「德敎之説」
このページについて
時事新報に掲載された「德敎之説」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
西洋諸國に於ては宗敎の勢力頗る強大にして、苟も道德を論ずるときは必ず宗敎に據らざるはなし。故に今我
日本の士人は宗敎外に道德を維持し、其根據は封建の忠義より由て來るものなりと云はゞ、西人の判斷には、或
は此忠義の文字を奴隷心の義に解し、封建の君主が腕力と智力とを以て一部族を制御し、部下の輩は其威に恐れ
其恩に服し、恰も禽獸の飼主に於けるが如きものならんなどゝ、輕々論じ去る者も無きに非ざる可しと思はるれ
ども、我封建に於て上下の關係は斯く殺風景なるものに非ず。其紀元の時よりして西洋の「フューダルーシステ
ム」に異なるのみならず( 是れは他日論ずる所のものある可し)、世々の習慣を以て次第に秩序を成し、其關係は至
極平穩を致して曾て苛烈の實跡を見ず。唯制度の名義のみを聞て之を皮相すればこそ、驚く可きものもあるが如
くなれども、畢竟西洋の人が尚未だ我國の事情を知らず我國に滯在するの日も淺くして、或は舊記の白文のみを
讀み、又は文思に乏しき几俗輩に就て聞く所を以て、直に之を證左とするが如き疎漏よりして、往々事實を誤る
ことの多きのみ。我輩の常に遺憾とする所なり。( 西洋人が日本の事に就て記したる幾多の著書あれども、常に
誤謬を免がれずして、近浅の事柄にても實を失ふもの多きを見ても之を證す可し。)我國封建の時代に養成した
る士人の氣風は、本と君に忠を盡し誠を盡すの一點に由來すと雖ども、其忠誠の發達して及ぶ所は、唯君臣上下
の關係のみに止まらず、人間交際些末の邊にまで働を逞うする其趣を形容して云へば、機關師が製鐵所に於て始
めて蒸氣器械の取扱ひを學び得て次第に其伎倆を發達すれば、滊船を運轉し滊車を御する等、百般の蒸氣器械に
逢ふも、聊かエ風を運らすときは其取扱ひに苦しまざる者の如し。蓋し此機關師は本と製鐵の爲に機器取扱ひの
伎倆を得たるものなれども、一度び之を得たる上は必ずしも製鐵にのみ限らず、或は全く製鐵の業を離るゝも所
得の伎倆は依然たる可し。故に我封建の士人も其忠誠の由て來る所は封建主從の制度に在りと雖ども、一度び其
德を得て士人全體の氣風を成すに至れば、百般の人事に其所得の働を逞うするのみならず、或は其由来の本源た
る封建の君主に拘はらず、士人の德義は依然として品格を失ふことなし。其實證を示さんに、元と封建士人の忠
義忠誠は唯其仕る所の君に對したる品格なれば、君の心にして時として賢愚ある歟、若しくば君を失ふことあれ
ば、忠誠の心も亦共に消滅す可き筈なれども、事實に於て決して然らず。例へば德川政府十五世の中に、明君は
二、三に過ぎず、稍や文字を知り人事を解する者を共計するも五、六に足らず。其餘は純然たる深宮の暗弱的にし
て僅に肉體の君のみ。固より腕力智力を以て臣下を御す可きに非ず。其實は有れども無きに等しきものなれども、
其時に際して政府全體の氣風如何を視察すれば、士気凛然として所謂三河武士の筆法を失はず、忠誠の一主義を
以て互に相制し、曾て德義の品格を損したることなし。此事相は獨り德川のみに限らず、三百藩皆然り、其藩主
( 二行読めず)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓するも其〓に〓〓〓苟も人々の品格を高尚に維持して〓〓〓る
所なく、此德義の範囲内に居て能く文明の道に進み、文明の主義を悦て文明の人を親しみ、共に文明の快樂を與
にするを得るときは、更に遺憾ある可らず。世人若し思想を窮窟にして、人生の道德は宗教敎の外に在る可らずと
言ふ者あらば、我輩は姑く其言に從ひ、無理に文字を作て日本の士人は忠誠宗の信徒なりと揚言せんのみ。然か
も此信徒は必ずしも改宗を拒むものに非ず。前節に云へる如く、此流の人にても何か宗敎上に信心の目的を得て
之に歸依せんと欲する者あらんには、決して之を留むるに非ず。佛法にても耶蘇敎にても隨意たる可し。啻に隨
意を許すのみならず、明に數理を離れて純然たる徳敎の品格を備へたる宗敎ならば、社會の多數は勉めて之に入
るを奬勵するこそ、今の人智に於ては便利の方なる可し。又或は理論學者にして宗敎外に數理を説て安心の地位
を得る者あらば、是亦固より留むるに非ず。唯我輩が前論の要點は、古來今に至るまで日本士人の眞相を記し、
其宗敎に關せずして能く忠誠の道德を維持し、世界古今に稀有なる事例を呈したる次第を示すに在るのみ。西洋
の碩學が往々道德の事を論じて宗敎外にも之を維持したるものあるの證を揭るに苦しむが如くなれども、若しも
此學者に示すに日本の士人を以てして、其宗敎に淡泊なること此の如く、其道德心の低からざること此の如きを
知らしめたらば、始めて大に發明して心に釋然たるものある可きなり。 〔十一月二十六日〕