「政事と教育と分離す可し」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「政事と教育と分離す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

政事の性質は活潑にして敎育の性質は緩慢なりとの事實は前論を以て既に分明ならん。然ば則ち此活潑なるも

のと緩慢なるものと相混一せんとするときは、自から其弊害を見る可きも亦免かる可らざるの數なり。譬へば藥

品にて「モルヒネ」は劇劑にして肝油鐵劑は尋常の強壯滋潤藥なり。劇痛の患者を救はんとするには「モルヒネ」の

皮下注射方最も適當にして、醫師も常に此方に依賴して一時の急に應ずと雖ども、其劇痛の由て來る所の原因を

求めたらば、或は全身の貧血、神経の過敏を致し、時候寒暑等の近因に誘ばれて頓に神經痛を發したるものもあ

らん。全身の貧血虛脱とあれば肝油鐵劑の類これに適當す可きなれども、目下正に劇痛を發したる場合に臨ては

其遠因を求めて之を問ふに遑あらず、卽ち「モルヒネ」の要用なる由緣なり。然るに其醫師が劇痛に投ずるに「モ

ルヒネ」を以てするのみならず、患者の平生に持張して徐々に用ふ可き肝油鐵劑をも、其處方を改めて鎭痛卽效の

物に易へんとするときは、強壯滋潤の目的を達すること能はずして、却て鎭痛療法の過激なるに失し、全體の生

力を損ずることある可し。故に今一國の政治上よりして天下の形勢を觀察したらば、所望に應ぜざるものも甚だ

多からん。農を勸めんとして農業興らず、工商を導かんとして景氣振はず、或は人心頑冥固陋に偏し、又或は活

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〓〓〓〓せんとならば、〓〓の利害を示して之れを左右す可し。其效驗の著しきは「モルヒネ」の劇痛に於けるが

如きものあらんと雖ども、今年今月の農工商を振はしめんとて俄に其敎育の組織を左右すればとて何の效を奏す

可きや。又或は天下の人心が頑冥固陋なり活潑輕躁なりとて、其頑冥輕躁の今日に於て今の政治上に妨あるもの

を改良し、正に今日の所望に應ぜしめんが爲にとて之を政治の方略に訴るは可なり。例へば日本士族の帶刀は自

から其士人の心を殺伐に導き且又其外面も文明の體裁に不似合なればとて廢刀の命を下だしたるが如く、政治上

に斷行して一時に人心を左右するは劇薬を用ゐて救急の療法を施すものに等しく甚だ至當なりと雖ども、此救急

の政略を施すに兼て又これを敎育の組織に求めんとするは、肝油鐵劑に求るに鎭痛の卽效を以てするに異ならず。

此藥劑にして能く此效を奏す可きか、若しも然らしめんとするには、先づ此藥に配合するに他の藥物を以てし其

性質を變化せしむることなれば、徐々たる滋潤強壯の效力は失ひ盡さゞるを得ず。卽ち敎育緩慢の働を變じて急

劇と爲し、十年二十年に収む可き結果を目下に見んとするものなれば、敎育本色の效力は極めて薄弱たらざるを

得ざるなり。加之其政治上に於て目下の所望は、或は十年を出ですして大に望むに足らざるの日に會することも

ある可し。例へば今日こそ農業々々と云へども、三、五年の中には農より矢商の缺典の見出すことのある可きが

如し。實に政治は臨機應變の活動にして、到底敎育の如き緩慢なるものと歩を共にす可き限りに非ず。若しも強

ひて之を一途に出でしめ、今年今月の政治の方向と今年今月の敎育の組織とを併行せしめて、敎育の卽效を今年

今月に見んとするときは、其敎育は如何樣にして何の書を讀ましめ何の學藝を授るも純然たる政治敎育と爲りて、

社會物論の媒介たる可さのみ。昔者舊水戸藩に於て學校の敎育と一藩の政事とを混一して所謂政治敎育の風を成

し、士民中甚だ穩かならざりしことあり。政敎混一の弊害、明に證す可し。唯我輩の目的とする所は學問の進歩

と社會の安寧とより外ならず。此目的を達せんとするには、先づ此政敎の二者を分離して各獨立の地位を保たし

め、互に相近づかずして遙に相助け、以て一國全體の力を永遠に養ふに在るのみ。諸外國にても亞米利加の政治、

共和なれども、其敎育は必ずしも共和ならず。日耳曼の政治、武断なれども、其學校は武断の主義を教るに非ず。

佛蘭西の政體は毎度變革すれども敎育上には毫も變化を見ず。其他英なり荷蘭なり又瑞西なり、政事は政事にし

て敎育は敎育なり。其政事の然るを見て敎育法も亦然らんと思ひ、甚しきは數十百年を目的にする敎育を以て目

下の政事に適合せしめんとするが如きは、我輩は學問の爲にも又世安の爲にも之を取らざるなり。( 以下尚餘論

あり。)                                                                                                    〔十二月八日〕