「米國來信抜萃(鐡道と仮名の事)」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「米國來信抜萃(鐡道と仮名の事)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

(前略 當地(米國)にて時事新報を見るに最も悦ぶ可きは東京熊谷間の鐡道も既に落成し又信州越後の地方に於ても有志者の發起にて信越鐡道會社設立の出願近きに在る可しとの二報道是なり抑も鐡道の功用は今更此地より喋々不申上とも郷國諸彦にて飽までも詳悉せらるゝ所なれば多辧を費やさず候得兵近日當地識者の説を聞き又樣々の事情を視察するに鐡道の便利は有形の品物を交通して物價を平均するのみならず無形の言語をも運搬して其平均を得せしむるものゝ如し方今世界中の立國に於て其國中人民の方言即ち國訛の最も少なくして殆と絶無とも可申は當合衆國にして英國これに亞き佛蘭西獨逸の如きも次第に國訛の不便利を輕くする其風潮は正しく鐡道敷設の年月の久しきと其線路の年々搨キする割合に準じて違ふことなしと云ふ亦是れ鐡道功用中の一奇相とも可申歟

我郷國日本は當米國に比すれば土地の廣袤は遙に狭小なりと雖ども國訛の差違は實に甚しきものなり僅に一線の水一脉の山を隔てゝも其趣の異なるを見る可し况んや西國と東陸と北山と南海と相去るの遠きものに於ておや仮に外國の人をして各其語る所を聞かしめたらば東西南北の人を目して同一の日本國人とは思はざる程のことならん小生が幼年在郷のとき故老の話に嘗て薩摩の人と奥州の人と相逢ふと言語相通ぜず困却の折柄其一名の頓智にて謠の調を以て語らんことを思付き例へば急ぎ候程になど云ふ言葉を用ゐたれば先方も亦これに傚ひ辛うじて双方の意を達したりとのことを聞けり寔に左もありしことならん否な今日の實際も左なることならん我が國土の狭き割合に拘はらず斯くも言語の不通不自由なるとは抑も何故づや數千年來交通不便の實証にして薩奥人の一話は正に其趣を寫し出したる寫眞〓と云ふも可ならん

右に付き尚忠ひ起したる一事あり小生が郷國に在りし頃より東京にて先輩の諸先生が日本の文章に漢字を用るの不便なるを論しられ又人の口にする言葉と筆にする文と全く語法を異にするも不利なれば一切漢字を廢して我國固有の仮名文字を用ゐ人の口に言ふがまゝに之を仮名文に綴れば文章即ち言語なり言語即ち文を成すの便利なりとて其主義を研究討論する爲にいろは文會いろは會又はかなのともなど云ふ樣々の結社ありしが爾來養成者の多くして〓盛なる由この有樣にて次第に進歩したらば遙には會の目的も通して日本國中に漢字を用る者次第に減じ次第に仮名流行の文化と爲りて人々の口に言ふがまゝに仮名を綴り如何なる不學の凡俗にても唯僅に四十八文字を解すれば何事にても心に思ふ所を紙面に吐露するの便利を得るにも至らん國の爲に祝す可きことなれども小生の所見にて爰に路に横はるの大困難と申すは彼の國訛の一事なり仮名の文字を用ゐて人々が心に思ふ所を紙面に吐露するは誠に好しと雖ども我日本國人は之を吐露するに地方に從て各其音を一樣にせずクワンノン、カンノン(觀音)ヂシンバン、ジシンバン(地震番、自身番)愛知地方の飲まず食はずは仮令ひ之を推量するも長崎近傍にて荷桶を擔ふて徃來を歩する者をタンゴ、イノーテ、バボーサルクと云ふが如きに至ては甚た解し難く或は奥州の主從二人は東京の四十二人と聞ゆるやも計る可らず斯る有樣の儘にして日本國中東西南北の人々が唯四十八の仮名を知り其心に思ふ所を口に言ふがまゝ文に綴りたらば其文章を見て相互に解する能はざるの患はあるまじきや小生が遠國に居ながら嗚呼けましくも掛念する所に候固より仮名主義の諸先生に於ては往々辭書を編纂しスペルリンブツクを著はし又日本語學校をも設立して全國の語音語法を一定せらるゝの大目的ある可きは申すまでもなき事ながら識者の言に都て人の教育は學校外不文の教育こそ却て有力なるものなりと承はり候ことにて其不文の教育とは他にあらず運輸交通の便利にして疑もなきものなり左れば仮名主義の諸先生も今後は尚一歩を進めて大に鐡道敷設の一事に盡力せられ日本國中の言語を東西南北津々浦々にまで運搬交通して各地の方言方訛を一掃し日本の言語を平均して其全國に普通なること亞米利加語の亞米利加に普通なるが如くにして仮名の文章も始めて實用を爲す可きのみ辭書の編纂學校の設立の如きは其功用精密なりと雖ども又緩漫の恐なきに非ず鐡道の敷設は則ち働の最も活〓迅速なるものなれば諸先生は其緩急兩樣を併せて利用せらるゝ中にも先つ活〓の事業に着手せられんこと小生の願ふ所なり云々