「世務の多端益喜ぶべし」
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時事新報に掲載された「世務の多端益喜ぶべし」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
世務の多端益喜ぶべし
古來亞細亞に於ては世の安寧靜謐をのみ是れ祈り天下太平無事息災を目的とし只管世務の少きを是れ好み務めて安佚に耽り遊情に流れ一も世務紛雜の間に立ち盤根錯節の衝に當ルことを願はず又大に之を厭嫌するの風ありて存せり是れ則ち亞細亞洲人が有爲活〓の氣力乏しくして國運開明に進まざるの一大病根にあらずや夫れ文明は多事、多事は文明にして其世務の多端なるに從ひ人々智力を用ひ〓〓を破るの氣力を生じ遂に文明の域に達すことを得べし安づ遊情安佚にして其の天下太平を致し無事息災に此世を渡ることを得可けんや我輩固より戰乱を好み流血河を成し伏屍山を作すを好むものに非ざれども常に世務の益多端ならんことを望み多々益其喜に堪えざるなり然るに如何なる卑怯未練、懶惰安佚の者なるにや今の世に方りて仍ほ務めて世務の少なからんことを希ひ只管無事閑靜をのみ目的とするものありと云へり此等は畢竟其者の目的を達すること能はざるのみならず一世の事を擧げて停滞不流に屬せしめ自他倶に沈淪涸萎して活人全く生意を失却し憐む可く悲む可き形骸となるに至らんのみ
文明國の多事なるは今更喋々を要せざれども政治の事なり社會の事なり、甲起り乙仆れ、一人繁榮なれば一人衰〓し其間變遷窮りなきも常に幾分の進歩なきはあらず其他學術、宗教、武技、文藝、商賣、工業等蜂起蟻集して一々計るに暇あらず此等は皆新を競ひ奇を衒ひ一歩も後れ一刻も失はんことを恐れ各智力を振て文明の野に戰ひ互に競爭磨勵して頻々改良を加へ寸刻も已む時あることなし其紛雜繁多なるは乱絲の如く其迅速快利なるは電光の如く一見人をして厭嫌の念を生し奇殆の思を懐かしむるものゝ如しと雖ども細かに之を思ひ諦かに之を視れは其間條理整然秩序を乱さす各其所を得て幸福を享受し天下太平無事息災は却て此中に見る可し語を設けて評すれは無事は多事の中に在て存すと云ふも可ならん豈に其紛雜を嫌ふて須ゐるに及はんや且夫れ不文國と雖ども苟も其國に大なる故障なき以上は社會の景况は常に活動進歩の傾向ありて之を古代に比すれは世務次第に繁多に赴き復人力の能く制止し得べきものに非す况んや日本國の如き素と不文の國に非ず加ふるに近年盛に外國の交際を開き今方さに疾歩急進せんとするものなれは舊時代の事理を以て之を〓束鎭定せんとするが如きは隨分以て實際に行はれ難き事なる可し
今試に東京府下に於て發兌する所謂大新聞なる者を把て之を一閲するに其主義の改進保守如何に拘はらず紙上配載の事項は概ね内外諸國政治の興廢、社會の有樣、學術、技藝、商賣、工業等新奇發明改良進歩の事にあらざるはなく一葉の新聞紙は殆んと宇宙を網羅し一般の世相を寫し出して漏す處なしと謂ふ可きなり看者これを輕々讀過すればこそ甚た喜ぶべく憂ふべく慕ふべく悲むべき事もなきが如くなれども若し能く心を留めて細閲審思し一事項毎とに此れは如何なる關係を生するか、彼れは如何なる結果となる可きか、此れは退歩萎縮するにはあらざるか、彼は急進疾歩するにはあらざるかと内外相照し東西相較して仔細に看來れば甚た喜ぶべく恐るべく憂ふべく悲むべきものゝ〓〓〓〓〓〓〓〓んと〓〓所々知らざるの〓て發するならん既に心に喜憂慕悲の感を發するときは男兒として身これに處するの覺悟なかる可らず今世界事物の繁多なる有樣は必らず遠く之を歐米の各地に求むるに及はず現在日本の新紙上にも寫し來りて餘ありと申すべし古來我國數百千年間に起りたる歴史上の事跡と雖ども今日の新紙の如く夥多の新事項を包括せるものはあらざる可しされば今日一葉の新聞紙は古史百萬巻に値るとも謂ふ可きなり
獨り怪む可きは世間に隨分好んで新聞紙を讀む者にして未た深く喜憂を此間に措かさるもの往々之れあるが如し甚しきは自ら新聞紙を編輯する者にして滿幅殆んと開明進歩の景况に係る事項を揚げながら仍ほ其所説に於ては退守慕古の意を露呈して動もすれば人智の發達を抑へ社會の進歩を遏めんとするの情あるものゝ如し其状恰も春陽の時節到來して草木漸く暢茂し百貨將開の際に於て一掬の氷雪を把り來りて草木を枯凋せしめんことを謀り一扇の寒風を煽き起して百花を萎縮せしめんと望むものに異ならず是れ自ら欺き人を欺くの計にあらざれば則ち社會進歩の大勢を解せざるの所爲と謂はざる可らず陽氣正に發するの文明に逢ふて人事の暢茂は之を留めて駐む可らす蓁荊毒草といへども等しく雨露の霑す所に任して強て之を芟除するにも及はず况んや愛すべき百花の爛漫たるものに於てをや惡む可らず愛す可き者なれば先覺は後覺を助け長して其開發を促す可きのみ之を要するに我輩は政治の事なり社會の事なり其他學術、宗教、武技、文藝、商賣、工業、等務めて世務を多端ならしめ各自相競ふて之を磨勵し各其所を得せしめて事務繁多の極、恰も無事の如く、錯雜快利の中、眞の天下太平を期するの外又他に策あることなしと思考するなり