「政事と敎育と分離す可し」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「政事と敎育と分離す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

政治は人の肉體を制するものにして敎育は其心を養ふものなり。故に政治の働は急劇にして敎育の效は緩慢な

り。例へば一國に農業を興さんとし商賣を盛ならしめんとし、或は海國にして航海の術を勉めしめんとするとき

は、其政府に於て自から奬勵の法あり。蓋し農なり商なり又航海なり、人生の肉體に屬する事にして近く實利に

接するものなれば、政府は其實際の利害に就き或は課税を輕重し保護を左右する等の術を施して、忽ち之を盛な

らしめ又忽ち之を衰へしむること甚だ易し。即ち政治固有の性質にして、其働の急劇なるは事實の要用に於て免

かる可らざるものなり。其細目に至ては、一年農作の饑饉に逢へば之を救ふの術を施し、一時商況の不景氣を見

れば其囘復の法を謀り、敵國外患の警を聞けば直に兵を足し、事平和に歸すれば復た財政を脩る等、左顧右視、

臨機應變、一日片時も怠慢に附す可らず、一小事件も容易に看過す可らず。政治の働活潑なりと云ふ可し。

又政治の働は右の如く活潑なるが故に利害共に其痕跡を遺すこと深からず。例へば政府の議定を以て一時租税

を苛重にして國民の苦しむあるも、其法を除くときは忽ち跡を見ず。今日は鼓腹撃壤とて安堵するも、忽ち國難

に逢ふて財政に窘めらるゝときは復た忽ち艱難の民たる可し。況や彼の戰爭の如き、其最中には實に修羅の苦界

なれども、事平和に歸すれば禍を免かるゝのみならず、或は禍を轉じて福と爲したるの例も少なからず。古來暴

*一行読めず*

氣〓を滅して湯武の時に人民安しと雖ども、湯武の後一、二世を經過すれば人民は國租の餘德を蒙らず・和漢の

歴史に徴しても比々見る可し。政治の働は唯其當時に在て效を呈するものと知る可きのみ。

之に反して敎育は人の心を養ふものにして、心の運動變化は甚だ遲々たるを常とす。殊に智育有形の實學を離

れて道德無形の精神に至ては、一度び其體を成して終身變化する能はざるもの多し。蓋し人生の教育は生れて家

風に敎へられ、少しく長じて學校に敎へられ、始めて心の體を成すは二十歳前後に在るものゝ如し。此二十年の

間に敎育の名を專にするものは唯學校のみにして、凡俗亦唯學校の敎育を信じて疑はざる者多しと雖ども、其實

際は家に在るとき家風の敎を第一として、長じて交る所の朋友を第二とし、尚これよりも廣くして有力なるは社

會全般の氣風にして、天下武を尚ぶときは家風武を尚び朋友武人と爲り學校亦武ならざるを得ず。文を重んずる

も亦然り、藝を好むも亦然り。故に社會の氣風は家人を敎へ朋友を敎へ又學校を敎るものにして、此點より見れ

ば天下は一場の大學校にして諸學校の學校と云ふも可なり。此大學校中に生々する人の心の變化進歩するの樣を

見るに、決して急劇なるものに非ず。例へば我日本にて古來足利の末葉戦國の世に至るまで、文字の敎育は全く

佛者の司どる所なりしが、德川政府の初に當て主として林道春を採用して始めて儒を重んずるの例を示し、之よ

り儒者の道も次第に盛にして碩學大儒續々輩出したりと雖ども、全國の士人が全く佛臭を腕して儒敎の獨立を得

るまでは凡そ百年を費し、元祿の頃より享保以下に至て始めて世相を變じたるものゝ如し。( 德川を始として諸

藩にても新に寺院を開基し又は寺僧を聘して政事の顧問に用るが如き習慣は、儒敎の漸く盛なると共に廢止して

享保以下に之を見ること少なし。)又近時の日本にて、開國以來大に敎育の風を改めて人心の變化したるは外國

交際の刺衝に原因して、其迅速なること古今世界に無比と稱するものなれども、尚且三十の星霜を費し、然かも