「米の輸出正に緊要なり」
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時事新報に掲載された「米の輸出正に緊要なり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
米の輸出正に緊要なり
米價下落して人民難澁とは遽に解し難き事相なれども今日民間の實際を見れば東京の相塲既に四圓臺と爲りて尚下向きの樣子なれば地方の景況豫推して知る可し仙臺の田舍などにては疾く三圓以下に落ちたる處もありと云ふ斯る景况にては地租の上納にも差支るのみならず米價の下落に伴ふを諸色下直商况不景氣にして全國の工業も次第に衰微を致し商家の閉店工塲の破壊は殆と際限ある可らず商工の衰微に從ひ益世間に信用を缺て即ち金融閉塞の症を現はし苟も資産ある者は庫中に現金を貯へて唯失ふなきの謀を爲し平生金力なき者は如何なる才能ある者にても一銭金を融通するを得ず金を所有する者は之を用いる處なきを憂ひ才を抱く者は其才力の働を呈するに時を得ざるを悲しむ商工の世界に資金と才能と兩ながら不用なりとは正に今日の有樣ならん
右は金力も才力も中等以上の人に就ての談なれども其以下に至り農民及び職工の難澁も亦甚しきものと云ふ可し凡そ全國の職工役丁は其手足の力に食む者にして其手足は大概皆直接に工業に依頼し間接に資本に連帯して始めて働きを呈す可きものなるに資本家の金は戸外に出ず工業家は資本なきが爲に唯退歩の一方にのみ苦心する最中なれば職工役丁の手足如何に巧にして又屈強なるも之を空うして日一日を消するより外に工風もある可らず現に京都の西陣、關東の桐生足利等にて機塲に職人の不用なるを見ても其一斑を知る可し又西國の某縣にては懲役人に授く可き職を得ざるより百方思案に苦しみたる末に藁の縄を作りたらば多少の利益もあらんとて縄の業を命して日に成るもの甚た多しと雖ども世間嘗て之を買ふ者なく幾千幾万把の縄は堆くして山を成し或は雨濕の時節、把のまゝに腐敗するに至れども遂に之を處分するの工風なしと云ふ農家の困難に至ては尚これよりも憐む可し天下無數の小民は今年の豊作に逢ひ若干の米を収穫したれども之を賣て地租の金を上納し地方税恊議費を拂ひ又春期に借用したる肥料の代價を皆濟するときは家に殘るものは甚た多からず結局秋收の利のみに依頼す可きに非されは薪を採り炭を焼き又は地方の土工に所謂農間稼を以て生計の缺を補はんとするも薪炭賣るに市なくして土工亦起らず唯手を空うして飢寒に泣くのみ農民の難澁殆と極點に達したるものと云ふ可し
畢竟するに日本國の米作は千古以來の奬勵を以て次第に其収穫を多くし全國物産の大半を占め而して其品柄を尋ねれば海外に輸出して大に利す可きものにも非ず日本の國産を日本人の口に喰ふのみに止まりて流出の極めて不活潑なるが爲に正に内國の需用に足りて少しく餘りを生するときは其餘分の供給を以て全体の相塲を變動し意外の下落を致すことならん例へば平年三千石を以て需用に相當したるものが偶まの豊作に一割を増して三千三百石を獲るときは其三百石を過給したるが爲に忽ち米價全体の下落を來して國民過半數の難澁したることなり一國内にては民が過半が貧困を感するときは商工の業盛ならんと欲するも得べからず即ち編首に云へる米價下落して人民難澁の奇相を呈したる由縁なり固より今の商工不景氣は其原因一ならず數年前紙幣の過發に由來したるもの甚だ大なれば速に其兌換法を定めて通貨の乱高下を止ること緊要なれども政府の當局者にて尚未だ其策を得ざる歟今日に至るまで聞く所なし是は姑く止むを得ざるの事情あるものとして強ひて自から慰るも此紙幣の禍に加ふるに本年は又農作の奇相を以てしたることなれば斯る塲合に臨ては米價の下落を防くの一策にても施行して禍の幾分を輕くするは公私の爲に最も必要なる處分ならん即ち其策は米を海外に輸出して内國の市上に供給の過るものを除去するに在るのみ
米を外國に輸出するに就ては從前我諸港に於て其事に慣れず運送船の都合もあり海外米價の昂低もあり甚た容易なる事に非ざれども既に其必要を悟りて策を決したる上は自から亦着手の順序緩急の利害もある可し是等の細目は之を他日の論に譲りて本編は唯其輸出可否の大体に就き鄙見の一端を開陳したるのみ