「德敎之説」

last updated: 2021-12-25

このページについて

時事新報に掲載された「德敎之説」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

我輩は既に三日の辨を重ねて儒敎主義を論じたり。今又其緒に續き德敎に就て聊か開陳する所のものあらんと

す。抑も前日の論は其論鋒或は苛酷に過ぎたりとの嫌もあらんかなれども、我輩に於ては只徒らに儒敎を惡て此

主義を仇とするものに非ず、唯世間に儒敎の本意を誤りて之を誤用する者もあらん歟と、之を恐れて鄙言を呈し

たるのみ。卽ち儒敎を道德の敎として用ゐんとすれば、儒書中政治論と混同して、純然たるものに非ず、又其德

敎の文字のみを引分けて用ゐんとすれば、儒敎の全體、德論と政論と恰も親和して之を分つ可らず、然ば則ち之

を政治論として用ゐんとすれば、周の時代の治國平天下の主義は今日の文明世界に適應す可らず云々の趣意を開

陳したるまでのことにして、去迚儒書は一切讀む可きものに非ずと云ふに非ず。儒書も亦是れ一種の古文なり、

然かも和漢に於て數千年來人を敎へて、兎にも角にも和漢今日の文明に達したるは、儒敎與りて大に力あるもの

なりと云はざるを得ず。瑕令ひ當今の實用に適せず、又今後これに依て文明進歩の媒介とするに足らずと云ふも、

古書中自から眞理の存するものもある可ければ、苟も學者たらん者は、彼の「ギリーキ」「ラテン」印度の古書を弄

び其古事眞理を發見して之を學問の補助に用るが如きは、誠に缺く可らざるの要にして、殊に漢字を知らざれば

文書に差支るの今の日本に於ては、唯字を知るの要用の鎬にも漢書をば講讃せざるを得ず。我輩は儒教を目して

今の文明世界の實用に適せずと云ふも、唯この敎に立國の大義を托す可らずと云ふに止まり、一切の漢書讀む可

らずと云ふに非ず。漢儒先生を始として大方の士君子、鄙意の所在を諒察せられなば幸甚のみ。

扨儒敎は以て立國の大義を托するに足らざるものとすれば、道德の敎は如何するやと尋るは自然の順序にして、

今日の一大問題なる可し。此問題に付き我輩の所見を述れば、

第一 道德の位は各人又各種族の人の心事に從て各守る所を一樣にせず。

第二 道德の敎を博くせんとするには純然たる德敎にして數理を離れたる者に非ざれば目的を達するに足らず。

あり上等下等あり。其最も低きものは禽獸魚介草木の類を神として之を拜し、自から以て身を愼しむの方便たる

ものを見る可し。少しく上て有形の偶像を作り之に樣々の名を附して神とし拜する者あり。尚上で一神を信ずる

の信と稱して、無形の際に目的を想像して之を拜する者あり。蓋し人の知見漸く廣くして心事漸く高尚するに從

ひ、宗敎の外貌も自から品格を高くして一見濃厚ならず。其趣は小兒の時に花を見て頻りに紅なるを悦び、味を

嘗めて唯甘きを慕ふたるものが、漸く長じて五色七色の交るを賞し、五味八珍の和するを貴び、尚一段を進れば

春娟は秋清に若かず、美味は淡泊に在て存すなど稱して、小兒に比すれば殆ど反對の趣を顯はすに至るものゝ如

し。宗敎の風の異なること斯の如くにして、其爭も亦甚しく互に相是非すと雖ども、結局各人叉各種族の人が各

其信ずる所を信じて德を脩め身を愼しむの方便たれば、其高きも低きも之を論ずることなく社會道德の爲には缺

く可らざるものなり。故に小兒が紅花甘味の濃厚なるを悦ぶならば、其これを悦ぶに任して可なり。大人が五色

五味の調和を好み、尚上て清涼淡泊を愛するならば、又これを妨ることなくして可なり。婬祀も佛門も外道も耶

蘇も一切其信ずる所に放任して、人の知見の徐々に進むに從て道德宗敎の信心も徐々に改進するを待つ可きのみ。

又或は道德の根本に宗敎を立てずして社會中一種族の氣風を以て精神を維持するものあり。諸外國には甚だ適例

少なきことなれども、我日本の士族の如きは此種族なり。我士族は三百年來( 德川政府以前は軍人武士も佛法に

歸依したることなり)封建の制度に養育せられて兼て又儒者に敎へられ、其儒者なる者は佛者に抵抗せんがに

勉めて虛誕妄説を言はず、遂に我士人をして宗敎に淡泊なるのみならず殆ど無味とも云ふ可き精神を養成せしめ

たるものならん。又或は近來西洋にて進化論、功利論など云ふ主義を唱へて、漸く學問世界の面目を改め

んとするの萌あり。是等の主義にして勢力を得たらば、宗敎を離れて理論上に道德を維持するの道も明なるに至

る可し。左れば禽獸草木を拜し偶像を拜し衆神を拜し一紳を拝し、又或は神とし拜する所のものなきも一種族の

氣風を以て相互に制し、又或は理論の數より出でゝ主義を定る等、其趣向は同じからざれども、以て人々の道德

心を維持して安寧を保つの點に至ては大なる差違あることなし。元來道德論の目的は唯社會の安寧に在るものに

して、苟も各人の德を脩め身を愼しむあれば、何に由て之を脩め何を憚りて之を愼しむやと、其理由の詰問は無

用の事なり。蓋し其理由は人々の心事に從て同じからず、千段にも萬段にも甚しき懸隔ある可けれども、我輩に

於ては到底これを不問に附し、唯脩德外見の美を利用して安寧を利せんと欲するものなり。世間或は此要訣を知

らず、徒に人心の内部に立入り、瑕令ひ德を脩るも其これを脩る由緣の原因を喋々して、以て自家信心の道に人

を導かんとし、之が爲に却て社會の安寧を害するの弊なきに非ず。精神の不自由なるものと云ふ可きなり。

〔十一月二十二日〕