「政治社會の風説」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「政治社會の風説」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

政治社會の風説

伊藤参議が歸朝したるに付ては大なり小なり何か廟堂に新事相を呈出することあるべしと

は同参議が未だ歸朝せざる前より既に歸朝後の今日に至るまで我政治社會の人の?ねく豫

期する所にして三人相會すれば其言必ず政治上の未來記に及ばざるなし盖し伊藤參議は憲

法取調御用を以て歐洲に渡航し一ケ年餘の滯在に右御用も調ひたりとの噂ありて本月初旬

に歸朝したるなれは是よりして何事か新に出て來ることあるべしと豫期するは元と人情の

常なるべし

既に豫期する所あれば隨て其出來事を想像し伊藤君は參事院議長に任せらるゝならん今の

參事院議長山縣君は參謀本部長に任せらるゝならん否伊藤君は内務卿に任せらるゝならん

今の内務卿山田君は洋行するならん否伊藤君は外務卿に任せらるゝならん今の外務卿井上

君は洋行するならん否伊藤君は憲法取調の新事務を擔任するのみにて他の省院の長官に任

せらるゝことはなかるべし曰く何に曰く何にと甲唱へ乙和し〓説區々にて其信僞を辨すべ

からず必竟するに自家銘々の臆説を逞うして政治社會の談柄に供するに遇きざるものたる

べきが故に世人も亦これを聞て格別念頭に掛くる者もなかるべき筈なれとも廟堂の事は仮

令些少の變革と雖とも其影響する所决して少小ならざるを以て苟も政治の思想あらん者は

未た其説の信僞を糺すに遑あらず先つ其影響如何等を討求し一塲の論談を催すに至るは是

亦當然の事なるべし我輩固より廟議の如何を知らず又これを洞察するの明なきを以て伊藤

君の宮務に關し區々たる政治社會の風説中其孰れか信にして孰れか僞なるを判断すること

能はざるは無論なりと雖とも單に我輩の想像のみを以て諸説の其事實に適否如何を推尋す

れば亦必ずしも一切見る所なしと云ふを得ざるなり盖し伊藤君が參事院議長に任せらるべ

しと云ふの説は同君が去年歐行前の舊地位たるが故に舊に復するは尋常の道なりとの意よ

り出てたるものなるべし此説固より穩當なり其坐を讓らざるべからずと云ふの理由はなか

るべし左すれば伊藤君が參事院議長に任せらるべしとの風説は或は其實を失ひしものなる

やも測るべからざるなり又伊藤君が内務卿に任せらるべしとの風説の如きは其以前君が内

務に在りて名聲高かりしを以て昔を懷ひ今を顧み内務卿として官民調和の大任に當るは實

に君の得意とする所なるべしとの意よりか或は當時兵傭擴張の折柄山田君は兵事上の取調

御用として洋行するならんとの意より出てたるものなるべし果して伊藤君の昔を懷ひ今の

兵傭擴張の急を見るとするも山田君去て伊藤君これに代るの要否を斷することは頗る難事

なるべければ此説も亦或は其實を失ひしものなるやも測るべからざるなり又伊藤君が外務

卿に任せらるべしとの風説の如きは前諸説に比すれば更に一層の臆説に属するものたるか

を疑はざるを得ず伊藤君は久しく歐洲に在て各國政府の内情にも通曉したるなれば外務卿

こそ其適任ならんと云ふの意よりか或は井上君は自から奮ひて條約改正の大任に當り其事

未だ成らざるを以て今の時に當り外務卿の資格にあらず公使の資格にあらず一個日本大臣

の資格を以て各國を遍?し間接に盡力する所あらんがために洋行するならんとの意よりか

左なくば外交の事務に熟達するがため遣外公使は其適任なるべしとの意より出てたる説な

るべし今俄に井上君去て伊藤君これに代はるの要も勿るべければ此風説も亦其實を失ひし

ものたるやも測るべからざるなり又伊藤君は憲法取調の事にのみ專任し他の省院の長官た

ることなかるべしとの風説に至ては無事太平の當節柄甚た穩便適當のものなりと評せざる

を得ず君の歐洲に航したるは憲法取調等のためなりと云へり今日歸朝に付ては最早一切其

事務を卸して可なりと云ふにてもあるまじく必ずや是よりして更に又大に取調ぶる事もあ

るなるべく决して閑散無聊の人にあらざるべし勿論君の才を以て憲法取調の事務に兼るに

他の省院の事務を以てすること甚だ容易至極なるべしと雖とも目下兼務の必要なき限りは

專ら一事に任するの便多きに若かざるなるべし左すれば伊藤君は憲法取調を專務とするな

らんとの説は或は其實を失はざるものなるやも測るべからざるなり此外伊藤君は右大臣に

任せらるゝならん伊藤君は參議長に任せらるゝならんなど政治社會の風説愈出て愈奇なる

もの枚擧に遑ならざるなり盖し右大臣參議長等の風説の如きは伊藤君が歸朝に際し恰も岩

倉前右大臣の薨去ありしを以て政治社會の風説漸く錯雜を加へ遂に常人の意想外に出るも

の多きこととなりたる故なるべし

以上我輩が東京政治社會に就て聞き得たる目下流行譚の一二例なり畢竟するに政治社會の

風説なるものは當るも八卦當らすも亦八卦たるの性質を免かれざるものたるが故に其孰れ

か信にして孰れか僞なり孰れか實に近く孰れか遠き等の評の如きは讀者の自から擇ぶ所に

して其果して孰れか當る八卦なりしや讀者亦自から從來の實事に徴して承知せらるべきの