「文明を致して文明に致さるゝこと勿れ」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「文明を致して文明に致さるゝこと勿れ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

文明を致して文明に致さるゝこと勿れ

凡先處戰地、而待敵者佚、後處戰地、而趨戰者勞、故善戰者、致人而不致於人、と是れは支那戰國時代の兵家にして而かも彼國にて尤敬崇せらるゝ孫子の語なりされば今日の世界に於て此語敢て兵家の要訣と生すべきにあらざるも其能く兵勢を論して主客の勢いを説く亦取るべき所なきに非ず其意謂わく凡そ戰争をなすには勝利あるべき戰地を擇び敵の陣取をなさぬ先きに此方より陣を取り備を立てゝ以て敵の來るを待ち受るときは味方の兵は安佚にして些の骨折もなく其支度も緩々出來ることなり而して其勝利あるべき戰地を敵に取られたる跡から俄かに其戰に趨く者は匇々にして其支度も能く出來ず辛勞太だ多きこととす右にて主客の別早く分れ勝敗も數も亦豫め知らるべしそれ故に善く戰ふ者は人を致して人に致されずと謂へり、人を致すとは人を此方に引付け我意の如く自在にすることなり人に致さるゝとは彼方に引付らるゝことにて致されずとは即ち其反對にて彼方に引付けられず人の勝手にならぬことなり、我輩は今此語を以て腕力闘争の事に適用せんとするに非ず一時仮り來り平和の戰争即ち文明侵略の計〓に充てんとするものなり

我輩倩全世界の景況を觀察して其形勢を大別するに西洋は文明を致して文明に致されず、東洋は文明に致されて文明を致さず、概して云へば西洋先〓處を東洋後に處〓西洋は致すものにして東洋は致さるゝものゝ如く主客の分あるを以て今東西相争はんとするには勞佚の差頗る大なりと云ふべし但文明なる者は素より東西洋の別あらず一視同仁に各國々民の取捨如何に任するものなれば深く憂るを須ひす只其れ進んて取ることあらんのみ夫れ文明は慕ふて之を尚ぶべく愛して之れに親しむ可く進んて之を取るときは其恩徳殆んと際涯なきものなり然れども若し之を嫌ひ之を忌み或は故らに之を拒絶せんとするも其向ふ所は天下に敵なく日に進み月に隆んに歳月流れて人を待たざると一般直行前進して少しも猶豫することなく其勢力甚た畏る可きものあり故に何れの邦國にても國民たる者文明を致して國内に普及せしめ大に之を利用するときは其邦國愈開けて其國民も亦愈幸福を教授するを得べし若し國民たる者文明を利用することを知らず却て文明に致されて彼運動に伴ふこと能はず又更に推進壓倒せられなば困頓狼狽轉た不幸を蒙ることあらんのみ此塲合に於ては国土獨り文明の境界に變し去り其國民は可憐の状態に陥らんとす試みに東インドの實况を觀察すれば以上陳ぶる所の架空の言にあらざるを知るに足るべし彼國一たひ文明人種の占據する所となりてより土地日に拓け物産月に殖し人口次第に増加し鐡道、電信年々に延長し製造所の創立、埠頭の修築又歳々之を見ざるはなく船舶の出入商買の景况一として隆盛ならざるなく近年に及ては殆んと歐洲の市塲を動かすに足る程に至り舊時の面目全く一變して東洋新たに一文明の程度〓かに高しと謂はざる可からざるなり然りと雖ども其舊主人なるインド國民は歐洲人の〓厄を受け一國の政權も半ば奪領せられて獨立國の體面を缺損し常に外客なる文明人種に虐待苛遇せられ毫も文明の餘澤を蒙ること能はずして日に貧困沈淪の境遇に陥るものゝ〓し是れ則ち主客の勢彼此顛倒して彼れは先きに處て主となり此れは後に處て客となり竟に其文明を致さずして文明に致されたるの果報なり、人或は文明國人の印度國民に對する状况を視て彼れは無道なり不仁なりと評し罪を文明國人に歸するものありと雖ども頗る謬の甚しきものと謂ふべし蓋し文明國人の威力を振ふは先つ戰地に處て主座を占め亦善く文明の器具を利用すればなり若し文明國人をして文明の器具即ち蒸氣、鐡道、電信其他有力有益の器械を放擲せしめたらんには餘す所幾何もあらず赤手空拳安づ獨り文明の人たるにあらんや乃ち無道を施し不仁を行ふは文明國人にあらすして其罪却て文明の器具にあり、文明の器具に有らずして實は文明の器具を用ひざる印度國民其人に在りと謂はざる可からず畢竟印度國民が今日可憐の状况に陥りたるは早く勝利あるべき地形を擇び敵の陣取をなさゞる先きに此方にて陣を取り備を立て敵の來るを待受けざるに由るものにして其敗亡に瀕し勞役に沈むも亦甚た怪むべきに非ざるなり

印度は東洋の一部なり一部の一國文明に致されて他國の附庸隷属となるも未だ東洋全面の輕重をなすに足らざるが如しと雖ども又顧みて東洋亞細亞の一大國なる支那を見るも亦甚た前途に憂慮すべきものあり該國は西洋諸國と交際日淺きにあらざるも未た甚た親密なるに至らず全然舊世界の状態を保存して獨り自から尊大にし更に進んて文明の器具を採用することをなさず(近來砲臺を築き軍艦を購ひ兵器を造り電線を架するが如き稍進取の計あるにせよ)其内に備る所未た全く整はず一も文明を致すの計あらず故に其國富強ならず其民活潑ならず其業昌盛ならざるなり今や印度の如く政權を奪はれて外人の爲めに虐待苛遇せらるゝに至らずと雖ども其他國の侮を受け國權を削らるゝもの少々にあらず但其甚しきに至らざるものは外國の交際未た親密頻繁ならずして當代文明の波動切に感觸せず且其境土廣大なるが爲に普く各地に波及するに至らざるを以て一時の僥倖偸安の眠を貪るに過ぎず今後交際愈親密を加へ徃來愈頻繁なるに及ぶは理勢の當然なるに尚ほ保守自重の計を維持するときは早暁文明の侵畧を免れずして印度の覆轍を履むに至るも亦未た知る可らざるなり支那四百餘洲の男兒夫の孫子の語を忘れたるか〓を之を知るも遂に活用する能はざるか (未完)