「德敎之説」
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時事新報に掲載された「德敎之説」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
本紙の初に於て德敎の問題に付き我輩の所見を述べ、第一に道德の位は各人の心事に從て同じからざるを示し、
第二に德敎を博くするには數理を離れて純然たる德義の一方に就くの要を論じ、此論緒に續で我日本國の士人は
宗敎の外に居り忠誠の一義を以て安心立命の標準と定めたる者なれば、此一義を今日に擴張し益報國盡忠の氣風
を高尚にして德敎の事終る可しとの次第を開陳したり。蓋し我士人の心丿昨にＥ」二此燈二位するものにして、又其
報國盡忠の事たるや、徹頭徹尾人生の情に出でゝ、數理の關する所に非ず。即ち前に云へる如く、人間稀有のも
のを重んじ、古きものを貴び、近きものを愛する等の情にして、有形の利害損益等を外にするものなるが故に、
道德の標準には最も適當なりとす。然りと雖ども社會の人民を平均して其心事の位を硯察するときは決して一様
なる可らず。所謂士人は中以上に位を占めて社會の上流に居り、以下の群民に至ては報國盡忠の大義固より怠る
可らずと雖ども、直に此一義のみを以てするも或は感動に鈍きの恐なきに非ず。故に此下流の人民の爲には宗敎
の信心を養ふこと至極大切なることなる可し。數百千年來我國に於て無智の小民が苟も道德を維持したるは、宗
敎の信心與て大に力ありと云はざるを得ず。今後も尚これを破らずして其舊に依らしめ、社會の進歩と共に宗敎
も次第に其裝を改るを許して唯其自然の働に任するは最も平穩なる方法にして、經世の利益少なからざることな
らん。（ 近來耶蘇宗も漸く我國に入るの萌あり。交通至便の世に在て我内國にも鐵道の敷設漸く延長するに從ひ、
遂には外國人雜居のこととも爲る可し。斯る時勢に當ては耶蘇敎の如き、之を防ぐも之を導くも、到底人力の及
ぶ所に非ざれば、唯人々の信心に任して政治外に之を放却す可しと雖ども、今の時に佛法が盛なれば其佛法を利
用して可なり。佛耶兩敎の得失は本論の開する所に非ず。）抑も道德に宗敎の最も適應する所は其數理を説かざ
るに在り。文明の理學次第に進歩するときは、人間萬事この理の中に包羅せられざるものなしと雖ども、獨り死
生幽冥の談に至ては理學も之を究むるを得ず。例へば宗敎にて未來の世界は有るものなりと云ひ、理學者はこれ
無しと云ふも、有を證すること能はざる程に又其無を證するに足るものなし。宗敎家は獨り其有を主張して三世
の因縁を説き、之を人情に訴へて禍福を示すものなれば、理學も之に觸るゝを得ず。情と理と甚だしく懸隔して
各其標準を殊にするが故に、却て滑に兩立するを得るものなり。我輩の持論に儒敎を以て純然たる道德の標準に
定め難しと云ふ其差支は此邊にも在ることにて、例へば儒者は釋迦の妄誕を笑ふと稱して專ら現世有形の利害を
論ずるが故に、凡そ理論に逢へば宗敎家の如く漠然として之を避るを得ず、必ずや多少の辨明を要するの資格に
ひこれをしよくするあれば すなはちてんしせきをさけ じんらいふうれつなれば かならずへんず けだしてんをおそるゝなり
居ながら、日有ㇾ食ㇾ之、則天子避ㇾ席、迅雷風烈、必變、蓋畏レ天也、と云ふが如きは、理學より之を
見て愍笑せざるを得ず。迅雷は電氣なり、「フランクリン」氏の發明、これを導て之を避くるの法あり、何ぞ必ず
しも之を恐れて徒に顏色を變ずるを須たん、孔子も亦不學なる哉とて、僅に此一事を以ても小學の童子に向て經
書全面の信を失ふことなれども、宗敎家が空漠の際に幽冥を説くものは、理を以て之を駁せんとするも、恰も利
刀を以て風を切るが如く、手に應ふるものなし。手に應へずして自然に情に感じ、自然に身を脩め德を愼しむの
元素たる可し。士人以下々流の人民には宗敎の信心を養はしむること等閑に附す可らざるの要にして、我輩が常
に我國在來の寺院を害することなく、政治に影響なき限りは勉めて之に便利を授け、或は其托鉢勸化を自由なら
しめ、或は學校の建物を説法の用に貸し、或は囚獄又は海陸軍兵卒の屯所に憎侶を聘して法を説かしむる等、全
く政治に離れ又理論に關せずして純然たる德風を無形の際に厚からしめんことを冀望するも、其微意蓋し此に在
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓を近代の進化論等に適合せしめんとして、往々牽強
＊一行読めず＊
〓そて〓〓ることなからしめんとする者なきに非ざれども、畢竟無益の勞のみならず、唯徒に宗敎の弱點を示す
に足る可きのみ。道德宗敎と物理數論とは其性質の異なること男女の如し。然るを男子にして女裝し。女子にし
て男子を學ぽんとするは、自から求めて自家の缺典を摘發するものと云ふ可し。故に宗敎道德にして苟も其生存
を謀らば、唯怠さに敷理の外に逍逞して他と論鋒を交るなきを勉む可きのみ。若しも然らずして妄に爭端を開き
たらば、永き年月の間には途に非教義の根底より癈滅するの恐なきに非ざるなり。）
方今憂世の士君子が頻りに徳教の事を苦慮し、我國に西洋の新主義を入れてより以来、德風次第に敗頽して人
民の擦る可き標準を失ひ、一身一家より戸外の人事政事論に至るまでも、唯一筋に西洋流の智識主義に依賴して、
其趣を讐へて云へば俗に所謂雪駄片足に下駄片足なるものゝ如く、智に偏して德を忘れ、底止する所を知る可ら
ず、今これを救ふの術を求るに、耶蘇教に依賴す可らず、佛敎に托す可らず、先づ支那の儒道ならんとて、俄に
其道を呼返すの方法を講ずるが如くなるは、畢竟士君子其人が嘗て儒書を讀て心に感じたることあるが故に、自
身今日の道心は全く儒書に教へられて得たるものなりと自から信じ、人も亦己れに傚ふて儒書を講じたらば似我
の第二世を生ず可しと臆定したることならんと雖ども、其實は夫子自から夫子を知らざるものなり。此流の士君
子が嘗て儒書を見て之に感じたるは相違もなきことにして、我輩とても不敏ながら之を讀て之に感じたることも
あり。儒書能く人を感動せしむることありと雖ども、其感勁する所の本體は封建の武士にして、儒書の意味は封
建の気風に化して常時の事を鎬したるのみ。今や日本は封建に非ず。内外の事務非常に多端にして、講讀す可き
書も亦隨て少なからず。智學に徳學に、理論の高きものあり、主義の深きものあり。新著百出、新説隨て出でゝ
隨て新奇なり。斯る繁雑の文事世界に於て、儒書の如きは亦唯一種の古書たるに過ぎず。封建の時代に在てすら
尚且人心を制するを得ざりしものなり。況や今の文明世界に於てをや。萬々其效を期す可らず。是即ち我輩が道
の標準に儒敎を賴まずして唯我士人忠誠の氣風に依賴せんと欲する由緣なり。又其以下に至ては道德一偏の宗
敎に依らしめんと云ふも、敢て儒敎を忌むの私心に非ず、主義の雜駁なること儒敎の如きは、理論と兩立す可ら
ざるもの多きが故に、寧ろ全く數理に離れたる宗敎を擇びたるまでのことなり。我日本の下流には宗敎の信心甚
だ洽ねくして、上流士人の間には報國盡忠の資質乏しからず、故に此信心を妨げずして之を養はしめ、此資質に
附與するに知見の材料を以てするときは、忠誠の品格は益高尚を加へて其医域を廣くし、宗敎の信心は愈厚くし
て自由なる可し。我日本國民道德の標準は素より既に備はりて、今後尚次第に進行可きものなり。日本は不德の
國に非ず、雪駄片足下駄片足に非ず。此德義を維持して内治に妨なし、叉外國に傀ぢざるなり。
〔十一月二十九日〕