ丈けありて内

乱紛擾、外交有事の際と雖とも廟堂の高きに立て着々之が處分を下し内は上下億兆の平和

を維持し外は帝國の対面を汚がさゞらんことを勉め支那全般の休戚に關し己れ自から其責

に任したるが如く然り固より李鴻章とて一個の支那人にして日新文明の思想に至ては尚ほ

甚だ乏しきや疑を容れずと雖とも博聞廣採事の宜しきを察して能く大膽政略を决行するの

一点に至ては彼の滿洲出身の文武員等が戰勝の餘威に藉て顯要の地位を擅有し階前万里城

門の外を知らず專制抑壓を以て治國の秘訣なりと信する者に比して其優劣固より論を俟た

ず我輩之を久しく支那に遊びたる友人に聞くに李氏は實に支那の要軸にして或は李鴻章は

即ち支那、支那は即ち李鴻章と云ふも不可なかるべく支那政府の外交政略は則ち李氏の意

思にして李氏の一私見は支那の國是とする所を見るに足るべし故に外交上の問題等に關し

て支那の擧動を認定せんと欲せば唯李氏一人の意見動止を見るを以て足れりとすと又以て

同氏が支那全國に對する關係如何を見るに足るべきの評語なりと云ふべし

先頃安南事件の起るや李鴻章は會ま母の喪に丁りて安徽省令肥後縣歸郷中なりしにも拘は

らず自から意を决して上海に來に佛公使トリクーと談判を開きたること前後數回なりしも

李氏の首尾甚だ宜しからずトリクーの爲に頗る輕侮せられたるが如き樣子あり李氏も亦意

の如くならざるを憤りてや遂に斷然上海を去て再び天津に歸るべきに决し其夜直ちに上海

を解纜するに至れりとは當時我輩が上海よりの通信に依て聞き得たる所なり我輩は此説を

聞き又李氏が去月九日無恙天津に歸着せしとの再報を得て李氏は此上先づ北京に到り佛國

公使と談判の摸樣をも皇帝陛下に奏上し尚ほ内閣諸大臣と協議する所あるなるべしと窃に

想像し居たるに其後今に至るまで北京へ赴かざるのみならず頻りに歸郷して尚ほ母の喪を

守らんことを奏請し辞職の〓を懇願すること再三に及び遂に淸國皇帝より淸暦六月十八日

我七月廿一日を以て左の諭旨を下たさるゝに至れり

李鴻章奏して下請を瀝陳し成命を収回せんことを請ふ情詞懇切にして至誠に出つ伏て請ふ

所の如くすへきなれとも惟だ幾輔の重地、一切の吏治民生防軍水利のこと均く緊要に關す

李鴻章在任年あり辨理周妥なり是を以て特に諭旨を降しそれをして直隷總督を署理し兼て

辨理北洋通商事務大臣の事を署せしめ一に權を以て行はしむ此際特事多く〓み朝廷の〓任

人を需つ故に該署督〓だ〓に〓〓焦勞の意を〓き休し孝を移〓忠を作し勉て〓稱を圖るべ

し仍て前言に〓ひ〓く辞することを得る勿らしめよ

然るに李氏は尚ほ強て辞職を奏請して止まざるに依り淸帝は又同月廿四日(我七月廿七日)

を以て再ひ左の諭旨を下たされたり

李鴻章仍ほ成命を〓回せんこと懇請す詳に其意を領す願ふに從前の大臣孫如嘉金朱軾〓曾

〓?炳于敏中曾國藩胡林翌等皆な旨に遵て任に在り以て喪を守る誠に事の緊要に關するを

以て權を以て辨理せざるを得ざればなり上年李鴻章奏を開?、喪を終るを請ひたり時に此

意を將を剴切に宣諭したり該署督惟だ當に國事を以て重しとなし力て艱難に任すべしその

已むを得ざる苦衷は自ら天下後世の共に諒知せらるゝ所となるべし即ち旨に遵び事に任し

て再辞を得せしむる勿れ

斯く皇帝陛下より優渥なる勅諭を賜はること已に再度なるにも拘はらず李氏は尚ほ一途に

辭職を思ひ立ちたるや又政府は遂に其奏請する所を許すや否我輩の與り知るを得ざる所な

りと雖とも若し李氏にして一朝其職を罷めて全く政機に興らざるに至るときは後來支那全

般の休戚に關する盖し少小にあらざるべきを信ずるなり何となれば前條にも言へる如く李

氏は實に支那の一大骨髄にして支那の尚ほ今日の体面を存するを得る者氏の力與かりて大

なりと言はざるを得ず斯かる重要の位地に立ち實權を左右する李氏其人にして斷然勇退、

郷里に風月に其餘命を終らんには支那全國は是より漸く外交上に於て非常の困難を見出す

のみならず或は内地の四邊暴民蜂起して制壓すること能はす常に内に顧みる所あって外に

失ふ所あるべく支那全國の運命誠に思ひ遣らるゝものあるなり固より我輩は唯李氏の一辞

職以て直ちに支那の衰運を招き内乱起るべし國力?すべしと斷言するものに非ずと雖ども

支那は未た衆智を集て執るの政体にあらずして尚ほ拔群の一豪傑が專ら政柄を左右するの

組織なり而して衆智政治に在ては一政治家の存亡は社會全般の消長に關する所なく豪傑政

治に在ては其豪傑の進退を以て普く全國の氣運に影響する所あるを免ぬかれさるは古今の

事實に徴して明かなり去れば今支那の骨髄たる李氏の辞職は實に支那後來の氣運に關する

所少なからずと言ふも敢て不可なかるべく况して目下歐洲諸強國が常に眼を東洋に注ぎ何

が〓事を起して得る所あらんと心搆への最中と云ひ殊に淸佛葛藤の談判も未た其何れに决

するや計り難き折柄に方り若し一國の精神たる李氏にして斷然辞職することもあれば支那

政府の損する所决して少小ならざるべしと信す何には兎もあれ李鴻章の辞職は實に支那一

國の休戚に關するのみならず東洋一般の氣運に關する所も亦决して少なからざるべし