「東京大阪間の銕道聯絡」
このページについて
時事新報に掲載された「東京大阪間の銕道聯絡」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
東京大阪間の銕道聯絡
我日本政府に於ては中仙道を經て東京大坂間の銕道聯絡を急がんがため工部省に命して早々其工事に着手せしめ其費用の内として來る明治十七年度に於て金五十万圓を別途同省にに下附せらるべしとなり我國に銕道の必要なる固とより牒々の論を俟たず殊に東京大坂間の線路の如きは就中必要のものにして其有無并に布設の遅速は全國の富強文明に關すること少なからざるを以て我政府が此間の銕道聯絡を急がんとするは社會上并に政事上より觀察して甚た其當を得たる企なりと云はざるを得ず今東京より大坂に達するまでの既成未成の銕道路線を撿するに東京より高崎に至る日本鉄道會社の路線は既に本庄まで落成し高崎に達するも亦甚た近きに在り又大坂より京都を經て大津に至り夫より十五里の空間を置き更に長濱より起て關ヶ原に至るまでの工部省の線路は既に落成して當時正に運輸の業に從事し關ヶ原より大垣に至るの部分も時日を失はず起工すべき手筈なりと云へりこれに由りてこれを視れば東京大坂間の銕道を聯絡せんとするには高崎より大垣に至る七十里内外の線路と長濱より大津に至る十五里の線路とを布設して始めて其功を全くするものなり而して又此銕道聯絡の費用は果して幾万の金を要するやは我輩未た聞く處なしと雖とも先例に依り工部省の布設したる鉄道の費用を算するに明治五年落成の東京橫濱間の線路は一里に付四十一万圓計りを費し明治七年落成の神戸大坂間の線路は一里に付凡五十万圓を費したり今日よりこれを見れば頗る過當なる費用なるが如しと雖とも當時我國人の斯る工事に不案内なると此等線路の停車塲建築の壮大なる鉄道敷地の廣きなど一体に工事の念入りたる所あるとに因りて斯る過大の費用を要したるならんと察せらるゝなり左ればにや此等の線路に次ぎ明治九年落成の大坂京都間の線路并に同十二年落成の京都大津間の線路の如きは其費用一は一里に付凡廿五万圓一は同断凡十六万圓までに减少したり思ふに長濱地方の新線路の如き柳ヶ瀬の隧道は格別其餘の部分に属するものは其費用必ず又大に减少したるや疑を容れざるなり殊に頃日我輩が慥なる筋より聞き得たる報道に依れば日本鐵道會社の既成線路上野より本庄に至る五十一英里四分一の銕道布設費は戸田川銕橋架設落成までの工費を見積り總計百六十三万五千八百圓計りなりと云へりこれを日本里程に直すときは二十一里弱にして其布設費一里に付七万七千圓計りの小額なり但し上野本庄間の銕道を取てこれを東京橫濱間又は神戸京都間などのものに比すれば其搆造の精粗固より同日の論にあらずと雖とも我々日本人の銕道を渇望する情に於ては仮令粗惡にても其用を達すれば足れり决して高價の銕道を布設して富を妝ふの餘力なきものなりと承知するが故に今回中仙道の線路を布設するに於ても上野本庄間〓の銕道にして不足なかるべし就ては中仙道地方山路の險ありために費用の嵩むべき見込ありとして十分に其割を取り一里に付十万圓の布設費を要すとすれば高崎より大垣までの分七百万圓長濱より大津までの分百五十万圓二項合して八百五十万圓許りなり大に工事に念を入るゝも千万圓を超過することなかるべし千万圓は百万圓の十倍五十万圓の二十倍にして強ち小額の金にあらずと雖とも我日本國の身代に取りて决して驚くべき程の金額にはあらざるなり然るに今我日本政府が此銕道聯絡を急がんがために工部省に下附する別途金の高を聞けば明治十七年度に於て僅々五十万圓に過きずと云へり若し此割合を以て此工費を給することとせば東京大坂間に銕道聯絡の日は今より二十年の未來即ち明治三十七年の遠きに在ること數理に於て蔽うべからざる明々白々の事實なり左りとては餘り緩慢に過くるの嫌あるを免かれざるを以て我輩は信ず日本政府が中仙道の銕道を急くの意は今より二十年の中に成就せば足れりと云ふが如きものにあらずして必ずや今少しく此工事を急ぎ十七年度以後會計上の都合に因りては一年に二三百万圓乃至四五百万圓を別途に下附して直に其功を成し明治三十七年の遠きを待たずして兩三年間に東京と大坂とを聯絡し尚進て西は九州東は青森西南東北日本國の地形に沿ふて恰も交通神經の本幹を通するが如きも甚た近きに在る可しと知らず我政府の意向は果して我輩の信任をして空しからしめざるや否や