「在東京の清佛兩軍開戰す」

last updated: 2019-09-08

このページについて

時事新報に掲載された「在東京の清佛兩軍開戰す」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

在東京の清佛兩軍開戰す

昨日の官報に登〓する去る十七日上海發の電報を見るに在東京の清佛兩國の兵は彌々開戰に及びたるを知るべし其電報左の如し

 九月十七日午後十二時廿分上海發電報

本月一日二日の両日佛軍千五百の兵を以て清兵四千人を「ポーン」に撃ち大にこれを敗る此役や清兵奮闘し死傷甚た多し聞く所に據れば其將亦傷を被り安南の將は戰沒したりと又黒旗六旒佛軍の獲る所となれり尋て佛軍は野營を敷き「パラン」に進めり

此報知に依れば東京は既に清佛兩軍の戰塲となりたること甚た明白なり清佛の間には未た宣戰の披露もなきに突然此交戰あるを見れば其性質の公使孰れに属するやも分明ならざる嫌ありと雖ども然れども又清國が平素の擧動よりして察するときは堂々たる大國同士の開戰も大抵皆此樣の事よりして漸くに其歩を進むるを例とするが如し

回顧すれば千八百三十九年より四十二年まて引續きたる彼の鴉片戰争の如き又千八百五十九年太沽砲臺にて英佛使節を要撃し翌年兩國聯合の兵北京を陥る迄の戰争の如き一も公然宣戰の手續を踐まず最初は唯一地方吏員の専斷私闘の姿なりしもの何時か變〓双方の間の公戰となりたる趣あるが如し近くば伊犂地方にて清魯兩軍交戰の時の有樣を見るべし將軍佐宗棠は數万の大兵を率ひて該地に駐在し「ヤコブ」汗を征討するの傍に境上の魯兵とも戰を交へ其結果は終に清魯兩國間の伊犂葛藤なるものとなり明治十三年の末魯國海陸の大兵支那海に集合し來り今にも北京城を衝かんずる勢を示さるゝに至りて急に和を講じ魯兵を退けたることあり此等の先例を見るに支那政府の料見にては両國の開戰に宣戰などの儀式は不用なりと信する者と云はざるを得ず其有樣を形容すれば狡猾老譎の一翁あり大に其隣人に〓せんと欲すれども公然他と角闘するの勇なし依て竊かに家人に吩咐し夜陰牆を踰へて隣家の庭園に入り其花卉を伐り蔬菜を蹂躙せしむることあるに隣人は其乱暴に驚き急に來りて主人に對面し事の次第を訴へて大に詰責する所あらんとすれば主人の言容悠々平日に異ならず或は平日二倍にして慇懃忠篤なるが如し今客の言を聞くに至りて始めて驚愕の体を妝ひそは以ての外の大事なり早々家人共を取調べて嚴重に沙汰致さんなどゝ前に向ひては言を盡して陳謝慰諭し後を顧みては家人を督促して益其乱暴を急にせしむるが如き趣あり斯る塲合に際しては此隣人たる者公然喧嘩の挨拶を待たず我も亦我家人を催促して庭園に押出し力を以て此乱暴人を取押へ時宜に由りては隣翁の禿頭に一拳を加ふるの外に工夫なかるべし

今東京屯在の清軍は果して何人の命を奉し進退するものなるか北京政府の派遣する所か両廣又は雲貴總督などの命令する所か或は總督などもこれを知らざる〓〓〓術の脱走兵なるか無頼の勇丁隊なるか固よりこれを審にすべからず本月六日倫敦發の電報に清軍一万五千人境を踰へて東京に入りたり佛國政府は強大の援兵を東京に送ることに決したりとありしが両三日前香港より達したる英字新聞を見るに此電報を載せ且つこれに附記して此清軍入越の件は無根の説なるよし清國政府の公言する所なりとあり然るに今日に至り東京に於て四千の清軍佛軍のために敗られたりとの電報到來するを見れば清國政府の公言あるにも拘はらず兎に角に一種の清軍當時東京の境に入りたるに相違なく倫敦の電報は信に近きものなりと云はざるを得ず清軍既に境を踰へし以上は佛國政府が更に援兵を送らんとするも亦必ず事實なるべし佐すれば今回の東京紛議は佛人と黒旗兵との闘争に止らずして佛蘭西安南両國の間に敵戰することとなり安南は氣の毒にも忽ち其國都を攻落され純然たる佛國の属邦となるの後今日は遂に清佛兩國の間に交戰の端緒を開かしむるに至りたるものなり今より以後は事態何樣に變更して何樣の結果を生すべきやこれを豫言すること甚た難しと雖ども今日我輩の見る所に依れば在東京の佛軍は清兵を追撃して漸く雲南の境に迫り或はこれを踰へて内に入ることもあるべく其騒擾漸く雲貴両廣地方に傳播する此に佛國よりの新援兵も來着して兵備既に整頓を告くるときは南方は唯其守備を嚴にするのみに止まりて別に海陸の諸軍を部署して北京を侵撃するの策を定むることなるべし此際清國政府にして英國などの中裁を承認し謹て和を講し土地を割き償金を賂て佛國の要求に應することもあらば一應此局を結ぶことを得べしと雖ども若し其計急に此に出でず飽くまて春秋戰國時代の舊筆法を襲用して老譎奇恠の外交法に因らんとせんには遂に何樣の禍を惹き出ずべきや知るべからざるなり