「東京府政の方向」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「東京府政の方向」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

東京府政の方向

東京府知事芳川顯正君が今の職に任したる以來一年有餘此間君が赫々の治蹟府民の目に燦然たるものを擧けてこれを計へんとするに其數尚ほ未た甚た多からざるが如く然り君の才能にして加ふるに多年吏務の經歴を以てす即ち老練に兼るに活潑の才氣を以てするものなれば百事進取創始を要するの今日我大日本帝國の首都東京府政の局に當りて爲すべきの事業擧くべきの治蹟決して少なしと云ふを得さるべし干將莫耶も其時に遇はず空しく厨下の菜刀と相伍するの日に於ては人をして其利鈍を知らしむべき方便なしと雖ども一旦蟠根錯節の我面前を遮るに及びては辭譲に及はず直ちに利器の利器たる所以を明示して差支はなき筈なり今君は莫耶の利器を抱持して東京府政の蟠根に當りたり其利を示すに於て何の遠慮かあらん我々府民は赫々の治蹟を膽望することの甚た久しくして何ぞこれを見ることの甚た遅延なるや盖し芳川君は其本官内務少輔にして東京府知事を兼務するものなれば其心自から府政に専らなること能はざる事情もあるべく殊に去年以來集會條例、府縣會規則、新聞條例等の改正に由り全國内務の料理法にも大に心思を勞するに足るべきことなきにしもあらざりしなるべく顧みて一方を見れば銀米〓所税、煙草税、酒造税等の増額に軍備擴張等の急務あり此等は元と調節に内務に關係なしと雖ども其實施上各地方官吏の奔走盡力を要すること集會新聞の諸條例府縣會規則等に異ならず隨て内務の事務の多端なりしは盖し近年に比類なかりしなるべし若し事實の如くなりしならんには芳川君が内務の本務に當たるの傍に東京府政を料理するは其繁勞實に常人の堪えべからざるものありとして我輩は赫々の治蹟を見ること尚ほ未た甚た多からざるの前に先つ其才能の抜萃なるを賞嘆せざるを得ざるなり

然るに近日東京府政の向ふ所を見るに大に從前と其趣を異にし専ら我府民の福利を増進するの傾あるが如きは我輩の竊かに欣喜して措かざる所なり東京府の政は東京府民の噴くるを増進するの外に目的あるべからす此目的を目的とするは今昔共に同一にして聊か變更する所なきは勿論なりと雖ども百般の事務其間自から緩急の別なきを期すべからさるを以て其急にすへきを急にし其緩にすべきを緩にするは同一の政務中にても府民の福利を増進すること最も大なるものなりと云て不可なかるべし今や東京府知事は東京灣の澪筋を浚へ商工業會を設立する等の事に盡力して只管東京の繁榮を増進することに熱心せり是則ち我輩かこれを賞讚せさらんと欲するも能はさる所以なり

東京灣の遠淺にして大船の陸地に近つくへき方便なきと仮令或は進入し來るも大都の下一の埠頭もなく船渠もなきときは東京全都の商工運に關すること實に少小ならす東京にして其澪筋の水深く船渠埠頭の船舶繋泊荷物揚卸に便なるものありとせんか何ぞ七里外の横濱を以て輸入品必由の門と爲すを要せん何ぞ品川の沖に停船して東西南北の風浪に暴露するを要せん此時に當りては二三千頓積の大洋航行の内外滊船より數百石積の内海往復の各種商船に至るまて直ちに來て二十万戸の門前に輻湊し一日千艘來る船あり去る船あり商機の活潑各業の繁榮實に今日に幾倍すへきや豫め測り知るべからざるべし故松田君玆に見る所あり曩きに東京府知事在職の日に當りて大に東京灣築港の議を主唱し既に測量圖をも調整して其着手成功期して俟つべきが如くなりしと雖ども費額の巨大なるがために其議央にして停止の姿となり遂に今日に至るまで東京百万の人民は折角自家の門前に安全廣潤なる海灣を控へながら以て大に其運輸を便にし以て其繁榮を進むること能はず空しく水波泥土に委して〓婦漁童が蛤貝を拾ふの處となすに過きず實に歎憤するに餘あるものと云ふべきなり然るに今回現任府知事芳川君は本月十日公に東京府會區部員を召集して石川嶋より品川臺塲外に至るまで澪筋浚渫の案を其〓に附したるを以て區部會は直ちにこれを審議し且つ府知事が工費を消却するため入港の船舶に港錢を課せんと云ふを退けて區民の共有金より一切これを辨すべしと決議したり今此澪浚を取て松田君が築港の擧に比すれば其功能の大小固より同日の論にあらずと雖ども然れども是元無きに優るの事たるのもならず目下の急要に應して他日大成の端緒を開くの事業たるが故に府民のためには既に其繁榮の基礎を固くしたるものと云ふを得べし唯願はくは端緒既に開くるの後に空しく退歩することなく飽くまで進みて東京灣築港の偉業を大成せんこと我府民全体の本意ならんのみ又芳川君は既に東京灣の澪浚に着手したるのみならず日本全國の大計上にも東京府民の繁榮のためにも彼の商工業會なるものゝ必要なるを感し去る廿二日を以て府下の商工業者數十名を舊明治會堂に召集して此會の設立に付示諭する所ありしが可否を決するに及びて來會の諸氏は殆んと總起立にて同意賛成を表し直ちに規則等の編制に着手するの運びに至りたりと云へり此商工業會なるものは追ては府下全体の商工業者の意見を代表するの性質を具ふるに至ることあるべく隨て其商業工業兼ては一般の理財上に大に益する所あるべきや論を俟たず實に東京の繁榮には欠くべからざるの要具なりと稱すべし

以上畧記するが如く近來東京府政の方針は専ら東京府民の福利を増進するの各急務に指点するの形跡あるを見て我輩は甚た其冝しきを得たるを喜び現在府知事が赫々の治蹟を見てこれを頌揚するも亦必ず遠きにあらざるべしと信して心竊かに慶賀に堪えず然れども果して東京府民の福利を目的とする以上は其事獨り澪筋浚渫と商工業會とに止まるへからず其關係の重大至極なる市區改良を第一とし前段既に略説したる東京灣の築港あり銕道敷設あり唯今日政府の方針をして永く其指す所を變せざらしめば府民の幸福は足を跂てゝ待つべきのみ