「地理上の離隔は恃むに足らず」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「地理上の離隔は恃むに足らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

地理上の離隔は恃むに足らず

西暦一千八百年の初より蒸氣の力其働きを逞うして世界の局面漸く縮まり苟も蒸氣力を利用するものは自由自在に此局面を横行して萬里の波濤も担途の如く千里の山河も平野の如く人間復た行路の難なきに至りたれば地理上の離隔は最早恃むに足らざるなり今試に蒸氣發明の以前に遡りて地球の全局を觀察すれば東西の離隔參と商との如く天涯地角、風馬牛も相及ばず所謂望洋の嘆なきを得ず、されば當時に在ては西洋諸國にても航海の區域極めて狹して千四百年代迄は纔に地中海を縦橫するに止まり大西洋の遠航を試むる者さへなかりしに同九十四年コロンブス氏が古今絶倫の勇氣を振ふて西大陸を検出してより葡萄牙、伊太利等の航海者も漸く冒險の勇を鼓して陸續海外の遠征を試み爾後二年葡萄牙人は喜望峯を廻て東印度に至り英佛等の各國も亦爭ふて航海を事とし西陸に東印度に相繼て遠征を發することとはなれり千五百十六年には葡人餘勢に乘して支那海に現はれ同四十二年には我日本にも渡來して漸く通商の端を開きたれとも一葉の商船に駕して地球の西端を發し風に任せて飄然東洋に來航することなれば其航海は月を累ね年を渉り地理の離隔に阻せられて交通の緩慢なりしこと亦想ひ見る可きなり然るに千八百年の初より蒸氣其力を逞うして世界の形勢俄に變し從來歐洲と印度との通航は四五ケ月、乃至半年を費したるものが今は其日數十分の一に短縮し隨て我が日本國も其地位遙に東邊に僻在するを以て曾て公然たる外國交際もなかりしに蒸氣の餘勢は漸く延てこの東邊にまで達して三十年前より米人を始めとし其他の西洋各國人に促かされて今日の開國と爲り朝鮮の如きは曩きに外人に開國を促かされたる其日本人の爲に重ねて促がされて東西の諸外國と交通するに至れり是に由て察するに蒸氣力の向ふ所は前に勁敵なし其力の影響は全地球に布及して今方に進歩最中、今後電氣等と結合して益其働を逞うすれば何の至らざる所あらん到底其勢力の及ぶ所は人智を以て測るべからざるなり

然りと雖とも凡そ人生に除き難きものは舊時の記臆にして去り難きものは目下の情感なり前節に云へる如く蒸氣電氣等有形の文明外部の進歩は斯く迅速活溌なれとも吾人内部の感覺は之に伴ふて其鋭敏を增すこと能はず世界地理上の離隔は昔時の十分一にも減して目下益之を縮小するの有樣ありと雖とも吾人の腦中は尚舊時の印象を存し世界縮小の割合に應して東西接近の實状を腦鏡に映すること能はず地理上の離隔を恃むの念は常に腦裏に影從して之を掃除する能はざるなり今讀者の了解を便にする爲め淺近の事を以て之を例せんに拙宅は東京城南にありて淺草へは二里、橫濱を去ること七里なり淺草に火事あれば目睫間に其烟焔を認む可し淺草霜夜の警鐘は時に吾人の寝耳に達することあり之に反して橫濱の火事は固より之を見る可らず入港軍艦の砲聲すら尚之を聞くことを得ざれば吾人淺草橫濱の遠近に想及する毎に先つ橫濱遠しとの感觸を生すれとも今日の實際に就て之を見れば京濱間には毎時汽車の上下するありて其間を往復するは僅に二時間を出ず之を人力車にて淺草に往返するに比すれば時を減すること三四十分に下らず况や雪朝雨夕汽車明窓の中に安坐し時を刻して橫濱に達すると塵垢汚泥凹凸屈曲の東京街路車上に露坐し一上一下淺草に往くと其難易遅速固より言を俟たず實際の事情は斯くの如くなるに尚橫濱遠しとの感觸を起すは畢竟吾人の腦中に地理上離隔の舊印象を存し兼て又今の耳目の聞見に妨けられて心に迷露を一掃する能はざるに坐するのみ余は幼時支那人が長安近き歟、日近き歟との疑問に應して長安近し、人の長安より來るを聞けとも日邊より來るを聞かずと答へ他日復た同一の疑問に對して日近し、頭を擧くれば日を見れとも長安を見ずと答へたりとの奇話を聞き童心窃に二答の取捨に苦みたることあり今橫濱よりは一時間にして歸着し淺草よりは殆んど一時二十分を要すれば實際は橫濱近しと雖とも卒然に淺草近き歟、橫濱近き歟との質問に逢はゞ淺草の警鐘は之を聞けとも橫濱の砲聲を聞くことを得すとて先つ淺草近しと答へ他日自ら其粗忽を笑ふことなきに非さる可し盖し吾人の感覺は耳目見聞の外に在ては案外に遅鈍なるものにして長安を見ざれば漫に之を遠隔なりと思ひ砲聲を聞かざれば徒に橫濱を遠しとすれとも蒸汽の勢力其働を逞うすれば見ず聞かずの間と雖とも亦瞬時にして往返するを得可し地理上の離隔は決して恃むに足らざるなり

我が日本國は東洋の一邊に僻在して三十年前までは公然たる外國交際もなかりしかば固より遠航を試むるものもなく徒に海外旅行の困難なるを感し又其内地も諸侯の封土犬牙して關所柵門處々を梗塞したれは重山複水、夢魂相通せず一別再會を期し難し抔とて益地理上離隔の感觸を深うしたり維新以後は蒸氣船車電信其他文明の利器を採用することとなり内外の形勢も亦隨て豹變したれば我邦の人士も頗る舊時の觀を改め地理の離隔を恃むの念も稍其頭腦より驅除したるならんと雖とも實際に就て之を見れば吾人内部の感覺は外部有形の進歩に伴ふ能はず盆大の地球は既に豆小に減縮したることを知らず東西離隔の舊印象は尚其腦裏に存するが如し我邦の人士は速に此舊印象を消磨して復た水陸の離隔を恃ます西洋文明の壓力今方に其頭上に迫りたることを切に其心に銘せざる可らず(未完)