「德敎之説」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「德敎之説」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

前節に云へる如く、我日本國の士人は外に對して外國交際の辛苦銭難に迫られて報國の誠心を養ひ、内に在て

は開闢以降の習慣を以て盡忠の大道分明なれば誠心を養ふの資に乏しからず。誠は印ち道徳の大本にして、報國

盡忠の誠心を以て社會の氣風を成すときは、天下何ものとして此氣風に敵するを得べからず。學校教育の如きは

枝末の事として見る可きのみ。之を喩へば氣風は體の如く敎育は食物の如し。人にて唇馬にて心之に食物を員ふ

れば、其食物は化して人馬動物の體質に化す可し。之を動化と名く。故に祀會の気風一度び成る上は、學校にて

何の書を讀めばとて其書の意味は變じて本體の氣風に化す可きのみ。支那朝鮮人が儒書を讃めば支那朝鮮の意味

に解し、日本封建の士人が同樣の書を讀めば封建の意味に解す。蓋し我輩が彼の儒教主義を評するにも、唯これ

をその勞に比して利益少なし、徒勞の上に文明開進の爲には一時少しく故障を爲すこともあらんと云ふに止まり、

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓のみにして、實は大に之を憂慮せざるも、其主義の實際に於て働を逞うする

〓以て人の〓心を養ひ、其社會の氣風を成して榮辱を判斷し、以て益道德心の品格を高尚ならしむ可し。學校敎

場の事の如きは唯應さに人の知識見聞を博くするを勉めて、法理文等の學問は無論盆之を漿勣してμ止すること

なく、其諸學科の中には專ら道德のみを論じたるものもあらんなれば、是亦其種類を拝ばずして之を講漬す可し。

限なき人生の智力を以て書を讀み理を講ずることなれば、天賦の力を場して知る可きを知り、道徳心の殷育と其

標準は之を社會の氣風に一任す可し、即ち其氣風は盡忠報國にして、恰心我士人の宗門なれば、其門徒たる可き

ものたりと答へんと欲するなり。

然るに爰に盡忠報國の主義を擴張せんとして其方便を得ること甚だ易からず。在昔鎖國の時代なれば、我至尊

を一國の内に戴て外に顧る所のものなし。至尊は誠に至尊にして、我々人民も揚々自得したることなれども、今

や外國と日本國と相對して其大小強弱文不文を競ふの日なれば、我々人民に於ても我日本國を強大文明の國と爲

し、此強大文明國の至尊として仰ぎ奉るに非ざれば、未だ以て臣民の分を盡したるものと云ふ可らず。語に云く、

疑はざれば則ち求めず、求めざれば則ち得ずと。在昔我國民は獨り我國を無上の樂國として疑はざりしものなれ

ども、今や國を開て他の文明國と交るに就ては、彼我の強弱文不文に關し大に疑を抱て求る所のものあるに非ず

や。其求る所のものとは何ぞや。西洋近代の文明、即ち是ならん。彼の文明を取て我富強の資に供し、以て新に

東洋に一大文明國を作らんとするは、蓋し我々日本臣民の至情にして、誠意誠心の由て生ずる源なり。人々の德

義の標準なり、個々の榮辱の分るゝ所なり、千年の事は、我輩これを知らず、目下の要用に於て我士人の道徳は

他に求む可らざるものなりと信ず。然りと雖ども彼の文明を取らんとするには、先づ其文明の何ものたるを知り、

其所在を知り其性質を知り、之を取て利用するの方法を知ること緊要なるは、論を俟たずして明なり。而して其

これを知るの法如何と尋れば、西洋の學術、學ばざる可らず、西洋の書、讀まざる可らず、西洋の國、交る可し、

西洋の人、親しむ可し。文明を求めんとして文明に近づくは當然の數にして、之に近づき之を知り、始めて彼我

比較の考も起りて報國盡忠の囚と爲る可きに、世間或は此睹易きの道理を解せざる歟、一般に西洋學の流行を止

むるにも非ざれども、其大に盛なるを好まず、或は其盛なるを好まざるに非ずと云ふも、其好む所一偏に僻し、

何學に厚くし何學に薄くし、何書を多くし何書を少なくす可しと云ひ、甚しきは何國の學風を擯げて何國の事例

に傲はんとする等、唯一時の世相に感じて一時發作の思想を逞うし、夫れ是れと心事多端なるに際して、或は大

に方向を誤り、不知不識文明開進の道を逆行して西洋を知るの方便に遠ざかる者なきに非ず。斯の如きは則ち啻

に實物有形の利益を失ふのみならず、我輩が特に我士人の爲に道德の標準と定めたる報國盡忠の品格を低落せし

むるものと云ふ可し。抑も此流の人とて必ずしも求めて國の不利を謀るに非ず、唯其見る所の近くして淺きが故

に、人間萬事意の如くならざるものあれば一時の方便を求め、其不如意を變じて意の如くならしめんと欲するも

のに過ぎず。而して其方便なるものも、實際にこそ效を奏せざれども、之を計畫する時に當ては甚だ見込あるが

如くに見へて、自身も信じ人も亦疑はずして之を試るのみ。例へば今の人が不道德なるが故に之に道德の書を讀

ましめたらば道德の人と爲る可しとは、誠に簡單至極なる考にして了解に易しと雖ども、今一歩を進めて道德の

本體は一世の氣風に在て存す、學校敎育の如きは食物の如きものにして、體内に入れば則ち動化するものなりと

の理由を勘辨したらば、果して一時口に甘き食物を取るよりも、大に體を養ふの利益なるを發明す可し。即ち其

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