「外交論」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「外交論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

古來世界の各國相對峙して相貪るの狀は禽獸相接して相食むものに異ならず其事實は爰に特に枚擧するに及

ばず此點より見れば我日本國も禽獸中の一國にして時として他に食まるゝ歟又は自から奮て他を食む歟

到底我れも彼れも恃む所のものは獸力あるのみ又歐洲諸國の人民は夙に文明の魁を爲して其人事の進歩したる

ことは迚も亞細亞諸邦の比に非ず學間も盛なり發明も多し其學問と發明の功績は工業商賣兵事等に現はれ

て兵も甚だ強く國も甚だ富むと雖とも國民は尚進て止むを知らず富に績くに富を以てせんとして其競爭

や際限あることなし數百年來今日に至ては歐洲内地の競爭は既に其極點に達し内地には殆ど遺利なき有樣に

して今後財利のために眼を着る所は特に亞細亞洲に在るものゝ如し西洋人が亞細亞の利を網するは今日に始

まるに非ず英國の東印度に於けるが如く其事久しと雖ども近年爰に非常の大變革と申すは歐洲の人が學問

の硏究よりして蒸氣電氣なるものを發明して之を工業商賣又兵事に活用するの一事なり蒸氣機關を以て人間

の需要品を製し又海陸軍の武器を作り蒸氣船蒸気車の便利は幾千里の海陸を隔るも軒を竝べたる隣家に往來す

るに異ならず恰も人體に翼を生じたると同樣にして貿易の繁多にして取引の活潑なる海陸戰爭の劇しくし

取合にても佛人は蒸氣軍艦を仕出して敵國の海口を固め陸地には戰爭の最中にも本國より鐵道の諸色を輸送

して片端しより之を敷設し戰場より政府の訓令を仰ぐには往來幾千里程あるも電信を以てすれば卽刻に辨ず可

し歐羅巴の西なる佛蘭西より亞細亞の東なる安南を攻む昔ならば實に遠征にして我豐太閤朝鮮征伐の類に

あらずと雖ども佛と安と道程の數こそ多けれ其往來の便利にして速なるは日本と朝鮮よりも近く川一隔

たる隣國と戰ふものに等し左ればこそ昔年英國の人が東印度の諸國を滅して其屬地と爲さんとするには種々

樣々の艱難をも冒し永き年月を費して漸く志を達したることなれども今度佛蘭西が安泰南を征伏したるは僅に兩

三ヶ月の仕事にして傍より見れば何の苦勞もなく安々と一大國を落手したるものゝ如し之を昔の英人が印度

を奪取たる骨折に較れば大なる相違と云ふ可し畢竟昔の英人が弱くして今の佛人が強きに非ず唯今と昔と交

通往來の便利を異にして人の働に鈍きと劇しきとの別あるが故なり卽ち昔は蒸氣電信なるものなく今はこれ

あるが故なり蒸氣電信これを名けて文明の利器と云ふ其利器たるや昔戦國の世に在て弓矢槍劍の利器たる

に異ならず永祿天正の英雄が諸國に割據して武を爭ふの其時に當ては弓矢を製し槍劍を作るこそ國の一大事

にして之を製作して又隨て新工風を運らし曾て一日も懈怠したることなし又この弓矢槍劍を巧に用てよく

戰ふ者を武士と名け諸國の英雄は此武士を用ることに怠らず當時甲斐の武田越後の上杉が最も雄なりと云

ふも武田上杉には武器多くして武士も亦勇氣ありしが故なり苟も此時代に一國を領して武器の用意に怠り

武士を敎育することを忘れたる者は一日片時も其國を保つこと能はず忽ち他の凌辱を蒙りて亡國たりしこと

其例歷史に見る可し左れば今日世界文明の時に當り其文明の利器たる蒸氣電信の便利を利用すること何れ

の國が最も巧にして最も盛なるやと尋れば西洋諸國なりと答へざるを得ず英佛日耳曼等が最も雄なりと云ふ

は唯この文明の利器に富て文明の人物に乏しからざるが故なり首を囘らして亞細亞諸邦を見れば利器未だ

利ならずして文明の敎育も亦洽ねからず永祿天正の戰國に獨り武器の用意に怠り武士の敎育を忘れたる者

と云ふ可きのみ而して方今文明の各國が工業商賣の事に遠略征伐の事に互に先を爭ふて油斷なき有樣は戰國

の英雄が武邊の功名を貪るものに異ならず斯る劇しき時の運に際して獨り東洋の一隅に居り雄を世界中に爭

はんとするは決して容易なる事業に非ず日本國中の有識者も無識者も心して今の時勢を觀察せられたきもの

なり我輩決して奇言を吐て人を嚇すものに非ず時勢の危殆なるは拙き筆を以て盡し難き程の次第なれば苟

も國を愛するの精神あらん者は先づ私の心を去り一時多少の不愉快をば堪忍して事の大體に眼を着け以て大

に主義を定められんこと糞望に堪へざるなり                   〔九月二十九日〕